1分でわかる忙しい人のための張承(ちょうしょう)の紹介
張承(ちょうしょう)、字は仲嗣(ちゅうし)、出身は呉郡、生没年(177~244年)
後漢末から三国時代の呉に仕えた政治家であり、重臣張昭の子である。
若くして学問と文才に優れ、諸葛瑾・歩隲・厳畯と親交を結んだ。
出仕は遅かったが、建安二十四年(219年)に孫権の招聘を受け、西曹掾に任ぜられたのを機に官途へ進む。
長沙西部都尉として山越を平定し、一万五千の兵を得てその勇略を示した。
のちに濡須都督・奮威将軍として都郷侯に封ぜられ、五千の部曲を率いた。
人を見る目にも優れ、蔡款・謝景を若年のうちに登用し、後に彼らは国家の重臣となった。
また諸葛瑾の子・諸葛恪を評して「この者が諸葛家を衰えさせる」と断言し、後年その言葉は現実となった。
清廉で剛毅な人物とされ、赤烏七年(244年)に没して定侯の諡を賜った。
張承の生涯を徹底解説!孫権に仕えた見抜いた人材と、諸葛瑾・陸遜・孫和に連なる婚姻の縁
張承とは?出自と人脈の形成
張承は、孫権の師として知られる張昭の子であり、弟に張休がいる。
父の張昭は「言葉は鋭く、態度は厳しく、誰よりも正しい」と言われた人物で、息子にとってはなかなか息の詰まる父親像だったに違いない。そんな家庭で育った張承は、自然と学問と礼を身につけ、早くから才学の誉れを得ていた。
青年期になると、諸葛瑾・歩隲・厳畯といった名士たちと交わり、互いに経書を論じ合う仲となる。
彼らは後にいずれも孫呉の政治を支える中核となる人物であり、張承は若くしてその輪の中にいた。
当時はまだ正式な官職についていなかったが、その学識と人脈はすでに群を抜いていた。
建安二十二年(217年)、勇将・凌統が亡くなったとき、孫権は張承に弔文と銘文を作らせた。
この人選は偶然ではなく、孫権が彼の文才と品格をよく見抜いていた証拠でもある。
孫権への仕官と軍功の確立
建安二十四年(219年)、孫権が驃騎将軍に任じられると、張承は西曹掾として召し出される。
それまで文人として知られていた彼が、ようやく実務に就くことになった。官途のスタートは少し遅めだが、地力でチャンスを引き寄せた感がある。
その後は軍職に転じ、長沙西部都尉として山越の討伐を命じられる。
張承はそこで軍を整え、戦後にはなんと一万五千の兵を掌握したという。
この軍功が評価され、彼は魏との最前線の濡須都督に転任、さらに奮威将軍に昇進し、都郷侯にも封じられた。
五千の部曲を率いて防衛の任についたことで、彼が単なる学者肌ではなく、現場でも通用する指揮官だったことが証明された。
嘉禾三年(234年)、蜀漢の諸葛亮が最後の北伐を開始する。呉と連携が狙いで孫権もこれに応じ、江夏・沔口には陸遜と諸葛瑾、張承は広陵・淮陽方面に孫韶と共に出陣している。
父は張昭という看板を背負いながらも、張承はコネ枠では終わらなかった。
言葉で人を動かし、戦場では兵を動かす。そのバランス感覚が、彼の評価を揺るぎないものにしていった。
人物鑑識と慧眼の逸話
張承はただの名士ではない。人を見る目においては、少しばかり先を見通しすぎるほどの才覚があった。
彭城の蔡款、南陽の謝景の二人は当時、無名の若者だったが、張承は彼らの才を見抜き、誰よりも早く推挙している。
蔡款はのちに衛尉・中書令を歴任し、ついには留侯にまで封じられる。
謝景も豫章太守として地方統治に辣腕を振るった。結果として、どちらも孫呉の中核を担う存在となった。
この「眼力」にまつわる逸話はまだある。
諸葛瑾の子・諸葛恪が若いころ、才気あふれる神童として周囲の期待を集めていたとき、張承はぽつりとこう言ったらしい。「諸葛氏を滅ぼす者はこの人である」。
当時の人々には、ただの皮肉かひねくれた予言に聞こえただろう。
だが後年、諸葛恪は孫峻のクーデターで誅殺され、その余波で諸葛一族は歴史から姿を消す。予言というより、未来を透かし見る冷徹な洞察だった。
張承の言葉には、ただの知識人にはない「何か」があった。
見た目の華やかさではなく、その人物が持つ「破綻の兆し」まで見抜いていたのかもしれない。
晩年と家族関係、そして定侯の諡
張承は晩年まで孫呉の政に関わり、まっすぐな性格と筋の通った言動で「忠義の人」として知られていた。
学問にも励み、書物だけでなく人をもよく読み、才のある人物と聞けば自ら門を叩いて話を聞きに行ったという。
その姿勢は老いてなお変わらず、知識人というより“政治と知をつなぐ案内役”のような存在だった。
赤烏七年(244年)、六十七歳で没す。
その生涯を称えて「定侯」の諡号が贈られたが、諡以上に人々の記憶に残ったのは、飾らず誠実なその生き方だった。
張承の家は、婚姻によって孫呉政権の中枢と深くつながっていた。
妻は諸葛瑾の娘、つまり呉の重臣同士の「縁組」である。息子の張震はその妻との間に生まれ、都郷侯の爵位を継いだ。
娘のひとりは孫権の子・孫和に嫁ぎ、もうひとりは陸遜の子・陸抗に嫁いでいる。これだけでも、張家が名門中の名門だったことがわかる。
また、太子・孫登が臨終の折、重臣たちの名を挙げた中に張承の名もあった。
「諸葛瑾・歩隲・朱然・全琮・朱拠(朱據)・呂岱・吾粲・闞澤・厳畯・張承・孫怡に兵馬を託し、民を養い、制度の無駄を正させよ」
ここで名前を挙げられた面々は、いわば呉を任せるに足る人物として選ばれた者たちである。
張承は、軍功・人脈・見識・家庭、すべてにおいてバランスが取れていた。
だがそれ以上に、誰もが「信じて任せられる」と感じた、その安定感こそが彼の最大の資産だったのかもしれない。
参考文献
- 三國志 : 呉書七 : 張昭傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十四 : 孫和傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二 : 呉主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十 : 凌統傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:張承 – Wikipedia
張承のFAQ
張承の字(あざな)は?
字は仲嗣(ちゅうし)です。
張承はどんな人物?
誠実で剛毅、忠義に厚く、清廉な人物として知られています。人を見る目にも優れ、若き人材を積極的に登用しました。
張承の最後はどうなった?
赤烏七年(244年)に六十七歳で没し、定侯の諡を贈られました。
張承は誰に仕えた?
孫権に仕え、呉の重臣として活躍しました。
張承にまつわるエピソードは?
諸葛瑾の子・諸葛恪について「この者は諸葛家を滅ぼす」と予言し、後にそれが的中した逸話があります。





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