張嶷:諸葛亮が平定した南中に真の安定もたらした知将【すぐわかる要約付き】

張嶷

1分でわかる忙しい人のための張嶷の紹介

張嶷(ちょうぎょく)、字は伯岐(はくき)、出身は巴郡南充国、 生没年(?~254年)

張嶷は、後漢末から三国時代にかけて蜀で活動した武将である。若い頃から節義に厚く、家柄は高くなかったものの、強盗に襲われた県の夫人を救い出すという行動で名声を得た。 その後、劉備が蜀を平定した際に抜擢され、州の従事へ迎えられた。

彼は北方では汶山の羌族を討伐し、馬忠の配下として常に先陣に立った。 建興十四年(236年)には越巂太守に任じられ、十五年にわたり混乱の続いていた越巂郡を安定させ、叟夷や旄牛族を帰順させるなど支配体制の再建に成功した。
また政治的洞察にも優れ、費禕や諸葛瞻に危険を予見する書簡を送り、その内容は後に現実となった。 晩年には病を抱えながら姜維の北伐に従い、狄道で魏軍と戦って壮烈な最期を遂げた。
死後は子に爵が継がれ、南方の諸部族は張嶷のために廟を建て四時に祀ったと伝えられる。忠誠心と果断な行動、そして異民族統治の手腕で、蜀でも屈指の名将として評価されている。

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張嶷を徹底解説!越巂の反乱を鎮圧し、北伐での壮烈な最期

若き張嶷の節義と抜擢

巴郡南充国に生まれた張嶷は、家柄こそ高くなかったが若い頃から妙に器が大きく、困難に押し潰されない節義を早々に身につけていた人物として知られている。郡内の名士龔祿や姚冑と気さくに交流し、その人柄と胆力が評判を呼んでいた。

建安十九年(214年)、劉備が蜀を平定して落ち着く暇もない頃、張嶷の勤務していた県を山賊が襲撃した。県長は恐怖で頭が真っ白になり、家族を置いて逃げ出すという情けない有様だったが、張嶷は白刃をかき分けるように進み、危険を測る暇もないまま県長夫人を背負って救い出した。

夫人は無事に難を逃れ、この一件で張嶷の名声は一気に広まった。

その後、張嶷は州に召され従事として取り立てられた。

山賊張慕を知略で討伐

建興五年(227年)、諸葛亮が北方作戦で漢中に腰を据えていた頃、広漢や綿竹では張慕ら山賊が軍需品を奪い、吏民を脅かすという地味に迷惑な嫌がらせが続いていた。張嶷は都尉として兵を受け、この厄介な後始末を任されることになった。

賊の勢力は各地に散り、真正面からぶつかれば長引くだけだと張嶷は見抜いた。
広く薄く散った相手に正攻法で挑むのは、網に穴が空いているのに魚だけ追いかけるようなもので効率が悪すぎる。
そこで彼は和睦を装い、酒宴の場を設けて日取りまで丁寧に決め、賊を呼び寄せた。

酒宴が程よく温まった頃、張嶷は自ら左右の兵を率いて急襲し、張慕をはじめ首級五十余を挙げた。頭目筋はほとんどこの一撃で地図から消え、残りの賊も数日のうちに鎮まり、広漢一帯はようやく平穏に帰った。

重病からの復帰

張慕らを討伐したのち、張嶷は重い病に倒れた。家は貧しく、治療に充てる金もなく、寝ているだけで生活のほうが先に息切れしそうな状態だった。
広漢太守の何祗は人情に厚いことで知られていたが、張嶷とは特に親しい関係でもなかった。それでも張嶷は歩くことも難しいほど衰弱し、輿に乗って何祗のもとへ向かった。頼れる相手を選ぶ余裕すらなかったのだろう。

何祗は評判どおり情の深い人物で、私財を傾けて治療を尽くした。並の役人なら書類だけ渡して見なかったふりをするところだが、彼は違った。
数年の治療を経て、張嶷はようやく回復した。命を拾ったのではなく、拾ってもらったに近い形で、再び立ち上がることになった。

