1分でわかる忙しい人のための張布の紹介
張布(ちょうふ)、字は不詳、出身は不明、生没年(?~264年)
張布は三国時代末期の呉に仕え、孫休に近侍し、孫綝の誅殺に大きな役割を果たした重臣である。
孫峻の死後、孫綝が政権を握ると、張布はその専権を目の当たりにし、密告を通じて孫休の信任を得た。やがて孫休の信頼を背景に中軍督に昇進し、弟たちにも爵位が与えられるなど一家で栄達した。孫休の死後、濮陽興と共に孫皓を擁立して驃騎将軍に任じられるが、即位後の孫皓の暴政に後悔を抱いたため、万彧の密告によって失脚した。元興元年(264年)、流刑途中で濮陽興と共に殺害され、一族も皆殺しにされた。
張布を徹底解説!孫綝誅殺の共謀から孫皓擁立、専横と後悔、そして一族断絶まで
孫休との出会いと初期の仕官
張布が孫休と関わるようになったのは、孫休が琅邪王だった時代のことだ。会稽へ移った際、張布は左右の将督として仕え、かなり親しい間柄だったようである。上司と部下という関係ではあるものの、張布は良い話し相手であったのだろう。
その後、永安元年(258年)十月、孫綝によって孫休が皇帝として迎えられる。この政変の中で、その輔佐の勤労が認められ、張布は長水校尉から輔義将軍に昇進し、永康侯にも封じられ、早くも孫休政権下で重きをなす人物となった。
孫綝の専権と不満の密告
ある日、孫綝が牛と酒を持参して孫休のもとを訪れたが、孫休はこれを受け取らなかった。これにはさすがにプライドを傷つけられたらしく、その足で左将軍・張布のもとを訪れる。
酒が入ったせいか、心のうちをこぼしている。「あのとき少帝を廃したのは私だ。周囲はみな、私に即位せよと言ってきた。だが、あえて孫休殿を選んだのは、賢明だからこそだった。それなのに、今や礼儀すら拒まれ、その他大勢の臣下と同じ扱いでは、改めて策を練るべきだ」
張布はこの愚痴混じりの吐露を、そのまま孫休に報告する。孫綝の発言が「酔った戯言」か、それとも「謀反の前兆」か、判断に迷った孫休は、とりあえず懐柔策に出た。恩賞を授け、侍中に任じ、さらには政務の一部を任せるという飴を投げ込んだ。表向きは和解、だがその裏では警戒の目が光っていた。
孫綝誅殺の共謀者となる張布
やがて孫休は張布と共に孫綝を誅殺することを計画する。張布は「丁奉は、書類に関する役人の仕事はできませんが、その計略は人並み外れており、重要な事柄を決断できます。」と進言し、丁奉を呼び寄せ、孫休は「孫綝は国家の権威をほしいままにし、まもなく不穏な動きをするだろう。将軍と共にこれを討ちたい。」と打ち明ける。
丁奉は「丞相の兄弟や仲間は非常に多く、勢力が盛んです。人々の心が一つにならず、すぐには討ち果たすのは難しいでしょう。腊月の百僚朝賀(年末の宴会)という祭事の機会を捉え、陛下の兵力をもって誅殺されるのがよろしいかと存じます。」進言した。
永安元年(258年)十二月、孫綝が腊月の百僚朝賀において、殿上に昇ったその時、詔勅を受けた武士たちが孫綝を捕縛し、即日斬首した。
この功績により、丁奉は大将軍、張布は左将軍に任じられ、中軍督も兼任することになった。また一族も恩恵を受け、弟の張惇は都亭侯に封じられて兵三百を与えられ、さらに弟の張恂も校尉に取り立てられた。張布の家門は、このとき大いに栄達を遂げたのである。
宮中を掌握し、勢力を強める
永安五年(262年)十月。張布は長年の忠勤が評価された彼は、ついに尚書・中書・門下、つまり宮中のあらゆる事を握る要職のまとめ役に任じられる。もはや左将軍なんて肩書きは前座でしかない。
同じ頃、濮陽興も丞相に昇進していた。孫休としては、かつての信頼のよしみで張布と濮陽興の二人を特に重用した。 かくして、宮中の実務を握った張布と、軍政・外交を統括した濮陽興という、二人三脚の政権がスタートする。 しかし、国の命運を預けるには、どうにもこの布陣は不安が残る。
