【1分でわかる】濮陽興の出世と失墜、孫皓を擁立して処刑された丞相【徹底解説】

濮陽興

1分でわかる忙しい人のための濮陽興の紹介

濮陽興(ぼくようこう)、字は子元(しげん)、出身は兗州陳留郡外黄、生没年(3世紀~264年) 三国時代の呉に仕えた政治家であり、最後には丞相まで昇進した人物である。
父は孫権の政権下で長沙太守に任じられた濮陽逸で、名門陸氏との縁もあった。濮陽興は若年から評判が高く、孫権の時代に地方官や中央の要職を歴任し、蜀へ使節として赴いた経歴も持つ。
会稽太守の時期には孫休と親交を深め、その後孫休が即位すると宰相として抜擢される。浦里塘の築造を主導したが、工事の犠牲が多く民の怨嗟を買った。さらに張布と結託して権勢を振るい、国内の失望を招いた。
孫休の死後、太子を立てず孫皓を迎立したことが彼の運命を決定づける。孫皓が暴虐を現すと、かつての功臣であった濮陽興は逆に誅殺され、一族も滅ぼされた。陳寿は「宰輔の器にあらず」と厳しく評している。

👉 もっと知りたい方は続きをご覧ください

濮陽興を徹底解説!出自から呉の丞相としての功績と孫皓擁立の失策

出自と家系の背景

濮陽興の父、濮陽逸は、乱世を逃れて南へ流れ着いた。後漢の乱世を背に、江東の地に根を下ろした男である。
その地で彼が手を差し伸べられた相手が、呉郡の名門・陸遜の弟、陸瑁だった。豪族の縁という借り物ではあるが、それは濮陽逸にとって命綱のようなものだった。

やがて濮陽逸は、孫権の下で長沙太守となる。この地位こそ、息子・濮陽興が後に覇を企てるための踏み台となった。

若年期からの経歴

濮陽興は若くして高い名声を得ていた。
孫権の治世にて、まず上虞令に抜擢され、やがて尚書左曹、さらに五官中郎将へと昇進。中郎将になると、蜀への使節派遣という大役を任された。

帰国後、会稽太守に任ぜられた。
永安二年(257年)、会稽の地で、濮陽興は山陽の朱育らと郡内有力者について論じ合う。頭を巡らせ、言葉を交わすその姿は、官吏というより学者の風があった。

さらにこの時期、会稽で暮らしていた琅邪王・孫休と深い交友を結ぶ。表向きは隣人同士かもしれないが、その人脈と信頼は、後に孫休が皇帝となったとき、彼が重用される下地となったのである。

孫休即位後の登用と浦里塘築造

太平三年(258年)、クーデターの嵐が吹き抜ける中、孫綝によって孫亮を廃して孫休が帝位に据えられると、濮陽興の人生にも追い風が吹いた。
同年十月、彼は太常に任じられ、さらに衛将軍も兼任して軍政を担う要職へと躍進。ついでに「外黄侯」という貴族タイトルまでついてきて、周囲がざわつくレベルの出世を果たした。

永安二年(259年)になると、孫休は「農業大事!」のスローガンを掲げ、詔を出して生産体制の強化を宣言。翌年、都尉の厳密が丹楊湖に浦里塘を築いて湖を囲んで田んぼにする計画をぶち上げたところ、百官たちは「そんなのムリムリ。金も人も足りません」と全力でストップをかける。だが、濮陽興は「できる。」と主張し、兵を動員して本格的に着工された。

しかし現実は甘くなかった。工事は難航を極め、多くの兵士が犠牲になる消耗戦に突入し、コストも青天井で、民衆の不満は爆発寸前。

「浦里塘」はいつ完成したのか。いや、そもそも完成したのか? 正史は沈黙している。ただ一つ確かなのは、濮陽興が「国のため」を思って推進したこの事業が、民衆から「お前のせいで腹が減った」と怒鳴られるような存在になったことだろう。

丞相就任と張布との専権

永安五年(262年)冬十月、濮陽興はついに丞相へと昇進する。
だが同時期、もう一人の「実力者」左将軍・張布も政権の中枢にいた。孫休とは古くからの知り合いというコネで、宮廷での発言力をガンガン強化していた。

孫休にがこの二人に政務を委ね、張布は宮中のことを、濮陽興は軍国の大政を掌握し、張布&濮陽興コンビが誕生する。ところが、ここからが問題だった。
ふたりは見事なまでに結託し、誰の意見も聞かず、政務は内輪で回し、失望感が呉中にじわじわと広がっていった。

魏の蜀攻伐と軍備増強策

永安六年(263年)冬十月、この年の呉は、まさに外患内憂のフルコース。
まず交阯では、呂興が太守・孫諝を殺して叛乱が勃発する。
呉中がザワついたその矢先、さらに悪い知らせが届く。

「魏が大軍で蜀に攻め込む」という大ニュースが飛び込んでくる。 孫休も驚き、漢中への援軍ではなく、魏に対して三方面からの出撃を命令し、魏の兵を分散させる計画と立てる。 準備も整い「いざ出陣!」と士気を上げたが、直後に飛び込んできたのが「劉禅、魏に降伏しました」というまさかの結末。あえなく出撃は空振りに終わり、軍は撤収するはめになった。