馬忠軍の元で活躍

病が癒えると、張嶷は牙門将に任じられ、馬忠の軍に属した。建興八年(230~231年)、北方では汶山で羌族が反乱し、張嶷は兵三百の先鋒を任された。敵は石門を要害にし、通る者を上から砕く仕掛けまで用意していたが、張嶷は正攻法では損が大きいと見て、まず降伏を勧める使者を送った。
戦う前に話し合いを選ぶというより、無駄な血を流す気がなかったのだろう。

勧告を受けた羌の長老は降伏し、糧食まで差し出した。軍が前進すると周囲の部族も次々と恐れをなし、一部は降伏し、残った者は山へ逃れた。軍はその逃げた者たちを追撃し、反乱はあっさり片付いた。

建興十一年(233年)には南方で劉冑が反乱を起こし、馬忠が討伐へ向かった。張嶷も従軍し、戦場では常に先頭を務め、最後には劉冑を討ち取って反乱を平定した。

それからも、張嶷は前線に立ち続けた。
劉冑を討った後も、今度は牂牱郡と興古の獠種が再び反乱を起こした。馬忠は張嶷に諸営を率いて討伐するよう命じたが、張嶷は武力に頼らず、内部へ働きかけて投降者を募った。
その招降に応じた獠族は二千人に上り、張嶷は全員を漢中へ送り届けた。軍事と懐柔を使い分ける手並みは、この戦いでもきれいに決まった。

苻健の降伏に関する洞察

建興十四年(236年)、武都氐王の苻健が蜀への降伏を申し出た。迎えに向かった張尉が約束の日に現れず、蔣琬が気を揉む中、張嶷は苻健の胸の内をあっさりと言い当てた。
彼に裏はないが、弟は抜け目がなく、夷狄は足並みをそろえられない。だから弟は魏へ逃げ、兄だけが来るだろうと述べたのである。

数日後、苻健の弟が四百戸を率いて魏へ向かい、苻健だけが蜀へ姿を見せた。張嶷の読みが、そのまま現実になった形だった。

越巂の混乱と張嶷の太守就任

話は南中に戻す。当時の越巂郡は荒れきっていた。諸葛亮の高定討伐以降も、叟夷が反乱を重ね、太守の龔祿と焦璜は殺害された。
後任の太守たちも郡治へ入れず、八百里離れた安定県で留まるしかなく、越巂は実体を失った名ばかりの郡と化していた。

この混乱を正すため、朝廷でもようやく重い腰が上がり、延熙三年(240年)、後主劉禅は張嶷を越巂太守として派遣した。ここでようやく越巂の再建に手がつくことになったのである。
張嶷が着任すると諸部族の一部は恩情に動かされ帰順を始め、郡再興の足場が整いはじめたが、依然として従わぬ勢力は残っていた。

越巂の諸部族懐柔

帰順する部族が増える一方で、北徼の捉馬族だけは頑なで、越巂の落ち着かない原因として居座っていた。命令にも動じず、こちらの顔色を読む気もない手強さだった。
張嶷は放っておく気はなく、自ら討伐へ向かい、首領の魏狼を生け捕りにした。ただ捕まえただけで済ませず、縄を解いて帰らせ、族人の説得を任せるという手に切り替えた。

魏狼は張嶷の扱いに応じて招降に回り、三千余戸の捉馬族はそのまま土地にとどまり、郡の指示に従うようになった。
張嶷はその功を認め、魏狼を邑侯に取り立てるよう申し出て、それがそのまま通ったことで、捉馬族は越巂の枠組みに組み込まれた。

この一件が広まると、他の部族も次々に降伏し、越巂はようやく形のある統治に向かい始めた。
張嶷はこの働きにより関内侯を授けられた。

蘇祁の再反乱鎮圧

越巂で諸部族の帰順が進む中、蘇祁の邑君(族長)である冬逢と、その弟の魄渠は、一度降伏しておきながらまた反乱に走った。
張嶷はまず冬逢を討ち、反乱の芯を折った。冬逢の妻は旄牛王の娘だったが、張嶷はこの縁を利用し、罪を問わずに赦すことで周囲の部族の動揺を消した。

