1分でわかる忙しい人のための馬隆(ばりゅう)の紹介
馬隆(ばりゅう)、字は孝興(こうこう)、出身は東平平陸、生没年(?~?)
晋の時代に涼州の騒乱平定で活躍した人物である。
若い頃から義を重んじ、危険を顧みず令狐愚の遺骸を密かに葬った行為は広く称えられた。
晋の咸寧年間には自ら涼州討伐を申し出て偏箱車や磁石陣などの戦術を用い、禿髪樹機能らを破り河西を安定させた。太康期には西平の再建や成奚の撃破にも功があり、長年にわたり隴右を統治した。
晩年には政争に巻き込まれながらも再び赴任を命じられ、任地で没した。戦功と統治の両面で評価された武人である。
馬隆の生涯を徹底解説!偏箱車や磁石陣を使い涼州を平定し、西平の安定をもたらした名将
令狐愚を密かに弔った馬隆の決断
正始十年(249年)、司馬懿が高平陵の変を起こした直後、王淩と令狐愚は若年の曹芳を見限り、楚王・曹彪を新たな皇帝に担ぎ上げようと画策していた。
しかし張式を白馬に派遣して連絡を取ったものの、肝心の令狐愚が病没してしまう。わずかに計画が動きかけたところで、中心人物が脱落したのである。
それから二年後の嘉平三年(251年)、王凌が兵を挙げて失敗した際、すでにこの世を去っていた令狐愚にも「共謀の罪」が適用された。棺は開かれ、遺体は三日三晩晒されるという仕打ちであった。
兗州の人々はみな恐れてその亡骸を見ぬふりを決めこみ、誰ひとり葬ろうとしなかった。
だがこの時、一人だけ立ち上がった者がいた。兗州の武吏、馬隆である。
彼は令狐愚の「客人」を名乗って遺体を引き取り、自費で丁重に葬った。墓の周りには松と柏を植え、さらには三年の喪にも服したという。
その行いはすぐに人々の間で語り継がれ、兗州では美談として広まっていった。
これを聞きつけた朝廷は、馬隆を武猛従事に抜擢した。
死者に礼を尽くし、恐怖を前にしてなお義を貫く。その胆力はただの役人のものではない。
策をめぐらす知ではなく、剣を振るう武ではなく、このとき馬隆が見せたのは「筋を通す勇」であった。
涼州討伐の進言と登用
泰始年間(265~274年)、朝廷が呉征伐に向けて人材を募った際、兗州は馬隆を推挙し、司馬督に任じられた。
咸寧四年(278年)、涼州刺史の楊欣の様子を感じ取った馬隆は「楊欣は羌との関係が良くない。きっと敗北するでしょう」と上奏した。
予言は見事に的中し、楊欣は武威で若羅拔能に討たれ、涼州は大混乱に陥った。
河西との交通が絶たれ、朝廷は大いに動揺した。
「誰かこの賊を討って、涼州への道を開ける者はいないのか?」と司馬炎が問いかけても、重臣たちは誰一人答えない。
その静寂を破ったのが馬隆だった。
「三千人を募り、来歴など問わず太鼓を鳴らして進軍します。陛下の威光をいただくなら、あの程度の賊などどうとでもなります」
堂々たる進言に、司馬炎も即座に許可を出し、馬隆を武威太守・討虜護軍に任じた。
ところが、「兵は足りている」「新たな募兵は規律を乱す」「若い将の大言壮語を信じてはいけない」と、とりあえず文句だけ言いたいだけなのか、公卿たちは反対した。 しかし、司馬炎は一切聞き入れなかった。
精鋭募集と武具を巡る対立
馬隆はさっそく「三十六鈞の弩と四鈞の弓が引ける猛者限定」という、現代アスリート並みの過酷な基準で兵を募ったが、昼までに三千五百人が集結した。
次に馬隆が手をつけたのは武器の調達だった。彼は自ら武庫へ足を運び、兵のためにまともな棒武器を選ばせてほしいと願い出る。しかし、武庫令官とやり合い口論へ発展した果てに御史中丞に弾劾される。
だが、馬隆は怯まなかった。
「私は命を懸けて戦うつもりなのに、あの武庫令は魏の頃から朽ちた武器を押し付けてくる。これでは陛下の御志を踏みにじるも同然だ」
そう言い切った口ぶりに押されたのか、司馬炎は全面的に馬隆を支持し、三年分の軍資を与えた。
こうして馬隆の軍は、骨も砕けそうな弩を背負い、新品の兵器を手に、西へと歩みを進めることになった。
偏箱車と磁石陣による涼州西征
咸寧五年(279年)、馬隆は西へ進軍し、温水を渡った。敵の樹機能らは万の兵を擁し、山を占拠して行く手を阻み、伏兵を用いて退路を断とうとした。しかし馬隆は『八陣図』を応用して偏箱車を備え、道が広ければ鹿角車で陣を組み、狭ければ車上に戦屋を組んで戦いながら進んだ。弓矢が届く範囲に入れば、敵は倒れていった。
さらに馬隆は磁石を積んで道を塞ぎ、鉄鎧をまとった賊兵が前進できないようにし、自軍はサイの革の鎧を着ていたため影響を受けなかった。奇策の連続に、賊は馬隆を神と恐れた。千里を転戦し、敵を討った数は千を超えた。
しばらく消息が絶え、朝廷では「もう戦死したのでは」との噂すら出た。だが夜中に使者が都へ到着し、司馬炎は手を叩いて喜び、翌朝には群臣に向かってこう言った。 「あのときお前らの言うことを聞いていたら、秦と涼はもう地図から消えてただろうな」
その功績を称え、馬隆には節が仮され、宣威将軍に任じられた。赤幢・曲蓋・鼓吹も与えられ、武威に入ると、賊の族長たちはこぞって降伏した。討ち取った者・帰順した者は合わせて万を超えた。さらに没骨能らを率いて大軍を破り、涼州をついに平定した。
論功行賞の際、有司は「すでに爵位を与えている」と進言したが、衛将軍の楊珧が異を唱えた。「あれは士気を高めるための仮の褒美。今ここで報いなければ、誰が命を懸けようか」 これが採用され、将兵には功に応じて新たな恩賞が与えられた。
西平郡の再建と成奚撃破
太康初年、馬隆は平虜護軍・西平太守に任命され、戦乱で荒れ果てた西平郡へ赴任した。とはいえ、のんびり視察などではなく、精兵と牙門軍を引き連れた堂々たる軍事行動だった。「守る」と言いつつ、見た目はどう見ても「制圧」に近い。
この地では、南方の異民族・成奚がたびたび辺境を荒らしていたが、馬隆の着任で流れが変わる。彼は兵に農具を持たせ、あえて戦意のない様子を装って前進する。成奚はすっかり油断し、迎撃の備えもなし。そこを馬隆が一気に襲いかかり、賊を粉砕した。険しい地形よりも、敵の慢心のほうが攻略しやすかった、ということらしい。
成奚の大敗以来、馬隆の政務を執った地では、賊の足音すら聞かれなくなった。
晩年の政争と復帰
太熙元年(290年)、馬隆は奉高県侯に封じられ、東羌校尉を加えられた。隴右の地で十年を超えて駐在し、賊も静まり民も落ち着いていた。だが平和の継続は、時として「誰にでもできる仕事」として見なされるらしい。
略陽太守の厳舒は、当時権力をふるっていた外戚・楊駿とのコネを活かして「馬隆は年寄りで政務に向かない」と奏上する。朝廷はそれを真に受けて馬隆を呼び戻し、代わりに厳舒を西平太守に据えた。
だが就任するや否や、氐や羌の諸部族が動きを見せ、民は騒ぎ、朝廷は焦った。結局、厳舒はあっさり罷免され、馬隆がふたたび西平へ呼び戻された。
馬隆の死と評価
馬隆はふたたび西平太守に復帰し、荒れ地に秩序をもたらした後、その地で最期を迎えた。誰に追われるでもなく、誰に媚びるでもなく、ただやるべきことをやって死んだ。これが馬隆という男の、あまりに馬隆らしい幕引きだった。
その息子・馬咸もまた武を継ぎ、成都王司馬穎に属して戦場に立った。しかし八王の乱という国家の自壊ショーに巻き込まれ、長沙王司馬乂の部将・王瑚に討たれ、戦死している。
『晋書』は、馬隆の智と勇が河西の敵を平定し、楊欣の敗北を予見したことを評価している。
参考文献
- 晉書 : 列傳第二十七 羅憲 滕脩 馬隆 胡奮 陶璜 吾彥 張光 趙誘 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 帝紀第三 世祖武帝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二十八 : 王淩 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷080 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:馬隆 – Wikipedia
馬隆のFAQ
馬隆の字は?
馬隆の字は孝興(こうこう)です。
馬隆はどんな人物?
危険を顧みず令狐愚を密かに葬ったように義を重んじる人物です。
馬隆の最後はどうなった?
西平太守を再任された後に任地で死去しました。
馬隆は誰に仕えた?
最初は魏で武官となり、その後は晋に仕えました。
馬隆にまつわるエピソードは?
偏箱車や磁石を利用した戦術で禿髪樹機能を破ったことが特筆されます。




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