【1分でわかる】張悌:呉最後の丞相として晋と最後の戦い【徹底解説】

張悌

1分でわかる忙しい人のための張悌の紹介

張悌(ちょうてい)、字は巨先(きょせん)、襄陽郡(現在の湖北省襄陽市)出身、(?~280年)。呉の末期に丞相を務めた人物である。
若い頃から名声を博し、諸葛恪に抜擢された。孫休の時代には屯騎校尉として仕え、のちに孫皓のもとで軍師、さらに丞相にまで昇進した。
263年の魏の伐蜀では、周囲が魏の敗北を予想する中、ただ一人魏の勝利を見抜き、的中させたことで知られる。
280年、晋の南征に際し、沈瑩らと共に決戦に挑むも大敗し捕らえられ、洛陽で斬られた。彼の殉死は呉滅亡を象徴する出来事となった。

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呉最後の丞相・張悌の決断と最期!牛渚渡江から晋との戦い、呉滅亡までを徹底解説

張悌の出自と若年期の名声

張悌は襄陽郡の出身で、字は巨先といった。幼い頃から学問や議論に秀で、「少有名理」と称えられるほど才知が知られていた。
やがて呉の重臣である諸葛恪に見出され、孫休の時代、張悌は屯騎校尉に任命された。屯騎校尉は皇帝直属の騎兵を率いる要職であり、軽い肩書きではないが、将来が期待されていたことがわかる。

魏の伐蜀に対する張悌の冷静な予見

永安六年(263年)、魏が大軍をもって蜀を攻めた。当時の呉の人々はこう考えていた。「司馬氏が権力を握ってからというもの、叛乱が続き、民心は服していない。いま遠征しても必ず失敗する」と。
根拠もなく「どうせあの政権は長くもたない」と願望を掲示板で書き込むような楽観論だった。

しかし張悌は一歩も引かず、こう論じた。
「それは違う。魏はかつて悪政で民心を失っていたが、司馬懿らが政権を握ってからは善政を行い、国は安定し、民も従っている。一方、蜀は政治も軍も乱れていて、民は疲弊し守りも弱い。今の魏は強く、蜀は弱いので攻めれば勝てる。」

さらに張悌はこう付け加えた。「仮に失敗しても大損はなく、軍を立て直して再び攻めればよい。だから魏の遠征は理にかなっている。」
呉人たちは彼を笑ったが、結果はご存じの通り。蜀は降伏し、滅亡した。張悌の見立ては正しかったのである。

孫皓の即位と張悌の重用への道、軍師から丞相へ

元興元年(264年)、孫休が崩御し、孫皓が新たに帝位についた。翌年には司馬炎が魏を奪って西晋を建国し、呉にとって最大の脅威となった。
建衡元年(269年)、左丞相の陸凱は病に伏し、死を目前にして中書令董朝を通じて後事を託した。陸凱は「何定は国政を任せるべきではなく、外に置くべきである。奚熙は小役人に過ぎず、旧制を復活させようとしているが、これも許すべきではない」と述べた。その上で「姚信、楼玄、賀邵、張悌、郭逴、薛瑩、滕脩、そして一族の陸喜・陸抗らは、清廉にして忠勤、あるいは才智に優れた者である。これらは皆、国家の柱石となる人物であり、必ず重用すべきである」と言い残した。
この遺言により、張悌は孫皓のもとで重視されるようになった。

やがて張悌は軍師へと昇進し、天紀三年(279年)、張悌はついに丞相へと昇進し、同時に領軍師將軍の職を兼ね、山都侯にも封じられた。彼は牛渚都督の何禎や滕脩らとともに軍を統括し、国政と軍事の双方を背負う立場に置かれたのである。

だが、この頃の呉はすでに衰亡の色を隠せなかった。孫皓の暴政は続き、国力は疲弊し、民心は離反していた。張悌が丞相となったのは確かに大出世ではあったが、それは繁栄を導くためではなく、滅びゆく政権の最後を支えるという重い宿命を負ったにすぎなかった。
彼の丞相就任は、呉の再生の希望ではなく、むしろ最後の抵抗を託す人事だったのである。

