【1分でわかる】衛瓘の生涯:鍾会の反乱を制し鄧艾を葬った冷徹な策士【徹底解説】

衛瓘

1分でわかる忙しい人のための衛瓘の紹介

衛瓘(えいかん)、字は伯玉(はくぎょく)、出身は河東安邑、生没年(220~291年)
魏から西晋にかけての重臣であり、同時に書の名手としても知られる人物。少年期に父を失ったが孝行で名を立て、閔郷侯を継いだ。

魏では廷尉卿として公平な裁きを行い、蜀討伐では監軍として鄧艾・鍾会を監察。やがて鍾会の反乱を鎮圧する一方、鄧艾父子を斬殺させたことで冷徹な評価も残した。

晋朝では尚書令・司空を歴任し、辺境の鮮卑や烏桓を懐柔策で制御。だが太子問題で賈南風の恨みを買い、最期は楚王司馬瑋の手で一族とともに誅殺された。書法に優れ「一台二妙」の一人として名を残し、その生涯は栄光と悲劇の両面を映す鏡のようであった。

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衛瓘を徹底解説!鍾会の反乱を鎮圧した知謀と悲劇の最期

幼少期と孝行心:父を失い爵位を継ぐ

十歳で父を亡くした衛瓘は、普通ならただの「早くに親を亡くした不幸な少年」で終わるところを、やたらと孝行ぶりを強調して生き残りを図った。その姿が周囲に評価され、父の爵位を受け継ぐことになる。だが、実態は子どもに大人の名札を押しつけたようなものだった。

やがて尚書郎に任命される。尚書台は権力の中枢、つまり地雷原のど真ん中だった。派閥争いが渦巻くその職場で、母は「このままでは敵を作りすぎる」と心配し、息子に退くよう勧めた。

衛瓘はこれを素直に受け入れ、自ら通事郎に異動願いを出したのち、中書郎へ転任する。要するに、危険な椅子取りゲームから一歩引いたのだ。親孝行とは単に親を大事にすることではない。時にキャリアを犠牲にしてでも生き延びる選択を取ることを意味していた。

曹魏仕官時代:派閥を避けて生き残る知恵

魏の宮廷は派閥争いの見本市だった。あっちにつけばこっちに刺される、まさに政治版の無差別格闘技。そんな修羅場で衛瓘は「俺は誰の味方でもありません」と涼しい顔で中立を装った。派閥に加わらないという選択肢自体がギャンブルだが、彼は徹底して距離を取った。結果、傅嘏から「お前は寧武子みたいだ」と褒められる。寧武子なんて知らない読者も多いだろうが、要するに危険な時代に空気を読みまくるタイプの代名詞だ。

この態度は、ただの事なかれ主義ではない。彼は散騎常侍から廷尉卿へと着実に昇進し、どこかで必ず評価を得ている。敵を作らず、それでいて有能に見せる。まるで飲み会で最後まで酔いつぶれず、全員と写真だけは撮っておく会社員のようだった。

司法官としての評価と公平な裁き

廷尉卿となった衛瓘は、とにかく法理を優先した。親が泣こうが金持ちが口を挟もうが、案件は案件として処理する。これが原因で「冷酷だ」と嫌われもしたが、逆に「公正だ」と一目置かれた。

この感情を切り捨てる癖は、後の歴史的大事件でも顔を出す。鄧艾を処刑させる決断や、鍾会の反乱に対応する冷静さも、すべてここに根っこがあった。彼にとって権力者も名将も、法の前ではただの被告だったのだ。

蜀討伐への参加:鄧艾・鍾会の監軍に任じられる

景元四年(263年)、魏はついに蜀を滅ぼすべく大規模な遠征を開始した。衛瓘は監軍という役目を負わされ、鄧艾と鍾会という二人の大将の行動を監察する立場に置かれた。監軍は一見すると参謀のようだが、実際には「両軍の行動を記録し、中央に報告する密使」である。つまり将軍にとっては煙たい存在であり、衛瓘にとっては命がけの任務だった。

