【1分でわかる】万彧の生涯:孫皓の寵臣が歩んだ出世と粛清の結末【徹底解説】

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1分でわかる忙しい人のための万彧の紹介

万彧(ばんいく)、字は不明、出身不明、生没年(?~272年)
三国時代、呉の末期に仕えた万彧は、後漢以来の政権に現れた典型的な「寵臣」である。記録に乏しい彼の前半生は謎に包まれているが、孫休の治世に烏程令として地方政治に従事し、同地に住んでいた孫皓と親しくなったことが、彼の運命を大きく変える。


孫休の死後、後継者問題で揺れる中、万彧は孫皓を次の皇帝に推挙。これにより彼は孫皓の信任を得て、側近から右丞相にまで登用される。しかし、同時に粛清の片棒を担ぎ、政敵を次々に排除。最終的には孫皓の猜疑心に呑まれ、毒酒によって命を狙われる。命は一度助かったものの、その後自ら命を絶った。
彼の生涯は、忠誠と裏切りの狭間で翻弄された寵臣の典型といえるだろう。

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万彧を徹底解説!寵臣が歩んだ出世と破滅

孫皓との出会いが運命を変える:烏程令時代の交友

人生には時々、とんでもない”偶然”が人生そのものを塗り替えてしまう瞬間がある。
万彧にとってそれは、ただの地方官「烏程令」として働いていた時期に、後に呉のラストエンペラーとなる孫皓と出会ったことだった。


彼は当時「将来性ゼロ」と見なされていた孫皓をなぜか深く気に入り、ゴリゴリの接待コミュニケーションで距離を縮めていく。酒を酌み交わしたかは知らないが、二人は急接近。
その後、孫皓が天からのチャンスを手にすることになり、万彧は「偶然の友人」から「運命の共犯者」へと昇格していくのだった。

政局を動かす影のキーマン:孫皓擁立の裏側

永安七年(264年)、孫休が崩御すると、呉の宮廷は大混乱に陥った。
後継者は太子・「孫ワン」のはずだったが、「あいつ、ちょっと若すぎない?」とざわつく大臣たち。その中で、濮陽興と張布が次の一手を模索していると、ぬるりと現れたのが我らが万彧である。
彼はこう言った。「孫皓こそが帝王の器、まるで長沙桓王・孫策の再来ですぞ!」
うまい。とても、うまい。
たぶん心の中では「この人選べば俺も出世できる」と皮算用していたに違いないが、表向きは超理性的な推薦文。濮陽興と張布も「確かに…英雄っぽいかも」と妙に納得してしまったのだった。
そしてその結果、孫皓が即位。
万彧は、歴史の歯車を「コネと饒舌」で回した、典型的な人事部タイプの男として記録されることになる。

陰謀と粛清のはじまり:濮陽興と張布の最期

孫皓が帝位についた当初こそ期待の眼差しを浴びていたが、ほんの数か月でその評価は真逆へと転じる。
豪奢を極め、法も無視し、気に入らない相手にはすぐに報復を下すという、完全なる暴君が誕生した。
これを見て青ざめたのが、孫皓を推薦した張本人たち、濮陽興と張布である。「ちょっと推す相手、間違えたかもしれん…」と、ふたりは内心ぼやいていた。だが、それを聞き逃すほど万彧の耳は鈍くない。


彼はすかさず密告した。信義も友情も一瞬で捨て去り、「あいつら、裏で愚痴ってますよ」と孫皓に囁いたのだ。予想通り、孫皓は激怒。二人は即日処刑され、その家族ごと粛清された。
かつての同志を、出世の踏み台にして自らを守った万彧。その姿は冷徹であり、同時にしたたかでもあった。

右丞相への出世街道:政敵との確執と策略

孫皓の即位にともない、万彧は一気に側近ポジションへと駆け上がる。
彼が最初に就いたのは「散騎中常侍」。耳元でコソコソ進言する、いわば“皇帝のささやき担当”である。同じく任命されたのは、王蕃・楼玄・郭逴の三名。だが、この並びにおける人間関係は、少々きな臭い。
万彧は楼玄とはそれなりに馬が合った。だが王蕃に対しては、目を三角にして敵意むき出しだった。理由は簡単。「アイツ、俺が孫皓と仲いいから取り立てられたってバカにしてやがる」。被害妄想と劣等感がない交ぜになったような感情で、王蕃をひたすら目の敵にする。


そして始まる、悪評キャンペーン。万彧は孫皓のもう一人の寵臣、中書丞・陳聲とタッグを組み、「王蕃は不忠でございます」「陛下に楯突いております」と連日連夜の讒言。孫皓も王蕃の剛直さにイライラしていたので、これを鵜呑みにした。
結果、王蕃は酒に酔って失態を犯した罪で、あっさりと斬首される。正義感で勝ち取った地位より、コネと告げ口の方が強い世界。それがこの時代だった。
その同じ年、宝鼎元年(266年)。孫皓は左右に分けて丞相を置く新体制を打ち出し、老臣・陸凱を左丞相、そして腹心の万彧を右丞相に任命する。こうして万彧は、呉の頂点に到達する。