晋の大軍侵攻と張悌の決断

天紀三年(279年)、晋の武帝はついに呉を討つ大軍を発した。総勢二十万を超える兵力を六路に分け、王渾・杜預・王濬ら歴戦の将を総動員した布陣は、呉に最後の一撃を加えるに十分なものだった。
張悌は丞相として、丹陽太守の沈瑩、副軍師の諸葛靚、護軍の孫震らとともに、二万から三万の兵を率いて牛渚で迎え撃つこととなった。数では大きく劣る布陣であり、呉の存亡を賭けた会戦が避けられぬ状況であった。

牛渚に布陣した呉軍の中で、沈瑩はまず慎重論を唱えた。「晋はすでに蜀で水軍を鍛え上げ、今や全国を挙げて大挙している。上流の江陵や夏口は備えがなく、名将もすでに亡くなり、若者ばかりが防衛を担っている。晋の水軍は必ずこの地に至るだろう。いまは兵を蓄え、ここで迎撃すべきである。もし勝てば江西は自然に平定でき、たとえ上流が破れても取り返すことは可能だ。だが軽々しく渡江して決戦すれば、敗北のときに呉の命運は尽きてしまう」と。
沈瑩の言葉は冷静であり、守勢に徹する策であった。

しかし張悌は強く反論した。「呉の滅亡は誰の目にも明らかで、いまさら隠せるものではない。もし晋の水軍が蜀から下ってきたとき、軍心は必ず恐慌し、立て直すことはできまい。いま渡江して力を尽くして戦えば、勝てば敵を逆に追い、敗れても社稷と共に死ぬだけだ。だがもし沈瑩の言う通り待ち構えていれば、兵は散じ、君臣すべて降伏するしかなくなり、一人も死をもって国難に殉じる者はいなくなる。それこそ辱めではないか」と。
張悌の言葉は、すでに勝敗の理屈を超え、「戦って死ぬか、生き恥をさらすか」という覚悟を示したものであった。

こうして張悌は渡江を決意した。彼の選択は、軍事的合理性よりも、呉の最後をどう締めくくるかという精神的決断であった。慎重論を退けて決戦に挑むのは歴史上よく見られるが、このときはまさに国家の命運を左右する瞬間だったのである。

楊荷橋での初勝利と降兵処遇の是非

張悌は渡江して西へ進み、楊荷橋で晋の陽都尉・張喬の軍七千を包囲した。追い詰められた張喬は降伏を申し出、呉軍は鮮やかな初勝利を収める。
しかし、この場面で陣中に不穏な議論が起きた。副軍師の諸葛靚が「この者たちは真心から降ったのではない。救援がまだ至らず兵力も少ないから、偽って投降しただけだ。彼らに戦意はなく、いまのうちに坑殺すれば三軍の士気が高まる。だが放置すれば必ず後の禍になる」と強く主張したのである。

張悌はこれに反対した。「強敵が目の前にあるのに、まず小さな降兵を相手にするべきではない。ましてや降兵を殺すのは凶兆である」と。張悌は降兵を慰撫して受け入れ、進軍を続けた。
人道的にも筋は通っていたが、諸葛靚が警告したとおり、これは後の戦局に暗い影を落とすことになる。戦場ではしばしば「道義」と「実利」が衝突する。張悌の選択は前者を重んじたものだったが、その代償はあまりにも大きかった。

版橋での大敗と捕縛、最期の殉節

張悌は軍を進め、版橋で晋の張翰・周浚らと対峙した。ここで沈瑩が率いた丹陽兵五千は「青巾兵」と呼ばれる精鋭で、刀盾を持って三度にわたり突撃した。しかし晋軍の陣は崩れず、逆に疲弊して退こうとしたところに乱れが生じ、薛勝・蔣班らがその隙を突いて攻撃した。呉軍の隊列はたちまち崩れ、全体が瓦解していった。
さらに不幸なことに、先に楊荷橋で降伏させた張喬が、このとき背後から裏切って襲いかかった。結果、呉軍は完全に包囲され、大敗を喫したのである。