鄧艾は大胆な軍略をもって剣閣を迂回し、険しい山道を抜けて成都に迫る。この作戦は常識外れと評されながらも見事に成功し、蜀を降伏に追い込んだ。だが、その功績はあまりに大きく、同僚の鍾会の嫉妬を呼んだ。鍾会は表向きは冷静な将だが、胸の内では「蜀を滅ぼしたのは自分の手柄であるべきだ」と考えていたのである。

衛瓘はこの二人の間に立ち、微妙な均衡を維持しなければならなかった。功績を挙げた鄧艾を讃えすぎれば鍾会の敵意を買い、鍾会に肩入れすれば鄧艾の怒りを招く。どちらに転んでも命が危うい綱渡りであり、監軍の仕事は蜀の険しい山道よりも危険だったと言えるだろう。

鄧艾の暴走

蜀漢を滅ぼした英雄・鄧艾は、戦後の処理でも才覚を発揮したいと意気込み、蜀の民をなだめる懐柔策を打ち出した。さらに東呉に対しても「俺が柔らかくしてやる」とばかりに善意のパフォーマンスを展開する。ところが、その熱意は上司の司馬昭から見れば「ちょっと待て、勝手に動くな」という厄介な独走でしかなかった。そこで伝令役に立たされたのが衛瓘である。「人事や任命はまず朝廷に報告せよ、現場のノリで決めるな」とのメッセージを伝えた。つまりは上からの冷水を浴びせる役回りだ。

鄧艾は「規則に縛られて動けなければ、せっかくの好機が腐ってしまうではないか」と反論した。常識的な現場感覚だが、これを待ってましたと利用したのが鍾会である。彼は鄧艾の筆跡を器用に真似し、書簡を改ざんして反逆風味を盛り込み、司馬昭の疑心を煽ったのだ。
しかも鍾会はさらに悪辣で、衛瓘・胡烈・師纂らと結託して「鄧艾が反心を抱いています」と密告状を送る。ここに至って、司馬昭の頭の中では「忠臣・鄧艾」が「危険人物・鄧艾」に変換されてしまった。

鄧艾逮捕の危険な任務

景元五年(264年)、司馬昭はついに決断する。檻車で鄧艾を逮捕し、都で裁けと命じたのだ。
数万の兵を掌握する将軍を、たった一枚の命令書で捕らえよという狂気のシナリオである。
鍾会は「先に成都へ行って逮捕せよ」と兵力の少ない衛瓘を派遣。もし鄧艾が抵抗して衛瓘を斬れば「やっぱり反逆だ!」と証拠になるし、鄧艾が従えば自分の手柄になる。どちらに転んでも損はないという、吐き気のするような計算だった。

衛瓘も馬鹿ではなかった。自分が生け贄にされていることを承知で、深夜の成都に到着するとまず鄧艾の将軍たちに檄文をばら撒いた。「詔が捕らえるのは鄧艾ただ一人。他の者は罪に問わない。出頭すれば爵位や恩賞はこれまで通り。拒めば三族皆殺し」と。ここで三族処刑をチラつかせるあたり、脅しと懐柔の絶妙なミックスである。実際、鶏が鳴く頃には各部将がぞろぞろと衛瓘の軍営に集まった。

しかし、肝心の鄧艾と息子は何も知らず眠っていた。夜明け、衛瓘は檻車を引き連れて成都の宮殿に突入し、布団の中の親子を捕縛。鄧艾の親衛隊は当然ブチ切れて衛瓘の軍営に押しかける。「ふざけるな!主君を解放しろ!」と怒声を浴びせられた衛瓘は、ここで妙手を打つ。軽装で出迎えると、途中まで書いた奏章を取り出し「俺も冤罪だと思っている。いま司馬昭に弁護の文を送ろうとしているんだ」と見せかけたのだ。親衛隊は「なら信じよう」と引き下がり、鄧艾父子は完全に手中に収まった。

こうして、鍾会が仕掛けた死地のミッションを、衛瓘は冷徹さと機転で切り抜けた。英雄鄧艾は一夜にして囚人へ成り下がる。

鍾会の反乱と衛瓘の決断

景元五年(264年)、鍾会は成都に入城すると、まず囚われの鄧艾を遠方へ送還し、自らの謀反計画を動かし始めた。翌日、彼は護軍・郡守・牙門以上の高級将校を集め、「郭太后が崩御された」と嘘の訃報を告げ、勝手に葬儀を挙げる。そして偽造した郭太后の遺詔を掲げ、堂々と「司馬昭を討つ」と挙兵を宣言したのである。軍権を握るため、彼は自らの親信に諸軍の指揮を代行させ、胡烈ら魏の将軍たちは旧蜀の官舎に幽閉してしまった。