その間に呂興は、魏の南中都督・霍弋に「魏に庇護してほしい」と頭を下げる。霍弋はこの件を洛陽に奏上し、交阯の行方はもはや呉の手を離れつつあった。

この不穏な情勢に対し、丞相・濮陽興は屯田してた一万人をそのまま兵士に転用しようというプランで、これが見事に採用された。さらに武陵郡を分割して、新たに「天門郡」を設置。武陵に抜擢されたのが鍾離牧であるが、天門郡は伝わっていない。

孫休の崩御と後継問題

永安七年(264年)七月、呉の帝・孫休が病に伏し、そのまま崩御した。
言葉を失ってもなお、彼は最後の意志を伝えようとした。手招きで濮陽興を枕元に呼ぶと、黙って太子・孫ワン(「雨」の下に「單」)を指さした。そこには、父としての最後の願いが込められていた。

だが、時代はそんな感動的な引き継ぎを許してはくれなかった。
蜀はすでに滅び、南方では交阯が炎上中。内憂外患、国はまるで綱渡りの真っ最中だった。
「今こそ大人の男が舵を取るべきだ」と、大臣たちの心は動く。幼い太子より今は即戦力、そんな空気が確実に朝廷を包んでいった。

孫皓の擁立と政治の変化

孫休の崩御を受けて、呉の朝廷は後継問題が起こる。
そこで立ち上がったのが、左典軍の万彧である。彼は烏程侯・孫皓を強く推し、「彼は長沙桓王の血を引き、聡明で学を愛し、法にも忠実。いわば、今すぐ使える帝王候補であります」と何度も猛プッシュ。

濮陽興と張布はこのプレゼンを素直に受け取り、太后・朱氏に報告した。
朱太后は「私は政事のことは分からぬけれど、国に損がなく、祖先に恥じぬなら、それでよいでしょう」と一言で、実に清々しい放任スタイルであった。
かくして、大将軍・丁奉らとともに孫皓は迎えられ、ついに呉の皇帝に即位することとなった。

濮陽興は引き続き丞相に任命され、さらに侍中に取り立てられ、青州牧を兼任するなど厚く遇された。張布は驃騎将軍・侍中に任命され、施績は左大司馬、丁奉は右大司馬に任じられ、それぞれ官位が引き上げられた。

即位した孫皓は、最初は意外と「できる子」だった。
官吏には褒賞を、民には慰撫を、飢えた者には米俵を、後宮の過剰な宮女たちには解散命令を出し、さらには珍獣・奇鳥までも自然に返す。まるで「徳の森の帝王」のような仁政を展開した。
この頃の彼はまさに理想の君主、世人は口をそろえて「明主ここに現る」と称えた。

新帝・孫皓は即位早々、驚くほどの善政を披露する。官吏を賞し、民を慰め、穀物を配り、貧民を救済。さらに「宮女は多すぎるから減らすぞ」「珍獣も放してやれ」と言い出し、人々は拍手喝采。「明主が現れた!」と称えられた。
このとき、まさか数か月後に全員が「見る目なかった」と頭を抱えることになるとは、誰も想像していなかった。

孫皓の暴虐と濮陽興の最期

「明主現る」と絶賛された孫皓だったが、長くは仮面をかぶれなかった。
政は酒宴、天命は占い、権力は私欲の道具に変わっていった。色と欲に耽るその姿に、当初は微笑みを交わしていた濮陽興と張布も、次第に眉をひそめるようになる。
「まさか、こんなはずでは」と、二人の脳裏には、あの日の擁立会議がフラッシュバックしていた。

だが、後悔は声にすれば命取り。
この様子を嗅ぎ取ったのが、左典軍・万彧である。彼は密かに「あの二人、どうやらご不満のようです」と孫皓に報告。
こうして運命の元興元年(264年)十一月初一、両名は何も知らぬ顔で朝廷に出仕し、そのまま逮捕された。

二人には広州への流罪が言い渡されたが、流刑地に着く前に、追っ手の剣が彼らを待っていた。
さらには家族一同までが誅殺され、濮陽興と張布の一族は、まるごと歴史の舞台から姿を消した。

孫皓を帝に押し上げたその手で、彼らはわずか四か月後に粛清されることとなった。
歴史とは時に、最悪の選択を最も信じた者にこそ、最大の報いを与えるのである。

陳寿の評価と史料の記録

『三国志』の著者・陳寿は、濮陽興に対して実に冷ややかだった。
「濮陽興は宰相の地位にありながら国家を経営する器量を欠き、張布の悪に与し、万彧の進言に軽々と乗った。誅されて然るべき」と、バッサリ。
歴史の筆は容赦がない。失敗した政治家に第二章などないのである。

後世に残ったのは、功績よりもむしろ無能と専権のイメージだった。
濮陽興は宰相でありながら国家を導けず、むしろ国を危うくした存在と見なされたのである。

参考文献

濮陽興のFAQ

濮陽興の字(あざな)は?

濮陽興の字は子元(しげん)です。

濮陽興はどんな人物?

濮陽興は若くして名声を博し、呉の重臣となりましたが、張布と専権を行い民衆からは怨嗟を受けました。宰相としては力量不足と評されます。

濮陽興の最後はどうなった?

孫皓の即位後、失望していたことを密告され、元興元年(264年)十一月に流刑の途上で殺害され、一族も処刑されました。

濮陽興は誰に仕えた?

濮陽興は呉の孫権の時代から仕え、孫休に重用され、さらに孫皓を擁立しました。

濮陽興にまつわるエピソードは?

会稽太守時代、孫休と親交を結び、後の帝位擁立の基盤を築きました。また浦里塘の築造を推進しましたが、多くの犠牲を出して民に怨まれました。

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました