1分でわかる忙しい人のための文鴦の紹介
文鴦(ぶんおう)、字は次騫(じけん)、出身は沛国譙県、生没年(238~291年)
魏末から晋初にかけて活躍した武将。父は魏の将軍・文欽で、255年の毌丘倹・文欽の乱で十八歳 にして初陣、鼓を三度鳴らして兵勢を鼓舞した。敗北後は父とともに呉へ亡命するが、257~258年 の諸葛誕の乱で父が誅殺されると魏へ帰順し、司馬昭に赦されて登用された。晋建立後は277年に 平虜護軍として鮮卑・羯を破り、二十万規模の降附を得る大戦果で名声を確立。289年に東夷校尉 となるが、一時罷免ののち復任。291年、楊駿失脚に連座する政争の中で東安王司馬繇に誣告され、 謀反の罪により夷三族となった。
文鴦を徹底解説!毌丘倹・文欽の乱から冤罪の最期まで
毌丘倹・文欽の乱1:少年将軍の初陣
文鴦は魏の名将・文欽の次子として生まれた。父・文欽は勇名を馳せる一方で、曹爽の庇護を受けて傲慢な振る舞いも多く、249年の高平陵の変で曹爽が失脚すると急速に立場を失った。
やがて255年正月、毌丘倹と手を結び、太后詔を改竄して「正義の討伐」を名目に挙兵する。彼らは呉にも援軍を求め、文欽は自らの子を人質に差し出すことで信頼を得た。こうして淮河流域におよそ六万の兵を糾合し、魏の司馬師と対峙する大軍を編成することとなった。
この戦役こそ「毌丘倹・文欽の乱」であり、若干十八歳の文鴦が初めて戦場に立つ舞台でもあった。
毌丘倹・文欽の乱2:十八歳の勇将・鼓を三度鳴らす
開戦に際し、十八歳の文鴦は父・文欽に進言した。
「敵がまだ陣形を固めぬうちに城上に登り、大鼓を撃って気勢を鼓舞すれば勝てます」
文欽はこれを容れ、文鴦は三たび大鼓を鳴らして兵を奮い立たせた。 しかし文欽は決定打を欠き、敵を破ることはできなかった。
この様子を見た司馬師は将軍たちに向かって言った。
「文欽は逃げた」
そう言って精鋭に追撃を命じると、将軍たちは反論した。
「文欽は歴戦の将、文鴦も若くして鋭気に満ち、軍を率いて城に入っても敗れたことはない。逃げるはずがありません」
すると司馬師は応じた。
「一鼓作気、再而衰、三而竭(文鴦が三度も鼓を鳴らしてなお敵を破れぬのなら、気勢はすでに尽きている。逃げずに何を待つというのか)」
退却のさなか、文鴦はなお十数騎を率いて敵陣に突入し、矢雨を切り裂いて追撃の矛先を折り、味方撤退の隙をつくった。若年ながらも万人を圧する胆力を示した一幕であり、のちの「万人の雄」との評判の萌芽がすでに現れていたのである。
毌丘倹・文欽の乱3:敗走と呉への逃亡
司馬師は追撃の手を緩めなかった。司馬璉が八千の精鋭騎を率いて猛追し、楽綝の歩兵がその背を支える。沙陽に至るまで幾度も文欽軍は突破を許し、退路は刻々と狭まっていった。矢雨の中、文欽は盾で身を覆いながら辛うじて退き、文鴦とともについに呉へと落ち延びる。敗北は決定的であった。
だがこの戦いは、追う側にとっても代償が大きかった。司馬師はもとより眼に腫瘍を抱えており、出陣前に切除を受けたばかりだった。周囲は遠征を諫め、叔父の司馬孚に代行させるよう勧めたが、司馬師は「この一戦こそ天下の要」として病を押して前線に立った。
文鴦が若武者の勢いで敵陣に斬り込み、戦場が一瞬大きく揺らいだとき、司馬師は驚愕のあまり患部が裂け、眼球が飛び出すほどの激痛に襲われたという。それでも彼は顔色ひとつ変えず軍の動揺を抑え、ただ寝具を噛み砕いて苦痛を忍んだ。
やがて乱は平定されたが、帰国した司馬師はほどなく命を落とす。 勝者と敗者がともに深い傷を負い、歴史の舞台を去った戦役であった。
父の死と再投降:諸葛誕の乱
257年、魏の重臣・諸葛誕が寿春で挙兵し、司馬昭に反旗を翻した。援軍を送った呉は、文欽とその子・文鴦、文虎を城内に入れたが、やがて諸葛誕と文欽の不和が表面化し、258年正月、文欽は城中で誅殺されてしまう。
小城に拠っていた文鴦と文虎は父の仇を討たんと反撃を試みたが、兵は従わず、ついに魏への帰順を選んだ。軍吏の多くは「文欽の子を処刑すべし」と主張したが、司馬昭は「文欽は大罪人であり、その子らも本来なら誅されるべきである。しかし彼らは行き場を失って投降したにすぎない。しかも城がまだ落ちていないこの時に斬れば、かえって守軍が死に物狂いで抗戦するだけだ」と述べ、これを赦した。
