1分でわかる忙しい人のための糜竺(麋竺)の紹介
糜竺(びじく)、字は子仲(しちゅう)、出身は徐州東海郡朐県、 生没年(?~221年)
麋竺が正解だが、「糜」ほうが通っているので、本ページでは糜竺で統一する。
三国時代の蜀の重臣であり、劉備を経済面から支えた最大の功労者である。
豪族の出身で、僮僕・食客を一万人以上抱えるほどの富豪であった。
陶謙に仕えて別駕従事となり、主の遺命により劉備を徐州に迎え入れた。
その後、劉備が呂布に敗れると、妹を劉備に嫁がせ、私財を投じて軍を再建させる。
建安十九年(214年)、劉備が益州を掌握すると安漢将軍に任じられ、蜀臣中でも最高の待遇を受けた。
だが建安二十四年(219年)、弟のびじ糜芳が呉に降り関羽を敗死させたことを恥じ、自ら縛して謝罪。
劉備の寛大な赦しを受けるも深く自責し、ほどなく病没した。
誠実で温厚、礼節を重んじる人物として後世に名を残した。
糜竺を徹底解説!劉備を救った金と誠のパトロン
蜀漢を支えた豪族:麋竺の出自と劉備への献身
糜竺は、徐州東海郡朐の名門中の名門。
「一族で一個国家やれそう」なくらい土地と人を所有し、育成された奴僕や客人の数は万を超える。
そんな超ブルジョワな彼を見込んだ陶謙は、地方行政の実務を預ける“別駕”として招いた。
しかし陶謙が病没すると、糜竺の人生は一気に“運命の推し活ルート”へと突入する。
陶謙の遺命に従って、当時小沛にいた劉備を徐州の主として招き入れたのだ。
この時点で、彼はすでに劉備の将来に賭けていたと言える。
だが平穏は長く続かない。呂布が徐州を奪い、劉備は大敗。妻も人質となって漂浪する羽目に。
そこで糜竺は「いっそ親戚になっちゃえば離れられんでしょ」と、妹を劉備に嫁がせる。
しかも金銀財宝と奴僕までつける“豪族の全力支援パック”を提供した。
安漢将軍にして待遇最上位:蜀漢での麋竺の立ち位置
劉備が曹操に敗れて荊州に逃れた際も、糜竺は簡雍・孫乾らと共に先遣使として劉表と面会し、次の拠点を確保するために尽力。
そして益州制圧後、ついにその献身が報われる。214年、糜竺は「安漢将軍」に任命される。
この役職、肩書きこそ大人しいが、当時の蜀臣の中でも抜群の待遇。軍師将軍の諸葛亮よりも序列が上。
その地位が物語るのは、糜竺の“政治能力”ではなく“功労者”としての圧倒的存在感である。
いわば彼は、政界の隅っこでひっそりと咲く“殿堂入りスポンサー”。
蜀の中枢では「財の人」として、誰もがその貢献に異を唱えなかった。
弟の裏切り、兄の責任:麋竺の最期
219年、関羽が樊城を攻めるが、後方支援を担っていた糜芳(糜竺の弟)が寝返る。
この背信により、関羽は呂蒙に挟撃され、ついに敗死する。
兄の糜竺はその知らせを聞くと、自ら縄を巻いて劉備の前に出頭。
「すみません、弟がやらかしました」と懺悔した。
しかし劉備は怒らなかった。
「弟の罪を兄が背負う必要はない」と慰め、以前と変わらぬ礼遇を続けたという。
にもかかわらず、糜竺はそれを受け止めきれず、鬱々としたまま病に倒れた。
このあたり、人の好さと責任感の強さが仇になったと言える。
雍容たる人柄と評価:糜竺の人物像と後代の称賛
糜竺は、武芸(騎馬・射術)は得意だが、内政・軍略には不向きだった。
そのため、実質の職務というより“徳望と人柄”で重用された。
雍容、寛大、礼儀正しさにおいては群を抜き、蜀の知識人の代表格として名を連ねる。
曹操も彼を高く評価し、「忠誠と文武の才あり」として郡太守に推薦したことがある。
だが糜竺は、それを辞退してまで劉備に殉じた。
楊戲の『季漢輔臣贊』では、「婚姻や賓客の礼を尽くした循臣」として称えられている。
結果として、その生涯は“忠義の象徴”として記憶されることとなった。
参考文献
麋竺のFAQ
麋竺の字(あざな)は?
字は子仲(しちゅう)です。
麋竺はどんな人物?
雍容大方で温厚な性格。富豪でありながら義を重んじ、劉備を経済的に支えた人物です。
麋竺の最後はどうなった?
弟の糜芳が呉に降伏したことを恥じて自責し、劉備の許しを受けたのち病没しました(221年頃)。
麋竺は誰に仕えた?
初めは陶謙の部下でしたが、その後劉備に仕えました。
麋竺にまつわるエピソードは?
妹を劉備に嫁がせ、家財を投じて主君を救った忠義の人です。



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