1分でわかる忙しい人のための皇甫嵩の紹介
皇甫嵩(こうほすう)、字は義真(ぎしん)、出身は安定郡朝那県、生没年(?~195年)
後漢末の動乱を駆け抜けた名将、皇甫嵩は黄巾の乱を皮切りに、涼州や董卓の勢力との戦いなど数々の局面で活躍。特に火攻めで波才軍を焼き討ちした戦術は伝説となり、彼の名将としての評価を決定づけた。
清廉な人柄で、盧植を弁護し、功績を他者に譲る姿勢が称賛され、民衆からは「賴得皇甫兮復安居(皇甫嵩のおかげで、再び安らかに暮らすことができた)」と歌われるほどの人望を得ている。
董卓との緊張関係など、政治的にも軍事的にも一貫して「国家の良心」として機能し続けた。晩年には車騎将軍、そして太尉にまで上り詰めたが病に倒れた。唐代において「武廟六十四将」の一人として祀られ、後世の名将として名を残している。
皇甫嵩を徹底解説!功を譲り、民衆に施し、董卓に屈しなかった、武廟六十四将にも列された後漢の名将
皇甫嵩とは?詩書と弓馬に通じた青年期
彼は度遼将軍・皇甫規の甥っ子として、名門の家柄に生まれた瞬間から「将軍予備軍」だった。 しかし、幼少より大志を抱き、『詩』『書』といった経書を愛好し、さらに弓馬にも通じていた。
学識と武芸の双方において優れた才能を示したとされる。
そんなわけで、当然のように孝廉・茂才に推挙されるなど、若くして郡国からの評価も高かった。
太尉・陳蕃、大将軍・竇武といった当時の高官たちがその声望を聞き、相次いで彼を辟召しようとしたが、皇甫嵩は「いや、今じゃないです」と断っている。
その後、霊帝の時代に入り、正式な詔勅で召しだされ、ついに仕官を決意し、光禄勲・議郎に任命される。
やがて北地太守に任じられ、官途における第一歩を踏み出していくことになる。 太尉や大将軍から声がかかっても動かなかったくせに、霊帝から呼ばれたら仕官したあたり、彼の中では「格」が重要だったのかもしれない。直接来いと思ってたのか、最初は面倒だったのか、その辺りの心理は誰にもわからない。
黄巾の乱1:火攻めで波才軍を撃破
中平元年(184年)、中国全土を揺るがす「黄巾の乱」が突如として勃発した。たった数十日のうちに各地へ飛び火し、首都・洛陽の朝廷もパニックになっていた。事態を重く見た漢霊帝は「今さらながらの会議」が招集される。
その席で皇甫嵩は、長らく続いていた党錮の禁をまず解除すべきだと進言する。さらに、宮中の財貨や西園の厩舎にいる軍馬を将兵に与え、士気を高めるよう訴えた。これらの意見は霊帝に採用され、直後に全国から選りすぐりの精鋭部隊が編成される。
この討伐軍の中心人物に抜擢されたのが皇甫嵩だった。彼は左中郎将・持節に任命され、北中郎将の盧植、右中郎将の朱儁とともに黄巾賊の討伐にあたる。
まず彼と朱儁が向かったのは、今もっとも手がつけられない潁川郡の波才軍である。皇甫嵩の軍勢は四万を超える大部隊となり、両将は進軍を分けて作戦を展開という机上の計画。
だが、初戦で朱儁が波才に敗北し、長社に駐屯していた皇甫嵩の陣が逆に包囲されてしまう。敵は意気上がり、味方は動揺したが、皇甫嵩はすぐに軍を落ち着かせる。
敵軍の陣地が草で築かれていることを見抜いた彼は、夜に強風が吹くのを待って、火攻を仕掛けた。炎がたちまち燃え広がり、陣は大混乱に陥る。
混乱の中、皇甫嵩は突撃を命じ、そこへ若き騎都尉・曹操が援軍として到着。朱儁も合流し、三軍は連携して黄巾軍を壊滅させた。
この戦いの功績により、皇甫嵩は都郷侯に封じられる。まさに危機を覆した一戦だった。
黄巾の乱2:三郡平定と朱儁へ功を譲る
火攻によって長社の包囲を打ち破った後、皇甫嵩と朱儁は、勢いそのままに、潁川を踏み抜いて次なる舞台は汝南と陳国である。
陽翟・西華などの要地で、黄巾軍の残党を指揮していた波才・彭脱らを連続で打ち破ったのである。