実際、国内ではすでに「人材難もここに極まれり」とのため息が漏れていたようである。
学問を阻んだ張布の専横
孫休という人は、どうにも机の上が好きだった。政務の合間に読書をし、先人の書を紐解いては「ほほう、これは使えそうだ」と唸る、そんなインテリ皇帝だったわけだ。 彼は中書郎・博士祭酒に韋曜を起用し、劉向のように典籍を整理し直させようと目論んだ。そして、儒学者・盛沖らを呼んで、宮中で講義まで始めようとした。なかなか教養国家を目指していたらしい。
ところが、張布。左将軍の彼は、この動きを全力でブロックした。理由はシンプルで、韋曜や盛沖みたいな口うるさい学者が皇帝の耳元で、あーだこーだやれば、自分の実力がばれて、専権を奪われるかもしれない、という猜疑心が爆発したのである。
張布は口実を作るのが得意だった。「学者の出入りは政務の妨げになりますぞ」などと、いかにも常識人ぶって進講を妨害しにかかる。だが、孫休も黙っていなかった。「本を読むことが悪いとは思えない。それを妨げるお前の姿勢こそ、不信から来るものだろう」と反論する。張布はさすがに表面上は折れて、頭を下げるが、自身の立場を守るため一歩も引かない。
結局、進講は中止された。韋曜も盛沖も、宮中に入ることすら許されなくなった。孫休は納得していなかったが、張布のような男を敵に回すには勇気が足りなかった。あるいは、信用されていないと感じさせるのが怖かったのかもしれない。かくして、学問好きの皇帝は孤立し、張布の顔色だけが広間を支配することになった。
孫休の死と孫皓擁立の後継問題
永安七年(264年)、呉の皇帝・孫休が崩御した。蜀漢はすでに滅び、交阯では叛乱が起き、国内は不安と動揺に包まれていた。 誰も「今こそ、しっかりした大人が必要だ」と思った。だが、ここでいう「大人」とは、年齢のことだけを指していたらしい。
そこで登場したのが左典軍・万彧である。かつて烏程県令を務めていた彼は、若き孫皓と旧知の仲だった。万彧は「孫皓は才知に優れ、判断も的確で、学問を好み法度を守る人物だ」と、まるで理想的なプロフィールを読み上げるように強く推挙する。 濮陽興と張布はその言葉に乗り、皇后から太后になった朱氏を説得することにした。朱太后は「私は女ゆえ政事の理は知らぬ。ただ国が安泰で宗廟が守られるならそれでよい」と答え擁立を容認する。あまりにあっさりと、後継問題は決着したのである。
こうして孫休の長子・孫ワン(「雨」の下に「單」)は退けられ、二十三歳の烏程侯・孫皓が新しい皇帝に即位する。張布と濮陽興はその立役者として功を認められ、張布は元興元年(264年)八月、驃騎将軍へと昇進し、侍中も兼ねることになった。 誰よりも深く、誰よりも早く、あの恐るべき暴君のそばへ足を踏み入れてしまったのである。
孫皓の暴政と張布の後悔
即位直後の孫皓は、それなりに「できる男」だった。威厳があり、物事の筋も通っていた。だがそれは、最初の数ヶ月限定パックだったようで、気づけば酒と女に溺れ、政務なんてどこ吹く風。皇帝の仕事は「宴会の主催」だと勘違いしていた節さえある。
そんな新帝の素顔を、誰よりも近くで見てしまった張布と濮陽興は、だんだんと後悔が押し寄せ、「これはまずい」と思ったときには、もう取り返しがつかない段階だった。
だが、そこに油を注いだのが、かつて孫皓を推したもう一人の男、万彧である。彼は張布らの後悔を「裏切り」と読み替え、「あの二人、どうやら帝を立てたのを悔いてるようです」と密告した。 かくして、元興元年(264年)十一月、孫皓は二人を捕らえて広州へ流刑とする。かつての功臣であるかどうかなど、彼にとっては何の意味もなかった。
しかし、それだけでは終わらない。暴君の辞書に「寛容」の文字はない。流刑の途中で刺客が差し向けられ、二人は処刑された。しかも、怨恨は一族にまで及ぶ。張布の家門は、娘を除いて三族に至るまで連座し、根こそぎ絶たれる。
