【1分でわかる】夷陵の戦い:劉備の復讐と陸遜の知略が激突した悲劇【徹底解説】

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1分でわかる忙しい人のための夷陵の戦い紹介

夷陵の戦い(いりょうのたたかい)、別名、猇亭の戦い。
後漢末期から三国時代にかけて、官渡・赤壁と並ぶ「三大戦役」の一つが、この夷陵の戦いである。
事の発端は、建安24年(219年)に呉が蜀の大将・関羽を討ち取ったこと。
これにより、曹操に対抗するため手を組んでいた孫劉同盟は崩壊してしまう。
怒りに燃えた劉備は、章武元年(221年)に関羽の仇討ちと荊州奪還を掲げ、数万の大軍を率いて呉へ侵攻。
しかし、孫権は劉備に和睦を申し入れるも、復讐心に燃える劉備はこれを拒否した。
迎え撃つ呉軍の総大将は、当時まだ若手だった陸遜だ。
陸遜は徹底的な持久戦で劉備軍を疲弊させ、最終的に劉備軍の布陣の弱点を突いた「火計」を決行。
火攻めによって劉備軍は壊滅的な打撃を受け、劉備は命からがら白帝城へと敗走、その地で病に倒れ生涯を終えることになる。
この戦いは、蜀に回復不能なほどの大打撃を与え、その後の三国時代の勢力図を決定づけることになったのだ。

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復讐の炎を胸に:夷陵の戦いの全貌

呉の裏切りはなぜ?孫劉同盟を崩壊させた関羽討伐の真実

後漢建安24年(219年)。
時代は、劉備、孫権、曹操という名の野心家たちが「俺が天下を取る!」と欲望丸出しで争う、混沌の極みだった。
そんな中、劉備と孫権は、北方の最強の敵・曹操に対抗するため、「孫劉同盟」という名の互助会を結んでいた。
それは、固い友情で結ばれた尊い関係…ではなく、あくまで共通の敵という利害だけで繋がった、ビジネスライクな同盟だ。
しかし、この胡散臭い関係は、呉のボス・孫権が仕掛けた裏切りによって、あっけなく終わる。
劉備軍の顔役・関羽が北伐で留守にしている隙を突いて、孫権は荊州に攻め込み、関羽を捕まえて容赦なく処刑した。
これで終わりかと思いきや、孫権はさらに劉備の領地まで奪おうと画策する。
劉璋を益州牧、周泰を漢中太守に任命。
そして、巫県・秭帰には蜀と同じ名前の「固陵郡」を設置し、潘璋を太守に据えるなど、劉備の支配する益州への侵攻計画を着々と進めていたのだ。

劉備の復讐心:魏への揺さぶりと漢帝国の継承

身内同然の関羽を殺され、大切な土地まで奪われた劉備からすれば、これは絶対に許せない裏切り行為。
復讐心に燃える劉備は、呉との戦いに向けて、まずは国内外の安定をはかる。
関羽が討たれた翌年、遠く離れた洛陽で曹操が死去すると、劉備は弔問と称して曹丕の動向を探るために使者を送った。
これは、呉との戦いを有利に進めるため、講和と探索が目的だったが、曹丕は劉備の意図を見抜き、使者を殺害して劉備との関係を断ち切った。
そして、曹丕が後漢の皇帝から禅譲を受けて魏を建国すると、劉備は「漢の血を引く俺が、漢の復興を成し遂げる!」とばかりに、成都で帝位に就き、蜀漢の皇帝となったのだ。
こうして、後漢という看板は降ろされ、三国時代が本格的に幕を開けることになった。

復讐への道:張飛の死と孫権の和睦嘆願

帝位に就いた劉備の頭の中は、やはり関羽の仇討ちでいっぱいだった。
章武元年(221年)7月、劉備はついに数万の大軍を率いて呉への侵攻を開始する。
しかし、そのわずか数ヶ月前の5月、蜀の大将であった張飛が、出陣の準備中に配下によって暗殺されるという悲劇に見舞われた。
普通なら心が折れてしまいそうなものだが、劉備の復讐心は衰えを知らなかった。
大切な臣下を立て続けに失ったことで、その怒りは頂点に達したのかもしれない。
一方、劉備の侵攻を知った孫権は、慌てて使者を送り、和睦を嘆願する。
諸葛瑾は劉備に手紙を送り、冷静になるよう説得を試みたが、復讐心に燃える劉備は、孫権の申し出をきっぱりと拒絶したのだった。