連戦連勝の勢いの中で黄巾軍は瓦解し、潁川・汝南・陳国の三郡全体がついに鎮圧された。
三郡平定の戦果は、まさに皇甫嵩の戦略眼と現場対応力の賜物であったが、このとき皇甫嵩は。この戦果をなんと丸ごと朱儁の手柄として朝廷に上奏し、朱儁の功に帰した。
この「譲功」は、官位昇進や報償の面で重要な意味を持っていたにもかかわらず、皇甫嵩は私心を挟まず、共に戦った将に手柄を譲る道を選んだ。
この行為は、ただの美談にとどまらず、彼の人柄と士道精神を象徴するエピソードとして後世に語り継がれることになる。
一方、張角を討つ任務にあたっていた盧植は、小黄門・左豊のくだらぬ讒言によって失脚していた。
これにブチ切れたのが皇甫嵩、彼は「盧植の戦略眼を知らんのか」と怒りの上奏文を書きなぐり、朝廷に突きつけた。
結果、盧植は尚書に復帰を果たし、再び朝廷に仕えることとなる。
味方に功績を譲り、理不尽に排除された者を擁護する。戦場での武功だけでなく、義と公正を重んじた皇甫嵩の姿勢が、ここにあらわれている。
黄巾の乱2:張角討伐の任命と張梁・張宝の最期
左豊の誣告により罪に問われ、戦線から外された盧植の跡を継いだ董卓は、戦果を挙げることができず、期待された成果を出せなかった。
そこで朝廷は皇甫嵩を再び起用し、黄巾賊の掃討を命じることになる。
まず彼は東郡の黄巾賊を攻撃し、八月には倉亭(現在の山東省聊城市陽穀県の東北)で黄巾軍を撃破する。首領・卜己を生け捕りにし、その勢いを保ったまま北方への出征に移る。
張角は病死していたが、その弟たち、特に張梁は一筋縄ではいかない。広宗における戦いでは、初戦で手こずるも、皇甫嵩は冷静だった。
翌朝、敵が油断した隙を突き、鶏の声とともに総攻撃。長時間に及ぶ激戦の末、張梁を斬首、張角の首も棺を開けて切り落とし、洛陽に送り届けた。
続いて鉅鹿太守・郭典と協力して下曲陽にて張宝を討伐する。
こうして張角三兄弟をすべて葬り去り、黄巾の大規模な反乱はようやく沈静化した。
その功績により皇甫嵩は左車騎将軍に任じられ、冀州牧も兼任。
槐里侯に封じられ、八千戸の食邑を賜るという名誉に浴することとなった。
民衆の詩に讃えられた慈愛、閻忠の進言と忠義の決断
黄巾の乱平定後、皇甫嵩は戦で疲弊した冀州の状況をみて、朝廷に対して税金を一年間免除するよう上奏した。
その提案に朝廷も頷き、冀州一年間の税金が免除されることになる。
この恩義に対し、民衆は次のような歌を詠んだと記録される。
「天下大乱兮市為墟、母不保子兮妻失夫、賴得皇甫兮復安居」。
戦乱の混沌の中にあって、皇甫嵩こそが安寧をもたらした英雄として広く称えられたのである。
また、彼は兵士たちにも深い思いやりを示す一方で、ワイロまみれの官吏には、追加で「ご褒美」を与えるという行動に出る。
恥をもって諌める独特の手法を用いた結果、恥じた官吏の中には自ら命を絶つ者すら現れたという。
その頃、元信都令の閻忠が皇甫嵩に対し、黄巾討伐の功を背景に挙兵して天下を取るよう勧めてきた。
だが、皇甫嵩はこれを固く拒絶する。彼にとって功績とは忠義の上に築かれるものであり、野心のために振るう剣ではなかった。
忠義を貫く決断が、この時代には稀有なほど清廉な将としての姿勢を象徴している。
王国討伐と兵法論の見事な実践
中平二年(185年)、隴右で北宮伯玉・辺章・韓遂らが蜂起し、三輔地域にまで反乱の火の手が及ぶと、皇甫嵩は春に長安へ移駐し、皇陵の防衛にあたった。
だが、反乱軍との戦いでは連戦しても決定的な戦果を挙げることができなかった。
かつて黄巾の乱で「趙忠の邸宅を没収」、「張讓の賄賂要求を断る」等、皇甫嵩に恨みを持った二人に「戦果なし、費用多し」という讒言で非難される。
敵にも勝てず、味方に嫌われた結果、秋に召還命令が下り、左車騎将軍の印綬を返上。封地も槐里侯から都郷侯へと格下げされ、食邑も六千戸を減らされる処分を受けた。