弟の魄渠は西の境へ逃れ、反撃の機会を狙った。剛猛で動きも速く、諸部族に昔から恐れられていた人物で、このまま放置すればまた騒ぎを起こすのは明らかだった。
そこで魄渠は側近二人を偽って降伏させ、張嶷の腹を探らせたが、張嶷はすぐに嘘を見抜き、逆に二人へ重い褒賞を約束して味方へ引き込んだ。こうなると駆け引きというより、一方的に手玉に取られている。

二人は魄渠のもとへ戻り、隙を見て行動し、ついに魄渠を殺害した。
魄渠が倒れると、越巂の部族たちは一気に静まり返り、蘇祁を中心とした反乱はようやく終わりへ向かった。

また、斯都耆の首領李求承は、旧友の太守龔祿を殺害した因縁の人物だった。
張嶷はこれも見逃さず、募兵して李求承を捕縛し、罪を一つずつ並べて処断した。長年のわだかまりをここで断ち切った形である。

越巂の治安がようやく落ち着くと、張嶷は郡の建物が長い戦乱で崩れ、荒れ果てている現状にも目を向けた。
まず小さな砦を築いて防備を整え、任職三年を経て旧来の郡治へ移り、城郭の修繕を進めた。
夷種の男女も作業に参加し、行政施設はようやく形を取り戻し、越巂再建の基盤が固まっていった。

定莋・台登・卑水の掌握と狼岑の誅殺

越巂の統治を進める中で、張嶷はさらに三県の確保に取りかかった。定莋、台登、卑水の三県は郡から三百余里離れ、塩や鉄、漆の産地として価値が高かったが、長く夷徼の勢力が占拠し、資源を好きなように扱っていた。
張嶷は配下の兵を率いてこの三県を奪回し、長吏を置いて行政を立て直した。

張嶷が定莋へ到着すると、地域を束ねる豪族の首領・狼岑が動いた。狼岑は盤木王の舅で、蛮夷に強く信頼されていたが、張嶷が自分の勢力に踏み込んだことに怒り、太守への挨拶すら拒んだ。
張嶷は事態を放置せず、屈強な兵数十を送り、狼岑を捕えて鞭打ち、そのまま処刑し、遺体を部族へ運ばせた。

だが張嶷は誅殺だけで終わらせなかった。狼岑の罪を部族へ丁寧に示し、さらに厚い賞賜を与えて安撫し、「妄りに動けばすぐに殲滅される」と明確に伝えた。
部族の者たちは縄を顔にかけて謝罪し、服従を表した。

張嶷は牛を殺して宴を開き、恩と信義を改めて示したことで、三県の反抗は収まり、地域の資源は再び蜀の支配へ戻った。
こうして塩鉄の供給が整い、越巂の物資は大きく潤うことになった。

旄牛族を懐柔し南方の安定を固める

越巂の周辺では、さらに大きな動きが広がっていた。

反乱が次々に湧いてくるこの土地は、まるで反乱を生活習慣にしているかのようで、張嶷にとっては息をつく暇もなかった。

漢嘉郡の境界に住む旄牛夷は四千余戸もの大部族で、その首領が狼路だった。
狼路は姑父である冬逢が張嶷に討たれたと知り、復讐に踏み出す気配を隠そうともしなかった。狼路はまず叔父の狼離を送り、張嶷の軍勢や状況を探らせた。張嶷はそれを強硬に追い返すのではなく、先に牛と酒を贈ってもてなし、狼離の警戒をゆるめた。
さらに狼離の姉である冬逢の妻を呼び戻し、離れていた姉弟が顔を合わせられるよう取り計らった。

長く会えなかった姉弟は再会を喜び、狼離は張嶷の誠意をそのまま受け取った。
これをきっかけに狼離は武力抵抗を捨て、部族を率いて張嶷へ降伏した。張嶷は彼らを厚く待遇して返し、旄牛族に残っていた疑いと敵意を取り除いた。

それ以降、旄牛族が反乱に走ることはなくなり、越巂から漢嘉にかけての地域は落ち着きを取り戻した。
南方の統治はここで大きく安定し、張嶷の施政はさらに確かな形を帯びていった。