この戦いで張悌、沈瑩、孫震らは捕らえられ、首は洛陽に送られて斬られた。丞相として最後まで戦い抜いた張悌は、ついに社稷と共に命を絶った。
彼の最期は、単なる敗戦将軍のものではなく、滅亡する国家に殉じた忠臣としてのものだった。呉の命運が尽きるその瞬間に、張悌は忠義を選び、歴史に名を刻んだのである。

張悌の殉国の辞と呉滅亡への影響

版橋の大敗の後、諸葛靚は張悌に退却を勧めた。「天下の存亡には大きな数があり、卿一人が知り尽くせるものではない。なぜ死を求めるのか」と諸葛靚は涙ながらに説いた。
しかし張悌は首を振り、「仲思(諸葛靚の字)、今日こそ我が死の日である。幼い頃、卿家の丞相に抜擢されて以来、常に己が無為に終わり、賢者の知遇を辱めることを恐れてきた。いま社稷のために命を捧げるのに、どうして逃れることがあろうか。もう私を引き留めるな」と涙ながらに語った。

諸葛靚も涙を流しながら手を放した。百余歩進んだところで、すでに張悌は晋軍に斬られていた。
張悌の死は、単なる敗北の犠牲ではなく、呉が国家として滅ぶその瞬間に、忠義をもって命を捧げた象徴であった。その後、孫皓はまもなく降伏し、三国時代は終焉を迎える。
歴史書では数行に過ぎない記録だが、張悌の選択は「降伏して生き長らえるか、社稷に殉じて死ぬか」という究極の問いに対する答えであった。

張悌にまつわる逸話 ― 柳榮の不思議な体験

部下の柳榮は渡江の途上で病死したが、二日後に蘇り「人縛軍師!」と叫んだ。その日、張悌は捕らえられた。
生死の境で見た幻か、それとも奇跡か。真偽は不明だが、この逸話は人々に「張悌の運命は天に定められていた」と信じさせた。

同時代・後世の人物評価

陸凱は張悌について「国家の柱石であり良き補佐である」と述べ、清廉にして忠勤、あるいは卓越した才を備えた人物として高く評価した。
一方で『呉録』には「時流に迎合し、部下を庇護したため、清論からは非難された」とあり、批判的な見方も存在した。

後世の史論では「危乱の時に任を受け、敗北を覚悟しつつも国家を支えようとしたに過ぎない。彼の節義を軽んじてはならない」との評価もあり、張悌を単なる迎合者とみなすのは誤りとされた。
さらに羅貫中の『三国演義』では、張悌は「江東の忠臣」として描かれた。杜預の大軍が迫る中で死を選び、「生き恥をさらすより、知遇に報いて殉じる」姿は、滅亡の中で光る忠義の象徴とされたのである。

参考文献

  • 参考URL:張悌 – Wikipedia
  • 《三國志·呉書·孫晧傳》 陳壽著、裴松之注
  • 《三國志·呉書·陸凱傳》 陳壽著、裴松之注
  • 《晉書·武帝紀》 房玄齡等著
  • 《晉書·周浚傳》 房玄齡等著
  • 《資治通鑒》 司馬光著、胡三省注
  • 《襄陽記》
  • 《呉録》

張悌のFAQ

張悌の字(あざな)は?

張悌の字は巨先(きょせん)です。

張悌はどんな人物?

張悌は冷静な分析力と強い忠義心を持つ人物でした。

張悌の最後はどうなった?

晋軍との戦いに敗れ、捕らえられて洛陽で斬首されました。諸葛靚に退却を勧められても「社稷に殉ず」と述べ、逃亡を拒みました。

張悌は誰に仕えた?

張悌は呉の孫休・孫皓に仕え、最終的には呉の丞相となりました。

張悌にまつわるエピソードは?

魏の蜀征伐を正しく予見した逸話や、諸葛靚に退却を勧められても「社稷に殉ず」と述べ、逃亡を拒みました。

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