権力の中枢を歩んだ男の最期がこれである。自ら選び、自ら擁した皇帝によって家族もろとも処分される。この結末を、皮肉と言わずして何と言おうか。
張布の家族と孫皓の寵姫
『江表伝』によれば、孫皓は張布の娘を後宮に迎え、「美人」の位を与えて寵愛した。だがあるとき、何気なく「父は今どこにいるのか」と尋ねたところ、娘は「賊に殺されました」と答えてしまった。孫皓は逆上し、その場で彼女を棒で打ち殺した。愛も地位も、一言の返答で消える。暴君の寵愛とはそういうものであった。
だが殺しても忘れられないのが人の欲である。孫皓は彼女の姿を恋い慕い、工匠に木像を刻ませて常に側に置いた。さらに「張布にはまだ娘がいるか」と左右に尋ねると、「長女はかつて衛尉・冯朝(ふうちょう)の子である冯純に嫁いでおります」との答えが返る。孫皓はためらうことなく彼女を奪い、後宮に入れて左夫人とした。昼も夜も夫人と過ごし、政務など完全に忘れ去られた。
やがて宮中は狂気の遊戯場と化す。孫皓は尚方に命じ、金で作った燧や歩搖、仮髻を千単位で造らせ、宮女たちに身につけさせて相撲を取らせた。朝に作ったものが夕方には壊れるたびに新調を命じ、工匠たちは盗みを働いて府庫は空になった。皇帝の遊興が、そのまま国家財政の穴であった。
左夫人が死去すると、孫皓は悲嘆に暮れ、苑中に巨大な墓を築いて盛大に葬った。柏で作った木人を兵衛として納め、金銀珍宝を惜しみなく副葬する。その規模は数えることもできないほどで、人々は「葬られたのは孫皓本人ではないか」と噂した。半年間、孫皓は政務を放棄して内に籠り、国は完全に停滞した。
やがて臨海太守・奚熙がこの噂を信じ、兵を挙げて「孫皓の死」を前提に動いた。だが誤りと判明するとあっさり討伐され、三族が処刑された。虚実を見抜けなかった者の命もまた、暴君の遊びに費やされたのである。
参考文献
- 三國志 : 呉書三 : 孫休傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書三 : 孫皓傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十 : 丁奉傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十九 : 濮陽興傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十九 : 孫綝傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書五 : 孫和何姬傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二十 : 韋曜傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻077 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻078 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:張布 – Wikipedia
張布のFAQ
張布の字(あざな)は?
張布の字は史書に記録がなく、不詳です。
張布はどんな人物?
張布は孫休の信任を得て重用されたが、密告によって孫綝の誅殺に関わるなど、政争に深く関与した人物です。
張布の最後はどうなった?
元興元年(264年)、孫皓により濮陽興と共に広州へ流刑にされ、道中で殺害され、一族も皆殺しにされました。
張布は誰に仕えた?
張布は呉の孫休・孫皓に仕えました。
張布にまつわるエピソードは?
張布の娘は孫皓の寵姫でしたが、父の死に関する発言で孫皓の怒りを買い、棒で殺害されるという悲劇に見舞われました。
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