戦場での敗北:襄陽攻防戦の顛末

右丞相に就任した万彧は、もはや文官の枠を飛び越え、軍事にも手を出し始める。だが、結果から言うと、これが大失敗だった。
宝鼎三年(268年)、孫皓が晋への侵攻を命じる。戦線は荊州方面、つまり中国のど真ん中。戦国時代で言えば関ヶ原に攻め込むようなものだ。万彧は左大司馬・施績とともにこの作戦を担当し、自らは襄陽の攻略を任された。

ここは戦略上の要衝であり、晋の精鋭・胡烈が守っていた。万彧はろくな戦歴もないのに、いきなりこんな大舞台を与えられたのだ。いわば町内のソフトボール大会しか経験のない人間が、突然プロ野球のマウンドに立たされたようなもの。
結果は案の定、完敗。兵力も士気も読めず、襄陽の壁に跳ね返されて退却を余儀なくされる。史書にも「敗北した」とだけ、あっさり記録されるこの一戦。だが、これは単なる敗北ではなかった。
この瞬間、万彧の「出世物語」は上り坂から下り坂に切り替わった。
文官としての処世術には長けていたが、戦の現場ではその知恵も舌も通用しなかったのである。

失脚する盟友たち:丁奉・留平との密議

建衡三年(271年)、孫皓はまたもや突拍子もない決断を下す。
「よし、晋をぶっ潰しに行くぞ。しかも今回は、後宮の女たちを全部連れて行く!」
常識では考えられないこの大遠征に、臣下たちは仰天。女官1000人を馬車に乗せ、軍を率いて牛渚から西へ向かうという、もはや戦争というより行楽に近い構えだった。


だが天は見ていた。道中、季節外れの大雪が降り、進軍は完全にストップ。兵士たちは飢えと寒さに苦しみ、行軍は崩壊寸前。各地で「もうやってられん!」という声が飛び交い、ついには反乱の噂まで立つ始末。
そんな中、万彧は腹心の丁奉・留平と密かに協議する。「これはもうダメだ。先に戻ろうか…」という話になったが、これが後に命取りとなる。


孫皓は帰還後、この密議の事実を掴んだ。しかし三人とも重臣だったため、すぐには手を出さずに黙殺。だが、それは“後で覚えてろ”のサインだった。
その年のうちに丁奉は病死。だが死してもなお逃れられず、家族は全員流罪に処された。
一緒に策を練った者たちが次々に処分されていく。万彧はこの時、自分の運命が残り時間を刻み始めていることを、きっと察していたに違いない。

毒酒と裏切り:寵臣の悲劇的な最期

そしてついに、万彧にもその時がやってくる。建衡四年(272年)、孫皓は彼を酒宴に呼びつけ、毒入りの酒を与える。
形式は宴、実態は処刑。もはや呉の宮廷は、そんな常識も逆さまになっていた。
だがここで、想定外の展開が起きる。毒酒を注いだ者が、密かに毒の量を減らしていたのだ。あるいは万彧に恩義があったのか、それとも単なる良心だったのか。その一杯は即死には至らず、万彧は命を拾う。


しかし、生き残ったからといって未来があるわけではなかった。
死を待つような生活の中で、彼はじわじわと精神をすり減らしていく。そしてある日、自ら命を絶った。
直後、密議に加わっていた留平も憤懣の末に死去。残されたのは、冷えきった玉座と、もう二度と語られることのない寵臣の名だった。

凡庸なる野心家:万彧という人物の評価

万彧のことを正面から褒めた史料は、存在しない。
むしろ彼を知るうえで最も参考になるのが、左丞相だった陸凱の皮肉たっぷりな一言だ。「万彧は瑣才凡庸、昔は家隷から始まり、今や紫闥に登る。もう器は溢れてるんじゃない?」
要するに、「あいつは器じゃねぇよ、キャパオーバーだよ」という痛烈なディスである。
この評価を裏付けるように、万彧は知略や軍略で名を残したわけではない。彼が行ったのは、人間関係の操作と内部抗争の勝利だけ。剣ではなく舌で戦った男だった。


だがそれでも、彼の存在は歴史に残った。
なぜなら、孫皓という暴君を生んだ影の立役者であり、その寵愛と猜疑のはざまで最後まで振り回された、いわば“呉という国の末期症状”そのものだったからだ。
凡庸で、地味で、でも確実に時代を動かした寵臣の人生は、決して派手ではないが、妙に記憶に残る。

参考文献

  • 参考URL:万彧 – Wikipedia
  • 三國志・呉書・孫皓伝 陳壽著、裴松之注
  • 三國志・呉書・丁奉伝 陳壽著、裴松之注
  • 三國志・呉書・陸凱伝 陳壽著、裴松之注
  • 三國志・呉書・王蕃伝 陳壽著、裴松之注
  • 三國志・呉書・楼玄伝 陳壽著、裴松之注
  • 晉書・武帝紀 房玄齡等著
  • 資治通鑒・晉紀一 司馬光著、胡三省注

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