1分でわかる忙しい人のための馬騰の紹介
馬騰(ばとう)、字は寿成(じゅせい)、出身は隴西、生没年(?~212年)
後漢末、涼州を拠点に活躍した将軍で、伏波将軍馬援の後裔。父は蘭干県尉の馬平だが、失官後に羌人女性を妻とし、馬騰が生まれる。八尺余の長身と逞しい体格を持ち、温厚で人望も厚かった。
若くして涼州の反乱鎮圧で功を立て、韓遂と結盟して勢力を広げるが、互いの利害衝突から幾度も争う。
やがて曹操と和睦し、人質として息子を送り、郭援討伐では馬超の活躍を後押し。晩年は曹操の誘いで鄴に入朝し衛尉に任じられるが、翌年、馬超の反乱に連座し一族もろとも処刑された。
羌人の血を引く将軍:馬騰の出自と若き日々
馬騰の血筋をたどると、後漢の武勲・伏波将軍馬援に行き着く。 「先祖は天下に名を轟かせた英雄」と聞くと、今で言えば甲子園優勝校のエースの孫、みたいな響きがある。
でも現実は、家は代を重ねて地味に衰退し、父・馬平も官職を失って隴西でくすぶる日々。
そこで出会ったのが羌人の女性だった。縁あって結婚し、混血児として生まれたのが馬騰である。
異民族の妻を迎えることで地元勢力と血縁を作り、いざという時に「義理の親族だから手加減してね」という政略の中で、 馬騰は幼いころから羌語や辺境の野性味ある生活にどっぷり浸かって育った。
史書には「身長八尺余、体格雄大、顔つきと鼻がやたらと立派」とある。
たぶん現代にいたら、ラグビー日本代表でスカウトされるタイプだ。
でも外見の迫力とは裏腹に、性格は意外と温厚。喧嘩を売るよりも、仲間を大事にし、士人を見つけては引き立てる。 辺境の粗暴な武人と思われがちな西涼出身の中で、こういう人物はけっこうレアだった。
だが、そんな「平和的長身イケメン生活」も長くは続かない。 世の中は黄巾の乱の余波や羌族の反乱でグラグラ揺れ、涼州では胡人北宮伯玉と先零羌が大規模蜂起。
中平元年(185年)、州郡は「力自慢求む!」と臨時の武者募集を開始。 馬騰はそこでスカウトされ、初陣の舞台に立つことになるのであった。
涼州動乱と初陣の活躍
中平元年(185年)、涼州はまさに火薬庫。胡人北宮伯玉と先零羌が「そろそろ反乱でも起こしてみるか」とばかりに武装蜂起、そこに百姓王国(おうこく)まで混ざってきて、州全体が学園祭の夜みたいなカオス状態になる。
涼州刺史の耿鄙は「とにかく兵を集めろ!」と号令をかけ、町の青年から農夫、元・無職の武人までかき集めた。 そのなかに混じっていたのが、まだ名もない馬騰だった。
耿鄙は彼を軍従事として登用。さらに、同じく後に名を馳せる龐徳と同じ部隊に配属する。 「初陣から未来の名将とコンビ」なんて言うと華々しいが、現場は泥と血と埃の戦場。
相手は山岳地帯に慣れた羌や氐の兵たちで、追いかければ崖、休めば奇襲という面倒くさい相手だ。 しかも食糧事情は常にギリギリ、兵士たちは腹を鳴らしながら進軍していた。
そんな環境でも馬騰は結果を出す。龐徳と共に反乱軍を撃破し、戦功を立てて軍司馬に昇進。 この時期の昇進は、今でいう「地方営業所から本社へ異動」くらいの勢いがある。 田舎の無名武人から一転、涼州の有力武将の仲間入りを果たした瞬間だった。
韓遂との義兄弟結盟と反乱参加
中平四年(187年)、涼州の火はまだ消えない。 韓遂が仲間割れの末に辺章や北宮伯玉を殺し、十万の兵で隴西を包囲するという、とんでもない展開になる。 討伐に出た涼州刺史・耿鄙は、部下の太守・李参に裏切られ、あっさり命を落とした。 この混乱の中で馬騰は、もはや「鎮圧側」から「反乱側」へと華麗に転身する。 韓遂と手を組み、漢陽の王国まで巻き込んで、堂々と反旗を翻したのだ。