百年以上閉ざされた古道を復興する

張嶷が越巂太守として南方の反乱を片づけた頃、まだひとつ大きな宿題が残っていた。越巂から成都へ通じる古道が、旄牛夷の地で遮られたまま百年以上も眠り続けていたのである。
そのせいで蜀の官軍も商人も遠回りの安上道を使うしかなく、荷を運ぶだけで無駄に時間が溶けていった。張嶷はこの放置プレイを見過ごさず、南方経営の締めとして古道の再開に踏み出した。

まず旄牛夷の首領・狼路を説くために金品を贈り、誠意を形で示した。
さらに狼路の姑を通じて思惑を伝え、互いに話が通じる道筋を探った。狼路は兄弟や妻子を連れて張嶷のもとへ来て、そこで盟約を交わした。

両者の協力で古道の修復は一気に進み、険しい山道には駅亭がよみがえり、長いあいだ閉ざされていた道が再び動き始めた。
越巂と成都がようやく直結し、蜀の南北は久しぶりに往来できるようになった。

張嶷は狼路を旋牛毗王に封じ、朝貢を命じた。狼路はこれに深く感じ入り、自ら朝貢の使者を率いて出向き、南方の部族もそれにならった。
後主劉禅はこの働きを高く評価し、張嶷を撫戎将軍に任命した。こうして越巂の統治は仕上がり、百年の断絶を越えた古道の復活が現実のものとなった。

張嶷の予言と夏侯覇との逸話

当時、政権を支えていたのは大将軍の費禕で、温厚で人をよく信じることで知られていた。
張嶷はその柔らかさを危ぶみ、かつて刺客に倒れた将軍たちを引き合いに出して忠告した。
「昔、岑彭や来歙のような名将でさえ油断で命を落としました。あなたは国家の柱です。身を守ることを軽んじてはいけません。」

しかし費禕はこの言葉を深刻には受け止めず、延熙十六年(253年)魏の降将・郭循(郭脩)に暗殺された。張嶷が心配した通りの結末だった。

また張嶷は、諸葛亮の子である諸葛瞻にも書を送った。呉では太傅の諸葛恪孫権の死後に政権を握り、姜維と連携して、魏軍へ同時進行作戦を起こそうとしていた頃である。
張嶷はその危うさを見抜き、諸葛瞻にこう伝えた。
「呉の太傅は大事を任されながら少主を離れ、遠征へ出ようとしている。これは国を誤る道です。忠言を献じられるのはあなたしかいません。戦を控え、民を休ませるよう進言すべきです。」

その後、諸葛恪は北伐に失敗し、帰国すると政変で一族皆殺しとなった。張嶷の見立てはまたも当たった。

このころ、魏から亡命した車騎将軍の夏侯覇が張嶷に言葉をかけた。
「私はあなたとは疎遠ですが、心は昔のままです。この気持ちをわかってほしい。」
張嶷はそれに対し答えた。
「私はあなたを知らず、あなたも私を知らない。真の道は遠くにあるのに、どうして心を託すなどと言えるでしょう。三年の後に、その言葉を改めて話してください。」

この言葉は多くの識者のあいだから評され、長く語り継がれる一句となった。

越巂十五年の統治と涙の送別

張嶷が越巂太守に任じられてから、およそ十五年が流れた。そのあいだ南中は落ち着き、あれほど続いた夷族の反乱も姿を消し、治安も民心もようやく静かに整った。
張嶷は何度も帰郷を願い出ていたが、ようやく朝廷が許しを出し、成都への召還が決まった。

出立の知らせが伝わると、越巂の人々は深く悲しんだ。馬車が郡を離れる頃には、道の両側に夷民が並び、涙をこぼしながら見送った。
旄牛邑の首長は幼子を背に抱き、張嶷のもとへ駆け寄って別れを伝え、さらに蜀郡の境まで後を追い、馬車の轂にすがる者まで現れた。
その数は百を超え、南中の人々がどれほど張嶷に心を寄せていたかが、沈黙の中にそのまま表れていた。

成都に到着すると、張嶷は蕩寇将軍に任じられた。人前では常に堂々としており、情に厚く、勇気ある人物として知られ、多くの士人が彼を自然に敬うようになった。
一方で形式や礼儀を気にしないところもあり、その自由さゆえに「少し荒っぽい」と言われることもあった。

