【1分でわかる】趙昱の生涯:孝廉の志を貫き滅んだ広陵太守【徹底解説】

一般武官

1分でわかる忙しい人のための趙昱の紹介

趙昱(ちょういく)、字は元達(げんたつ)、出身は琅邪(ろうや)、生没年(?~約194年)
後漢末期、動乱の時代にあって、趙昱は節義と清廉を貫いた名士として知られた。幼少期からその品行は際立ち、13歳で母の看病に尽力し、血の涙を流して祈った逸話は、郷里の称賛を受けて孝廉に推挙されるほどだった。
黄巾の乱が広域に波及した際には、莒長として迅速に兵を挙げて平定に貢献。上司である巴祗から第一の功とされながらも、職を辞して賞賜を受け取らなかった。その後も数々の招聘を固辞し続けたが、陶謙の執拗な勧誘と威圧には抗しきれず広陵太守となる。しかし、曹操の東征中に広陵を通過した笮融の襲撃を受け、趙昱は一族もろとも殺害されるという非業の最期を迎えた。

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趙昱を徹底解説!忠義と清廉を貫いた名士の非業

血の涙を流した孝子:趙昱の幼少期と名声

趙昱の名声の端緒は、13歳のときにすでに現れていた。
病に伏した母を看病し、日夜を問わず寝食を惜しんで世話を続け、ついには祈願のあまり血の涙を流すに至ったという。
このような孝行の話が近隣に知れ渡ると、郷里の人々は彼の行いを深く称え、挙って孝廉に推薦した。趙昱の人物の核にあったのは、このような誠実で強い家族愛と倫理観である。

黄巾賊討伐と陶謙との確執:名士の気骨

黄巾の乱が五郡に広がった時、趙昱は任地である莒の長として即座に兵を率い、鎮圧にあたった。
徐州刺史の巴祗はこれを高く評価し、諸将の中で最も功績があったと上表したが、趙昱は固辞して職を退き、賞を受け取らなかった。
その後、彼の徳望を慕って地方官が出仕を望んだが、趙昱は一貫して病を理由に辞退した。
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陶謙からの招聘も固辞し続けたが、ついには使者・呉範を通じて「仕えないとボコボコにするぞ」と強要され、屈するしかなかった。
親友・張昭が陶謙に出仕を拒んで拘束された際には、趙昱は命がけで救出に奔走。
道義を重んじ、仲間を見捨てないその姿勢は、彼の信念の強さを物語る。
王朗とともに、陶謙に長安への使節派遣を進言したことで、天子から広陵太守に任じられるに至った。

笮融に殺された広陵太守:趙昱の悲劇的最期

曹操が徐州へ東征した折、下邳相の笮融とその配下が敗走しつつ広陵を通過しようとした。
趙昱は彼らを敵視せず、礼を尽くして迎え入れた。
だが、この対応が命取りとなる。

貪欲な笮融は広陵の物資に目をつけ、あろうことか趙昱一家を皆殺しにし、城内を略奪したのである。正義と礼に生きた趙昱の最期としては、あまりにも報われない結末だった。
これを聞いた張紘は深く悲しみ、復讐の手立ても持てず、せめての弔いとして主簿を派遣して琅邪で祭祀を行い、さらに臧宣に働きかけて同族の子を趙氏の跡継ぎとした。

趙昱の生涯は、仁義に殉じた者の象徴として、静かに幕を下ろした。

参考文献

  • 参考URL:趙昱 – Wikipedia
  • 《三国志・魏書八・二公孫陶四張伝第八》
  • 《三国志・魏書十三・鍾繇華歆王朗伝》
  • 《三国志・呉書七・張顧諸葛歩伝》
  • 《三国志・呉書八・張嚴程闞薛伝》
  • 《後漢書・巻七十三・劉虞公孫瓚陶謙列伝第六十三》

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