さらに司馬昭は兄弟を将軍に取り立て、爵位を授けたうえで数百騎を与え、城壁を巡らせて「文欽の子すら赦された。他に何を恐れるか」と呼ばわらせた。これにより城中の士気は急速に崩壊し、寿春はまもなく陥落する。伝えによれば、文鴦と文虎は憤激のあまり諸葛誕の肝を生食したともいう。城が落ちたのち、司馬昭は文欽の遺体を息子たちに葬らせ、車や牛を与えて弔いを許した。
魏から晋へ:西北戦線の戦功
魏に帰参した文鴦は、やがて晋の建国に至る過程で将軍として重用される。277年には平虜護軍に任じられ、涼・秦・雍三州を都督して扶風王司馬駿を援けた。
この遠征で彼は禿髪樹機能ら北方の鮮卑勢力を撃破し、二十万の降附を得る大戦果を挙げた。干宝『晋紀』は「所向摧靡、秦涼遂平、名震天下」と記し、まさしく万人に敵する豪将と称えられたのである。
東夷校尉への転任と失脚、そして復任
西戎を討ち破って名声は天下に鳴り響き、文鴦は「万人の雄」とまで讃えられた。やがて建熙元年(289年)、東夷校尉・假節に任ぜられることとなり、出立に際して司馬炎へ拝謁する。
だが、その堂々たる風貌と溢れる気迫は、皇帝の胸にむしろ嫌悪と猜疑を呼んだ。もし辺境に置けば、いずれ裏切るのではないかと不安が渦巻いたのである。そこで「僭飾過制」(=身分を越えた過度な装飾や服飾を用いたとの意)の罪を着せ、免職とした。密かに奏上されたのは、文鴦が過度に飾り立てた四望車を用いたという告発であった。
とはいえ司馬炎も文鴦の軍功を惜しみ、ほどなく司馬炎は心変わりし、再び文鴦を東夷校尉に任じた。讃えられる一方で恐れられる。この微妙な立場こそ、文鴦の宿命を象徴していたといえよう。
非業の最期:八王の乱前夜、三族皆殺し
太熙元年(291年)、外戚楊駿の専権が崩れ去ると、その失脚は三千余人を巻き添えにする大粛清へと広がった。
この混乱のただ中において、東安王司馬繇はかつての恨みを晴らそうと動いた。司馬繇は諸葛誕の外孫であり、寿春の乱において文鴦が父とともに魏へ寝返ったことが、祖父の敗亡と一族皆殺しの遠因であったと信じていた。
彼は「文鴦は楊駿と通謀して謀反を企んだ」と誣告し、ついにその罪を着せることに成功する。こうして文鴦は無実のまま夷三族の刑に処され、一族もろとも歴史の舞台から抹消された。
魏・晋を通じて鮮卑を討ち、諸戦で功を重ね、「万人の雄」と讃えられた猛将の末路は、あまりに非業であった。
後世の評価と伝説化
干宝『晋紀』は文鴦を「膂力万夫、万人之雄」と激賞し、『晋書・李庠伝』もその武勇を李庠に比して伝えている。
唐代以降は詩歌にもその名が引かれ、李賀・杜牧らが詠嘆し、後世の武勇譬喩としてもしばしば引用された。
その生涯は、父の反乱に連なった不遇から始まり、魏と晋の狭間を渡り歩き、ついには政争に呑まれて斃れるという劇的なものであったが、勇将としての名声は時代を超えて残り続けたのである。
参考文献
- 参考URL:文鴦 – Wikipedia
- 參見:『資治通鑑・魏紀七十六』
- 參見:『三國志・魏志・毌丘諸葛伝』
- 參見:『晋書』
FAQ
文鴦の字(あざな)は?
文鴦の字は次騫(じけん)です。本名は文俶で、「鴦」は小名と伝わります。
文鴦はどんな人物?
魏・呉・晋の三勢力にまたがって活動し、若くして勇名を馳せた武将です。晋建国後は西北で鮮卑 勢力を破り、統率と武勇で「万人の雄」と称されました。
文鴦の最後はどうなった?
永熙元年(291年)、楊駿失脚の余波で東安王司馬繇に誣告され、楊駿と通謀したとされて夷三族 に処されました。
文鴦は誰に仕えた?
当初は魏、その後は呉に亡命し、諸葛誕の乱を経て再び魏へ帰順。のち晋の将として起用されまし た。
文鴦にまつわるエピソードは?
十八歳で鼓を三度鳴らして兵を鼓舞した初陣の逸話や、277年に平虜護軍として鮮卑・羯を大破し 二十万の降附を得た戦功が著名です。
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