姜維北伐に従軍し壮烈に戦死

延熙十七年(254年)、姜維が北伐に踏み切った。この頃、張嶷は重い風湿に苦しみ、杖なしでは歩くのも難しい状態だった。
周囲は当然止めたが、張嶷は首を振り、「この身で主君の恩に報いたい」と願い出た。出発前には後主劉禅へ上疏し、「勝てば国境を守り、敗れれば命で報いる」と誓った。
劉禅はその言葉に涙し、深く胸を打たれたという。

蜀軍は魏の狄道へ向かった。魏の李簡が密かに降伏を申し出ており、姜維は張嶷らとともにその内応を頼りに進軍した。
張嶷は病を押しながら先鋒を務め、戦場では弱った身体とは裏腹に鋭く戦った。

魏の徐質との戦いでは激しく斬り結び、多くの敵兵を討ち取ったが、自らも戦死した。
張嶷の奮戦は軍中で語り継がれ、兵たちはその最期を悼んで涙をこぼした。

死後の処遇と南方の祀り、そして陳寿の評価

張嶷が戦死したあと、蜀の朝廷はその功をねぎらい、長子の張瑛を西郷侯に封じた。次子の張護雄が家の爵位を継ぎ、一族はそのまま名家として続いた。
越巂や牂牁では張嶷の死が伝わると深い悲しみが広がり、各地に廟が建てられて彼を祀ることになった。干ばつや洪水のときには必ず張嶷の名を呼び、雨を願ったという。
それほど南中の人々にとって張嶷は、単なる太守以上の存在だった。

『三国志』の陳寿は、張嶷を「判断が明快で勇気があり、忠誠心に満ちた人物で、勇気と決断で威を立て、主君に誠を尽くした」と評している。言葉を飾らず、張嶷の実務の確かさと芯の強さをそのまま書き残したものだった。
その後、孫の張奕は晋で梁州刺史となり、一族は時代を越えて家名を保った。
戦場で尽きた命は、南方の民の祈りと記憶の中で長く残り続けることになった。

諸葛亮の「平定」と張嶷が背負った南方平定

諸葛亮伝には、建興三年(225年)に諸葛亮が南中へ出陣し、その年の秋には反乱をすべて平定したと記されている。現地で軍資を調達して国が富んだという、見事に整った報告で締めくくられている。確かに急遽対応しなければならない反乱は落ち着いたのは事実である。

張嶷伝を読めば、南方が順調だった気配はどこにもなく、諸葛亮の出征後も現場では揉め事が延々と転がり続けていた。

諸葛亮が成都に戻った後すぐに、雲南太守の呂凱は反乱軍に殺害され、越巂太守の龔祿が殺され、郡治は八百里離れた安定県に避難したまま戻れず、諸葛亮死後は捉馬族や蘇祁、斯都耆まで次々に反旗を翻した。
張嶷が太守として向かった時には、郡の建物ですら崩れ、制度も形のまま途切れており、地図にだけ残った郡を実際の郡に戻すところから始めなければならなかった。

張嶷は狼岑や冬逢のような首領を討ち、捉馬族・旄牛族・諸部族の懐柔に奔走し、反乱の火種を拾っては潰し、三県の奪回や古道の復興まで抱え込むことになった。
紙の上で「南方は平定」と書かれたあとに残された仕事は、張嶷が背負った年月を見るかぎり、完成品とは言いがたいものだった。

張嶷は十五年かけて部族の統率と郡の再建に力を注ぎ、南方がようやく扱える範囲に収まるまで手を離さなかった。
南中の「平定」がどの時点で達成されたのかよりも、それを実際の形にしたのは張嶷だった。

参考文献

張嶷のFAQ

張嶷の字(あざな)は?

張嶷の字は伯岐(はくき)です。

張嶷はどんな人物?

張嶷は節義に厚く、知略と行動力に優れていました。

張嶷の最後はどうなった?

延熙十七年(254年)、姜維の北伐に従軍し、狄道で魏軍と戦って戦死しました。

張嶷は誰に仕えた?

蜀の劉備、後主劉禅のもとで仕え、馬忠や姜維の指揮下でも活躍しました。

張嶷にまつわるエピソードは?

越巂を約十五年統治し、叟夷や旄牛族を帰順させ、百年以上閉ざされていた古道を復興した逸話があります。

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