【1分でわかる】永安の戦い:蜀滅亡後、羅憲が呉を退けた防衛の全貌【徹底解説】

永安の戦い

1分でわかる忙しい人のための永安の戦いの紹介

永安の戦い(264年)は、三国時代の末期、蜀の滅亡後に発生した魏と呉の間の戦役である。
永安(現在の重慶市奉節県)はもと蜀の領土であり、滅亡直前まで巴東太守・羅憲が駐屯していた。
蜀の劉禅が魏に降伏すると、呉は盟約を反故にし、永安を奪取しようと大軍を派遣。
これに対し羅憲は、もはや蜀も存在しないにもかかわらず、あえて魏に忠を示し、数にして圧倒的に劣る兵力で半年にわたり籠城を決意する。
呉は陸抗を含む大軍をもって執拗に包囲するが、司馬昭が後方の西陵を攻める「囲魏救趙」策を実行。
呉軍は退却し、戦いは魏の戦略的勝利に終わる。国の枠を超えて、一人の将の決断が戦局を左右した稀有な戦例である。
なお、「囲魏救趙」とは古代中国の兵法書『三十六計』に記される戦術で、敵がある拠点を攻めているとき、正面から救援に向かうのではなく、敵本拠地や後方を急襲して撤退を誘うという間接的な制圧法を意味する。

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永安の戦いを徹底解説!蜀滅亡後、羅憲が呉を防いだ孤城の半年間

戦火の導火線:蜀の終焉と永安防衛の発端

中平2年(263年)の十月、蜀に激震が走る。
魏が攻めてくるというか、もう攻め込まれてると、蜀の後主・劉禅に急報が届いた。
これに気づいた蜀は、慌てて「呉に助けてもらおう!」という、今さら感満載の手を打つ。 そのとき巴東太守であった羅憲は、劉禅の命を受け、わずか二千人の兵で永安(現在の重慶市奉節県)を守ることとなった。
救援を受けた呉の皇帝・孫休は、大将軍・丁奉を寿春方面への総指揮とし、魏に対する攻勢に出るよう命じた。
また、将軍・留平と施績を南郡に派遣して、永安から蜀へ入る道筋について協議させ、さらに丁封と孫異の二将には漢水を遡って漢中に進軍させた。
つまり孫休は、三方向から魏を牽制しつつ、蜀に進入する策を講じたのである。
距離的に最短経路で蜀へ入るルートを意味し、魏軍の正面と同時に背後にも圧力をかけようとする構想だった。
だが、魏の進軍速度は、もう新幹線レベルで、呉軍が準備している間に、蜀はほぼ終わっていた。

盟約崩壊:劉禅降伏と呉の撤兵

呉軍が救援の行動を起こしたのも束の間、事態は秒で終わった。
263年十一月、劉禅が魏に降伏し、蜀の滅亡がというニュースが呉に届く。出兵してわずか一か月後である。
この知らせを受けて、戦う理由も消失したので、呉ではすぐさま全軍の救援行動を中止する。

やがて羅憲のもとにも、劉禅自筆の降伏通知が届く。
蜀の終焉を正式に知った羅憲は、部下を率いて永安の都亭に赴き、三日間にわたって弔意を示した。
それはただの形式的な儀式ではなく、彼にとって本朝の死を悼む、本気の哀悼であった。

怒れる忠義:盟友に裏切られた羅憲の決意

劉禅の降伏から間もなく、264年2月、呉の皇帝・孫休は再び兵を動かした。
今度は援軍ではなく、もはや明確な侵略行為である。
陸抗、歩協、留平、盛曼らを派遣し、永安を包囲して奪おうとした。
すでに蜀は滅んでおり、羅憲にはもはや戦う義務などない。ただの残党で終わっても、誰も責めないタイミングだった。

でも彼は、永安攻撃の情報が届くとブチ切れた。
「本朝(蜀)が滅びたこの時に、呉は盟約を反故にして、我が巴東を奪わんとする。不義も甚だしい」
彼はそう断じ、敵に降ることも、逃げることもせず、むしろ自ら兵を整え、戦う準備を始めた。
当時、永安に籠る羅憲の兵力はごくわずか。形勢は明らかに不利であったが、彼は戦う覚悟を固める。