ここで韓遂と馬騰は義兄弟の契りを交わす。涼州の荒野に二つの星が並び立った瞬間である。 もちろん「義兄弟」といっても、江湖の義侠物語のように情に厚いわけではない。 実際は「利害一致で今は組むけど、いざとなったら切るからね」という政治的契約に近い。 それでも、外部に向けては「涼州ツートップ」という強力な看板になった。
この同盟は、短期的には確かに効果があった。 王国を担ぎ上げ、「合衆将軍」なる大げさな肩書を与えて反乱の旗を広げる。 朝廷から見れば、三輔(長安周辺)まで火の手が迫る大問題。 まさに涼州の二枚看板が中央政権に牙をむいた瞬間であった。 のちのち何度も殴り合うことになる二人だが、この時点ではまだ笑顔で盃を交わしていた。
長安侵攻計画と敗北
興平元年(194年)、馬騰はついに大博打に出る。
相手は涼州の乱を鎮めるどころか権力を私物化していた長安の実力者・李傕だ。
きっかけはくだらない。
馬騰が李傕に「ちょっと私用でお願いがあるんだけど」と頼んだら、にべもなく断られたのだ。 これが馬騰のプライドに火をつけた。辺境の将軍にとって面子は命より重い。
この恨みを晴らすべく、馬騰は仲間を集める。 諫議大夫の种劭、中郎将の杜稟、そして劉焉の息子たちまで巻き込み、城内からの内応を仕込む。
外からは馬騰と義兄弟の韓遂が兵を進め、長安を一気に落とす作戦だ。
この布陣、まるで時代劇の「城攻めクライマックス」みたいに胸が躍るが、現実はそんなに甘くない。
三月壬申(5月3日)、両軍は長平観で激突。 序盤は勢いがあったものの、結局は李傕軍の反撃に押され、馬韓連合は総崩れとなる。 种劭は討ち死にし、劉焉の二人の息子も首をはねられ、戦場は血と敗北の匂いで満ちた。 馬騰は生き延びたが、今回の敗北で長安攻略の夢は儚く散った。
この時点で、馬騰と韓遂の関係も少しずつひび割れが始まっていた。 勝っていれば「俺たち最強タッグ!」と盛り上がれたが、負け戦では責任の押し付け合いが始まる。 義兄弟の契りも、こうして少しずつ冷え込んでいくのだった。
曹操との和解と人質の送出
中央での大戦争をよそに、関中では相変わらず馬騰と韓遂が地元ボスとして割拠していた。 197年、曹操と袁紹が官渡の戦いに向けて準備を開始。 そんな彼らに曹操から一本の“ラブコール”が届く。 使者は荀彧の差し金を受けた鍾繇。手紙には「敵に回るより味方になったほうが絶対トクだよ」という、甘くも鋭い外交文句が並んでいた。
馬騰と韓遂は計算する。正面から曹操と戦えば、関中の兵力ではまず勝てない。 それなら、ここはいったん仲良くするフリをして時間を稼ぐのも悪くない。 こうして二人は「和解」の道を選び、形式的に朝廷へ忠誠を誓った。 ただし、曹操側は信用していない。人質を差し出すのが和解の条件だった。
馬騰は、自分の息子達を洛陽に送り出す。この人質政策は、曹操が辺境武将を飼い慣らすための常套手段。
馬超の活躍と郭援討伐
建安七年(202年)、情勢は再び動く。袁紹亡き後、その子・袁尚が生き残りを賭け、馬騰や韓遂に接触してきたのだ。 「一緒に曹操を叩かないか?」という誘いに、馬騰はいったん乗るフリをする。 だが、裏では曹操派の鍾繇と密かに連絡を取り、「郭援を挟み撃ちにしましょう」と作戦を立てていた。 つまり馬騰は、袁尚を利用して敵を炙り出し、一気に叩く腹積もりだった。
郭援は袁尚派が送り込んだ河東太守で、しかも匈奴南単于まで味方につけるという戦略派。 だが戦場では、その才覚よりも過信が先行した。 平陽の戦いで、部下たちが「渡河は危険です!」と止めるのも聞かず、ズカズカと渡河を開始。 川の真ん中まで来たところで、待ち構えていたのが馬騰の息子・馬超だった。