孫権の老獪な戦略:陸遜の抜擢と持久戦の幕開け

劉備の大軍が押し寄せてくるという報せを受けた孫権は、さすがに焦った。
しかし、彼はただ震えているだけの男ではない。
劉備との全面対決を前に、孫権は曹丕に対し臣下の礼をとり、魏と同盟を結ぶことで、背後の憂いをなくすという老獪な手を打ったのだ。
そして、劉備軍を迎え撃つ総大将に任命されたのが、当時まだ若手で、実績も少なかった陸遜だ。
周囲の将軍たちは「なんであんな若造に?」と不満を漏らしたが、孫権は彼の才能を見抜いていたのだろう。
陸遜は、敵の勢いに正面からぶつかるのは無謀だと判断。
「敵は勢いに乗っている。下手に戦うよりも、持久戦に持ち込むのが得策」という徹底した防衛策をとることを決めた。
呉軍は夷陵や猇亭まで退き、地の利を活かした守りを固め、劉備軍を待ち構えた。

蜀軍の進撃:快進撃の裏に隠された無謀な布陣とは?

劉備軍は呉班や陳式らの水軍を動かし、夷陵で呉軍と激突。
巫県に駐屯していた李異を破り、夷陵や宜都郡治の夷道まで進軍した。
これにより、呉が設置していた固陵郡と宜都郡をほぼ奪回し、廖化を宜都太守に任命するなど、かなりの勢いだった。
さらに、劉備は武陵の異民族にも使者を送り、金品や官職を与えて味方につけるなど、着実に勢力を広げていく。
現地の部族もこれに呼応し、荊南の桂陽・零陵でも反乱が起こるが、長沙は呉将・歩騭がしっかりと守っていたため、動きはなかった。
劉備は呉軍を誘い出すため、あらゆる手を使って挑発を繰り返したが、陸遜はそんな挑発には一切乗らなかった。
この膠着状態は、1~6月までの半年にも及んだ。
長期戦で疲労が蓄積した劉備軍は、夏の暑さを避けるため、陣営を数百里にわたって山林の中に連ねるという、無謀な布陣を敷いてしまう。

陸遜の逆転劇:火計が炸裂した運命の瞬間

劉備軍が無謀な布陣を敷いたのを見て、陸遜は「よし、これだ」とばかりにニヤリと笑ったに違いない。
だが、彼はすぐには総攻撃を仕掛けなかった。
222年6月、陸遜はまず一部の陣営に小規模な攻撃を仕掛けるが、これは失敗に終わる。
周囲の将軍たちは「やっぱりダメじゃないか!無駄な兵を死なせやがって!」と非難したが、陸遜は動じなかった。
なぜなら、この攻撃の過程で、劉備軍の陣営がすべて燃えやすい木柵でできていることに気づいたからだ。
彼の頭の中では、勝利の方程式が完成していた。
そして、陸遜はついに総攻撃を開始する。
彼は火のついた藁束を投げ込ませ、木柵でできた劉備軍の陣営に火を放った。
風にあおられた火はあっという間に燃え広がり、数百里にわたる劉備軍の陣営は、まるで地獄絵図のように炎の海と化した。

蜀軍の壊滅:多くの将軍が命を落とした悲劇

この火攻めにより、劉備軍は四十余りの陣営が破られ、将軍の馮習、張南、沙摩柯、馬良、そして程畿といった多くの将軍が戦死、死者は数万に上った。
また、退路を守るために奮戦した傅肜は、敵に降伏を勧められるが、「漢の将軍が呉の狗に降るものか!」と罵って戦い続け、戦死した。
水軍を率いていた黄権は、呉軍に退路を断たれ、やむなく敵である魏に降伏するという屈辱を味わう。
そんな中で、向寵の率いる部隊だけは、その指揮と規律が乱れることなく、無傷で撤退に成功したという。

歴史的評価:夷陵の戦いから学ぶ軍事戦略の教訓

火攻めによって軍を失った劉備は、かろうじて難を逃れ、永安県の白帝城まで敗走する。
この敗戦で劉備は心身ともに限界を迎え、この地で病の床に伏し、丞相・諸葛亮に後事を託してこの世を去ることになる。
この夷陵の戦いは、蜀に回復不能なほどの大打撃を与えた。
一方、呉は荊州の領有を確固たるものとし、魏・呉・蜀の三つ巴の対立構造が決定づけられる。
この戦い以降、魏が蜀を滅ぼす263年まで、三国間の大規模な領土の変更は起こることはなかった。
晋代の歴史家・陳寿は、『三国志』の中で「劉備は天下に名高い雄傑だったが、陸遜は若くしてそれを打ち破った」と陸遜の才能を高く評価している。
また、魏の文帝・曹丕は、劉備が数百里にわたって陣を連ねていると聞いて「兵を知らぬな」と笑ったという。ただその後曹丕は家臣の諫めを無視して、呉を攻めて失敗しているので、どっこいどっこい。
この夷陵の戦いは、軍事戦略の教科書としても、多くの教訓を残すことになったのだ。

参考文献

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