しかし、呉から見れたら、すでに蜀という国はこの世に存在しない。 魏もまだ永安までは統治に手が回っていない。
つまり、あそこは誰のものでもない空白地帯で、これは軍略的には、むしろ当然の動きだった。

孤軍奮闘:永安の戦い

呉軍の中で最初に動いたのは歩協であった。永安に対し急攻を仕掛けるが、羅憲の奮戦により撃退される。
これを知った孫休は激怒し、さらに三万の兵を率いた陸抗を西陵から派遣。永安を本格的に包囲する体制が敷かれた。
羅憲の側はどうかというと、兵は少ない、援軍なし、城は孤立。地獄の三拍子がそろっている。 それでも彼は参軍・楊宗を密かに突撃脱出させ、魏の安東将軍・陳騫に救援を求める。
また、文武の印綬と任子も司馬昭のもとに送り、魏に対する忠誠の意思を明確にしていた。

死守の覚悟:撤退を拒み、六か月持ちこたえる

羅憲は永安の城を固く守り、呉軍は六か月にわたり攻め続けたが、落とすことはできなかった。
その間、魏からの援軍は到着せず、城内の軍民は飢えと病に苦しみ、状況は日を追って悪化した。
「もはやこれまで、城を捨てて突囲すべきだ」と進言する者もいたが、羅憲は断固として拒否し、城主として最後まで軍民と共に存亡をともにする覚悟を示した。
この言葉により、兵士と住民は士気を奮い立たされ、城はなんとか持ちこたえていた。

一方、魏では成都で鄧艾が失脚した直後、鍾会が反乱を起こし、胡烈を含む魏の将たちを幽閉する事件が発生している。
しかし胡烈の部下らが決起して鍾会を殺害し、成都の混乱は収束する。胡烈はこの功績によって荊州刺史に任じられた。
羅憲の永安からの救援要請は安東将軍・陳騫を経て司馬昭に報告されていたが、魏は成都の混乱を収めた直後で、直接の救援は困難であった。
そこで司馬昭は、荊州刺史についたばかりの胡烈に命じて二万の軍を率いさせ、呉の荊州重鎮・西陵を急襲させる戦略を取る。

勝者の報酬:羅憲の昇進と任官

この胡烈の援軍は大きな効果を発揮した。
西陵の後背を脅かされた陸抗は守備を優先せざるを得ず、永安を包囲していた呉軍は264年七月に撤退した。
こうして半年に及ぶ攻防戦は、羅憲が最後まで永安を死守することで幕を閉じた。

呉軍撤退の報が都に届いたとき、司馬昭はすぐに羅憲に報いた。
彼を巴東太守に再任し、さらに陵江将軍に昇格、万年亭侯の爵位を与えた。
亡国の武将が、新たな主のもとで忠義を貫き、爵位を得る。そんな話は三国志においても例が少ない。

参考文献

FAQ

永安の戦いはいつ起きましたか?

永安の戦いは蜀漢滅亡直後の西暦264年に起こり、呉軍が永安を半年にわたり包囲しました。

永安の戦いの主な人物は誰ですか?

守備側は蜀の巴東太守であった羅憲、攻撃側は呉の陸抗・歩協・留平らです。魏からは安東将軍陳騫と荊州刺史胡烈が関与しました。

永安の戦いはなぜ起きたのですか?

蜀が魏に降伏して滅亡した後、呉が魏の領有前に巴東を奪おうとしたためです。羅憲はこれを「背信」とみなし、徹底抗戦しました。

永安の戦いの結末はどうなりましたか?

永安は羅憲の奮戦で半年間持ちこたえ、魏の胡烈が西陵を攻撃したことで呉軍は撤退しました。その後、羅憲は魏から巴東太守・陵江将軍・万年侯に任じられました。

永安の戦いの特徴は何ですか?

蜀滅亡後の空白地帯を巡る攻防であり、わずかな兵力で半年間持ちこたえた羅憲の忠義と、魏の「囲魏救趙」戦術が際立つ戦いです。

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