衛瓘も成都宮殿に呼び出され、鍾会と長時間議論させられる羽目になった。その席で鍾会は「胡烈らを皆殺しにする」と平然と語った。さすがに衛瓘は断固として反対し、両者の間に不信の溝が広がっていく。とはいえ監軍の立場上、あからさまに拒絶すれば命が危うい。衛瓘は便所に立つ隙を利用し、胡烈の旧部下に鍾会の反逆計画を密かに伝え、軍中に情報を拡散させた。

一方で胡烈も動いた。鍾会の幕僚であった督丘建の助けを借りて兵士と接触し、「鍾会はすでに大きな穴を掘り、諸軍を皆まとめて生き埋めにする準備をしている」と噂を流した。このデマは瞬く間に広がり、ただでさえ遠征続きで不満を募らせていた魏軍の心を一気に怒りに傾けた。皆が「もう鍾会を討つしかない」と腹を決めるが、肝心の監軍である衛瓘はまだ宮中に縛られており、誰も先に動けない。

その夜、鍾会は衛瓘を徹夜で拘束し、「共に謀反を起こせ」と迫った。二人は刀を膝に置き、互いを睨み合うという緊迫した状況。まるでチキンレースを夜通しやっているような、実にバカバカしくも命懸けの場面である。
鍾会はついに折れ、「衛瓘、お前が諸軍を慰撫してこい」と命じた。衛瓘はここぞとばかりに「大将自ら行くべきでは」と挑発して見せたが、鍾会は「いや、お前が先に行け」と譲歩した。こうして衛瓘は宮殿を抜け出すことに成功する。

しかし鍾会もすぐに後悔し、家臣を走らせて衛瓘を呼び戻させた。ここで衛瓘は「持病の眩暈が再発した」と芝居を打ち、床に倒れ込み、徹底的に病人を演じた。さらに自宅に戻ると大量の塩湯を飲んで嘔吐を繰り返し、体調不良を偽装。もともと虚弱体質だった彼の演技はリアリティ抜群で、医者や鍾会の使者も「これはもう助からない」と報告した。鍾会は安心し、監視を緩めてしまう。

その隙に衛瓘は檄文をしたため、「鍾会は逆心を抱いている、諸軍よ蜂起せよ」と訴えた。既に心の準備が整っていた各軍は翌日の昼、成都で一斉に決起。鍾会の兵を急襲し、混乱の中で鍾会は討ち取られた。こうして反乱は鎮圧され、衛瓘はただちに諸軍を再編成し、乱後の魏軍を再び統率したのである。

鄧艾の最期:衛瓘の指示で田続が斬殺

景元五年(264年)、鍾会の反乱が瓦解した直後、鄧艾の運命はなおも揺れ動いていた。 部下たちは「黒幕は鍾会にあり」と悟り、囚車に押し込められた鄧艾を救い出し、成都へ迎え戻そうと追走した。 忠臣の熱は冷めておらず、英雄奪還の機運がむしろ高まっていたのである。

しかし衛瓘は、この動きこそ最も恐れたものだった。 もし鄧艾が解放されれば、鍾会の讒言に乗じて鄧艾を陥れた自らの罪が露見する。 同時に、鍾会の乱を収めた功績も分散してしまう。 衛瓘はためらわなかった。 彼は護軍の田続を呼びつけ、綿竹で鄧艾父子を先に斬るよう命じたのである。

この任務を託された田続には、実は因縁があった。 以前、鄧艾が江油を進軍した際、地形の険しさを理由に田続が躊躇したことがある。 そのとき鄧艾は見せしめに彼を斬ろうとし、部下の必死の嘆願で命拾いした。 屈辱を味わった田続に、衛瓘は冷酷な一言を添える。 「江油の恥を今こそ晴らすがよい」 復讐心を焚きつけ、刃を振るわせるための最も卑劣で効果的な燃料だった。