この戦いで馬超はまさに獅子奮迅。 中でも部下の龐徳は武勇を見せつけ、戦場で郭援の首を自ら刎ね取った。 さらに匈奴南単于までも降伏させるという、まるで歴史ドラマの見せ場のような大戦果を挙げた。 この瞬間、馬超は“父の息子”から“西涼の若き猛将”へと格を上げたのである。
曹操はこの功績に大喜びし、馬騰を征南将軍、韓遂を征西将軍に任じ、それぞれに開府の権限を与えた。 名目上は大将軍格の扱いで、関中における馬騰の地位はますます揺るぎないものになった。 だが、この成功が後の悲劇の伏線となることを、この時は誰も気付いていない。
韓遂との決裂と入朝
建安十三年(208年)、長年の同盟関係にあった馬騰と韓遂の間に、ついに決定的な亀裂が走る。 原因は単純で、互いの部曲同士がいざこざを起こし、それが拡大して私怨へと変わったのだ。 もはや義兄弟の契りも形骸化し、韓遂はついに馬騰の妻子を殺害するという最悪の一手を打った。 この時点で両者は完全な仇敵となり、関中は再び血の嵐に包まれる。
曹操はこの混乱を見逃さなかった。 司隸校尉の鍾繇や韋端を派遣して和平交渉を装いながら、馬騰の力を削ぐ策を進める。 そして「年齢も重ねたことだし、そろそろ中央でゆっくり官職に就かないか?」と柔らかく誘いをかけた。 これは一見好待遇だが、実際には馬騰を関中から引き離し、その兵権を奪うための罠だった。
当初、馬騰は迷った。 槐里侯として地元に根を張り続けるか、それとも中央で衛尉の位を得て安定を取るか。 だが自らの老境を悟ったのか、最終的には入朝を決意。 年末、馬騰、馬休、馬鉄は鄴へ向かい、曹操から衛尉に任ぜられた。
馬超が父の代わりに関中の部隊を統率し、馬休は奉車都尉、馬鉄は騎都尉として任命される。 そして家族もろとも鄴に移され、表向きは“栄転”のように見えたが、その実態は完全な監視下生活だった。 この入朝こそが、馬騰一族の運命を大きく変える転換点となったのである。
馬超の潼関の戦いと一族の最期
建安十六年(211年)、ついに火蓋が切られる。 馬超は関中諸将と手を組み、曹操に反旗を翻した。
その舞台となったのが潼関。ここでの戦いは、ただの地方反乱ではなく、西北勢力と中央政府の全面衝突だった。 しかし戦況は馬超に不利に傾き、やがて敗北は決定的となる。
馬騰はすでに中央に在り、直接戦場にはいない。だが、息子が挙兵した以上、曹操から見れば「同罪」だった。
潼関の戦い決着後の、建安十七年(212年)、曹操は容赦なく処断を下す。 馬騰、馬休、馬鉄、そして一族200余名が一斉に誅殺された。
かつて関中を治めた豪族の家門は、この日をもって歴史の表舞台から消える。 馬超だけが辛くも生き延びたが、その代償はあまりにも大きかった。 父と兄弟、親族の命と引き換えに残ったのは、深い孤独と果てしない復讐心だけだった。
馬騰の生涯は、辺境の一武将から西涼の雄へ、そして中央の高官へと昇りつめた物語だった。 だがその結末は、息子の行動によって幕を閉じるという、皮肉に満ちたものだった。 忠義、友情、家族愛、そのすべてが、乱世の渦に呑まれて消えていったのである。
参考文献
- 参考URL:馬騰 – Wikipedia
- 陳壽『三國志』
- 『資治通鑑』巻六十五・建安十三年
- 『後漢紀』巻27・巻30
- 『後漢書』孝獻帝紀、董卓列傳、劉焉袁術呂布列傳、張王种陳列傳
- 魚豢『魏略』
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