【1分でわかる】糜竺の生涯:劉備を支え最後は弟の裏切りに散った忠臣【徹底解説】

麋竺

1分でわかる忙しい人のための糜竺の紹介

糜竺(びじく)、字は子仲(しちゅう)、出身は徐州東海郡朐、生没年(?〜221年)
徐州随一の豪族として知られる麋竺は、名実ともに劉備最大のパトロンである。
先祖代々の富と権勢を受け継ぎ、家には奴僕や食客が万単位。地元の名士として陶謙に登用されるが、主の死後はその遺命で劉備を徐州へ招き入れた。
呂布の襲撃で劉備が落ちぶれたときは、自らの妹を嫁がせ、財宝や家人を差し出すという“全力の推し活”で劉備を支援。その後も曹操からの厚遇を蹴り、終生劉備に殉じた。
後に蜀漢では安漢将軍として諸葛亮よりも高位に置かれ、蜀内では最も手厚い待遇を受ける。だが、弟の糜芳が関羽を裏切ったことで深く自責し、失意のうちに病没した。

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糜竺を徹底解説!劉備を救った金と誠のパトロン

蜀漢を支えた豪族:麋竺の出自と劉備への献身

糜竺は、徐州東海郡朐の名門中の名門。
「一族で一個国家やれそう」なくらい土地と人を所有し、育成された奴僕や客人の数は万を超える。
そんな超ブルジョワな彼を見込んだ陶謙は、地方行政の実務を預ける“別駕”として招いた。

しかし陶謙が病没すると、糜竺の人生は一気に“運命の推し活ルート”へと突入する。
陶謙の遺命に従って、当時小沛にいた劉備を徐州の主として招き入れたのだ。
この時点で、彼はすでに劉備の将来に賭けていたと言える。

だが平穏は長く続かない。呂布が徐州を奪い、劉備は大敗。妻も人質となって漂浪する羽目に。
そこで糜竺は「いっそ親戚になっちゃえば離れられんでしょ」と、妹を劉備に嫁がせる。
しかも金銀財宝と奴僕までつける“豪族の全力支援パック”を提供した。

安漢将軍にして待遇最上位:蜀漢での麋竺の立ち位置

劉備が曹操に敗れて荊州に逃れた際も、糜竺は簡雍・孫乾らと共に先遣使として劉表と面会し、次の拠点を確保するために尽力。
そして益州制圧後、ついにその献身が報われる。214年、糜竺は「安漢将軍」に任命される。
この役職、肩書きこそ大人しいが、当時の蜀臣の中でも抜群の待遇。軍師将軍の諸葛亮よりも序列が上。

その地位が物語るのは、糜竺の“政治能力”ではなく“功労者”としての圧倒的存在感である。
いわば彼は、政界の隅っこでひっそりと咲く“殿堂入りスポンサー”。
蜀の中枢では「財の人」として、誰もがその貢献に異を唱えなかった。

弟の裏切り、兄の責任:麋竺の最期

219年、関羽が樊城を攻めるが、後方支援を担っていた糜芳(糜竺の弟)が寝返る。
この背信により、関羽は呂蒙に挟撃され、ついに敗死する。
兄の糜竺はその知らせを聞くと、自ら縄を巻いて劉備の前に出頭。
「すみません、弟がやらかしました」と懺悔した。

しかし劉備は怒らなかった。
「弟の罪を兄が背負う必要はない」と慰め、以前と変わらぬ礼遇を続けたという。
にもかかわらず、糜竺はそれを受け止めきれず、鬱々としたまま病に倒れた。
このあたり、人の好さと責任感の強さが仇になったと言える。

雍容たる人柄と評価:糜竺の人物像と後代の称賛

糜竺は、武芸(騎馬・射術)は得意だが、内政・軍略には不向きだった。
そのため、実質の職務というより“徳望と人柄”で重用された。
雍容、寛大、礼儀正しさにおいては群を抜き、蜀の知識人の代表格として名を連ねる。

曹操も彼を高く評価し、「忠誠と文武の才あり」として郡太守に推薦したことがある。
だが糜竺は、それを辞退してまで劉備に殉じた。
楊戲の『季漢輔臣贊』では、「婚姻や賓客の礼を尽くした循臣」として称えられている。
結果として、その生涯は“忠義の象徴”として記憶されることとなった。

参考文献

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