やがて鄧艾父子は田続の剣にかかり、その生涯を閉じた。 蜀を滅ぼした英雄の最期は、陰謀と復讐の交錯の中であまりにあっけなく終わった。

蜀滅亡後の論功行賞と衛瓘の辞退

蜀漢が滅んだ後、朝廷では衛瓘に加封を与えるべきだとの議論が巻き起こった。
しかし衛瓘は固辞した。 「蜀を平らげたのは諸将兵の力であり、鄧艾と鍾会の二人は自らの野心ゆえに滅んだにすぎぬ。 私は智を少し巡らせただけで、主導者ではない」 そう述べ、あくまで自分の功を控えめに語ったのである。

とはいえ、衛瓘の冷徹な策謀がなければ鄧艾も鍾会もここまで急速に失脚しなかったのは事実だ。 その人物が「功は皆のもの」と謙譲して見せるのは、皮肉であり、同時に政治的な計算でもあった。 白々しいほどの謙虚さが、逆に彼のしたたかさを証明している。

結局、衛瓘は褒賞そのものは辞退したものの、軍事と統治の要職を歴任することになる。
使持節・都督関中諸軍事・鎮西将軍に任じられたのち、さらに都督徐州諸軍事・鎮東将軍へと転任し、爵位も増封され菑陽侯に列した。
名目的には「手柄を独占しない謙将」、しかし実際には中央から厚く信任され続ける存在として、彼は生き残り続けたのである。

晋朝での北方政策と鮮卑対策

西晋成立後、衛瓘はまず征東将軍に昇進し、爵位も菑陽公へと進められた。 泰始五年(269年)には都督青州諸軍事・青州刺史となり、 さらに征東大将軍・青州牧を兼ねた。 関中、徐州に続き、青州でも政績を挙げる。

その後、泰始七年(271年)には、 北方の最前線、幽州へと転任。 征北大将軍・都督幽州諸軍事・幽州刺史に加え、烏桓校尉も兼ねる。 任地はまさに「遊牧民族と直で殴り合う」修羅場であり、 普通の官僚なら胃に穴が開くような職務であった。

着任早々、衛瓘は幽州が広すぎて統治が行き届かないと判断し、 朝廷に上表して平州を新設するよう進言。 泰始十年(274年)、ついに平州が置かれ、衛瓘自身がその都督に任じられた。 これにより魏晋以来の北方防衛線は整理され、 「誰がどこを守るか」が明確になったのである。

だが脅威は依然として続いた。 東には烏桓、西には拓跋鮮卑の力微がいて、どちらも侵入を繰り返した。 咸寧元年(275年)、拓跋力微は息子の拓跋沙漠汗を晋に朝貢させるが、 衛瓘は「この若者、ただ者じゃない。将来の爆弾になる」と直感する。 そこで彼は沙漠汗を都に留め置くよう請願し、 さらに鮮卑諸部の有力者に金品をばらまいて分断工作を仕掛けた。

結果、拓跋部の内部で足並みは乱れ、外部の諸部族も懐柔されて晋に靡いた。 さらに衛瓘は庫賢にも賄賂を渡し、烏桓と鮮卑を互いに牽制させることに成功。 やがて烏桓は降服し、拓跋力微は憂悶のうちに死去。 「戦わずして勝つ」北方工作は見事に奏功した。 こうして晋の辺境は一時的に安定を取り戻すのである。

尚書令・司空としての政務と九品中正制批判

咸寧四年(278年)、衛瓘は都へ召されて尚書令・侍中に任じられた。 さらに太康三年十二月甲申(283年1月28日)には三公のひとつ司空に就任し、侍中と尚書令も兼ねるという「役職フルセット」状態となる。 だが彼の評判は権力の多さではなく、その政治の姿勢にあった。 政務は簡素で無駄がなく、朝野から「ようやくまともな官僚が来た」と称賛された。 晉武帝は褒美として繁昌公主を衛瓘の第四子・衛宣に嫁がせるほどの信任を示した。

衛瓘の特徴は、ただ事務を処理するだけの官僚ではなく、政治理念を持っていた点である。 彼が真っ向から問題視したのは「九品中正制」だった。 これは魏から続く身分・家柄による官僚登用制度で、要するに「コネと格付けで決まる官僚人事」だった。 衛瓘はこれを「中間で汚れをまき散らし、金と地位で品格が決まる。 人は徳を棄て、学問を軽んじ、刀の刃先で数を競うように小利を奪い合う。 風俗を壊すだけで、害は小さくない」と断じたのである。

代わりに彼が提案したのは、古代の郷里による人物選挙制度の復活だった。 「朝臣が互いに推薦し合えば、才能ある人材が幅広く登用される。 権力者の私心を抑え、在位者の明暗をも自然と検証できる」と衛瓘は主張した。 太尉・司馬亮らと連名で上奏したこの改革案に対し、晋武帝も「もっともだ」と同意した。 しかし、肝心の制度改革が実現する前に武帝が崩御してしまい、衛瓘の構想は未完に終わった。

もしこの提案が実行されていたら、西晋の官僚登用の腐敗も多少は抑えられていたかもしれない。 だが現実は、衛瓘の理想は紙の上にとどまり、九品中正制はその後も続いてしまうのである。

太子問題と賈南風の恨み

泰始三年(267年)、晋の武帝司馬炎は早々に皇子司馬衷を太子に立てた。だが宮廷に仕える者なら誰もが知っていた。太子は聡明さを欠き、政務を判断する力も乏しい。衛瓘もその現実を重く見て、幾度も太子の交替を進言しようと考えたが、正面から口にする勇気はなかった。
そんなある日、酒宴の後に酔いを帯びた衛瓘は、ついに決断する。武帝・司馬炎の御床に跪き「臣に申し上げたいことがございます」と切り出す。武帝が「何を申すのか」と促すと、衛瓘はしばし逡巡したのち、御床に手を触れてぼそりと「この座、惜しいものですな」と漏らした。
武帝はその言葉の裏にある真意を理解した。太子が帝位にふさわしくないという批判。しかし彼はとぼけて「卿は酔っておるな」と受け流す。衛瓘はその態度を見て悟った。主上は太子を変える気など毛頭ない、と。以後は口を閉ざし、二度と表立っては進言しなかった。
だがこの密やかな会話が後に禍根を残す。太子妃の賈南風が耳に入れると、「わが夫を侮辱した」と激しい怨みを抱いたのである。衛瓘の軽い一言が、やがて一族を巻き込む悲劇の引き金となるとは、その時は誰も想像していなかった。

楊駿政権との対立と失脚

太熙元年(290年)、病床の晋武帝の傍らで、権力争いはもう始まっていた。外戚の楊駿は、次代の天下を自分の手に握るため、まず衛瓘に狙いを定める。やり口は直接的ではなく、姑息。息子の衛宣を標的にしたのだ。
「皇家の体面を汚した」と捏造し、衛宣を悪者に仕立て上げ、公主との離婚を強要。結果、衛瓘は「子を正せない親」として責任を負わされ、太保という名ばかりのポストに押し込められた。これは名誉職というより、政治的な「冷凍保存」である。

だが、笑えないのはこの先だ。武帝はのちに「どうやら楊駿と黄門侍郎が仕組んだ陰謀らしい」と気づき、復縁を認めようとした。ところが衛宣はすでに病没。復縁話は白紙どころか、死亡届で終わる。衛瓘は「冤罪を晴らすどころか、息子まで奪われた」という二重の屈辱を味わった。
歴史書には「衛瓘、権力中枢を退く」とだけ記される。だが実態はもっと惨めだ。生涯を法と秩序に捧げてきた男が、最後は息子のスキャンダル(しかも冤罪)で蹴落とされる。

最期と一族の悲劇:賈南風の謀略に倒れる

太熙二年(291年)、衛瓘の運命は皮肉なまでに急転した。皇后となった賈南風は、外戚・楊駿を打ち倒すために司馬亮や司馬瑋らと手を組み、衛瓘をも取り込んだ。太保に加え録尚書事という重職を与えられ、剣を履いて朝廷に上る栄誉まで授けられたのである。昨日まで冷遇されていた老人が、突如として権力の中枢に返り咲いた。だが、それは祝宴の前に用意された毒酒にも等しい地位だった。

衛瓘と司馬亮は、共に若き司馬瑋の凶暴な性格を恐れ、「この男を重用すれば国は乱れる」と進言した。しかし朝臣たちは誰も賛同せず、二人だけが浮き上がった。結果、司馬瑋の恨みを買う。さらに衛瓘は楚王の側近、公孫宏や歧盛を「品行が下劣」として糾弾し、捕縛を計画した。ところが逆に、彼らは偽の詔を捏造し、李肇を通じて「衛瓘と司馬亮が太子を廃そうとしている」と賈南風に吹き込む。賈南風は元より衛瓘を疎んじ、「次の楊駿」になることを恐れていた。疑念は確信へと変わり、衛瓘の死刑宣告はすぐに下された。

景帝の子・司馬遐が「詔」を持って衛瓘の屋敷に現れると、周囲の者たちは「これは偽詔では」と口々に忠告した。だが衛瓘は従順すぎた。長年、法と秩序を奉じてきた男は、最後まで「朝廷の詔を疑わない」という姿勢を崩せなかったのである。結果、彼は家族もろとも捕らえられ、九人が連座して処刑された。享年七十二。法を信じ続けた法家の忠臣が、最期は法の仮面をかぶった謀略に殺されたのだ。

だが劇場はそれで幕を閉じない。衛瓘を誅した司馬瑋も、直後に賈南風の命で逆に粛清された。共犯者すら平然と切り捨てるのが、宮廷政治の恐ろしさである。やがて衛瓘の娘や菑陽国の臣下は次々と上書し、太保主簿の劉繇らも葬儀に際して涙ながらに陳情した。こうした訴えが積み重なり、朝廷はついに彼の冤罪を認める。蜀討伐の功績を改めて称え、衛瓘を蘭陵郡公に追封、邑三千戸を加増し、「成」の諡号と仮黄鉞を贈った。

爵位は孫の衛璪が継いだ。さらに後、東海王司馬越の采邑整理によって、蘭陵郡公から江夏郡公へと改封され、邑は八千五百戸にまで増えた。だが、歴史に残ったのは数字ではない。人々の記憶に刻まれたのは、法を信じすぎたがゆえに法の仮面に殺された男の、あまりに哀しい最期だった。

衛瓘の人柄と学識:法家精神と書の妙

衛瓘という人物を一言で言えば、「法の化身」だった。彼は情に流されることを極端に嫌い、法と規律を第一とした。そのため部下たちは彼を「冷酷な上司」と恐れ、友人として慕う者は少なかったかもしれない。しかし、秩序が揺らぎやすい乱世にあっては、この厳格さこそが強みでもあった。衛瓘にとって人間関係よりも法の運用こそが重要であり、その信念は生涯変わらなかった。
名将・杜預は彼を評して「小人が君子の器を持つ」と言い切った。つまり才能は一級品だが、人間性は信用できないという、痛烈な皮肉である。法を盾に他者を切り捨て、最後には鄧艾すら葬った衛瓘に対して、杜預の言葉は確かに的を射ていた。

一方で、彼にはもう一つの顔があった。書法の大家としての衛瓘である。彼は尚書台の高官として政務を取り仕切りながらも、筆を執れば別人のように流麗な草書を生み出した。その技巧は当代随一と評され、張芝と並んで「一台二妙」と称された。「一台」は尚書台の長官としての地位、「二妙」は衛瓘と張芝という二人の妙筆を意味する。政治と芸術、相反するような二つの領域を、彼は同時に極めていたのである。

とりわけ草書においては「神品」とまで讃えられた。奔放でありながら骨格を失わず、法を信じる厳格な精神が、線の一本一本に宿っていた。衛瓘の筆跡を見た者は「文字の間から法の威厳が漂う」と評し、単なる芸術ではなく、人物そのものを映し出す鏡のようだと言った。まさに法と芸術を兼ね備えた、稀有な存在だったのである。

参考文献

  • 参考URL:衛瓘 – Wikipedia
  • 房玄齡『晉書・衛瓘伝』
  • 陳壽『三国志』巻28「鄧艾鍾会伝」
  • 司馬光『資治通鑑』巻78「魏紀十」咸熙元年

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