中平四年(187年)、涼州にて王国が叛乱を起こし、翌年には陳倉を包囲するに至った。朝廷は再び皇甫嵩を左将軍として起用し、前将軍董卓とそれぞれ二万の兵を率いて討伐に当たらせた。
董卓はすぐに陳倉へ向かおうとしたが、皇甫嵩は「あの城は固い。八十日以上の籠城に耐えうるから、敵に無駄な体力を使わせから反攻する」と述べ、出撃を控える戦略を選んだ。
果たして、王国軍は冬から春にかけて八十日余にわたり陳倉を攻め続けたが、城を落とせず撤退に転じた。ここで皇甫嵩は攻撃に転じる。
董卓は「帰陣する兵を攻めるな。追い詰められた敵は強いぞ。」と反対したが、皇甫嵩は「これは退却ではなく疲弊、兵に士気はなく追撃の好機である」と反論。
董卓を後方に残し、皇甫嵩は単独で出撃し、見事王国軍を撃破した。王国は敗走し、その責を問われて韓遂らにより指導者の地位を追われる結果となる。これにより涼州の叛乱勢力は内紛に陥り、大きく衰退した。
この件で、董卓は皇甫嵩の実力と名声を恐れ、密かにその存在を疎ましく思うようになっていく。
董卓の兵権簒奪と皇甫嵩の忠義ある対応
中平六年(189年)、霊帝の病状が悪化する中、朝廷は董卓を并州牧に任命し、同時にその兵権を皇甫嵩へ移譲する詔を下した。 これに対し、董卓は即座に反発し「十年、士卒と苦楽を共にしてきた。彼らは私の恩に感じており、もはや私以外の指揮には耐えられぬ。北辺で力を尽くしたい」と主張し、皇甫嵩への兵権移譲を拒絶した。
このとき皇甫嵩の従子である皇甫酈は、軍中でこう進言している。「今や天下を安んずることができるのは、大人(皇甫嵩)と董卓のどちらかしかいない。怨みはすでに根深く、このまま共存などできるはずがない。詔を受けておいて従わぬなど反意の証。今こそ起てば、天意にも民意にも沿う」と訴えた。
しかし、皇甫嵩はこれに慎重だった。「たとえ正しくとも、独断専行は罪である。勝手に討てば、正義の名は後から消える。ゆえに、このことは朝廷に報告する。」と語り、自ら兵を動かすことはせず、事実を上奏して朝廷に裁断を委ねた。この姿勢は、正義と秩序を重んじる皇甫嵩の性格をよく表している。
だが、これが仇となる。董卓はその報告により、霊帝から「おい、なんで命令聞かないの」と叱責されることになる。皇甫嵩への疎ましい思いは、怒りに変わっていく。
蓋勳との密議、董卓討伐の機会
初平元年(190年)、董卓は京兆尹の蓋勳を議郎に任命して召し出した。蓋勳は表向きは命に従ったものの、董卓の専横を憂えていた。
そして彼の目は、三万の兵を率いて扶風郡に駐屯していた皇甫嵩に向けられる。蓋勳は密かに接触し、囁いた。「董卓を討てるのは、あなただけです。」
蓋勳には軍も権力もなかったが、政治の腐臭は感じ取っていた。いま朝廷が傾いているなら、軍を動かせる皇甫嵩にこそ希望を託すべきだ、そう判断したのだろう。
だが、皇甫嵩は動かなかった。まもなく董卓は、今度は皇甫嵩自身を召還し、城門校尉に任命。
これを受けて長史の梁衍は「今こそ好機」と進言したが、皇甫嵩はそれを退け、装備を整えて入京の途についた。
蓋勳にとっては頼みの綱が切れた瞬間だった。皇甫嵩が挙兵しなければ、自分ひとりではどうにもならない。結局、蓋勳もまた討董の志を胸に抱えたまま、洛陽へと向かうしかなかった。
入京後の投獄、子の涙が命を救う
皇甫嵩が都に入ってほどなくして、突如として投獄され、処刑寸前にまで追い込まれる事態となった。
その危機を救ったのは、彼の息子・皇甫堅壽であった。董卓とは旧知の仲だった皇甫堅壽は、急ぎ洛陽へ向かい董卓を訪ねて酒宴を設けてもらい、その席で父の命乞いを始めた。
酒の席で、堅壽は董卓の前にひれ伏して叩頭し、声を震わせて父の命を懸命に乞うた。その姿に感動した者は少なくなく、董卓自身も心を動かされた。結果として、皇甫嵩は釈放され、再び官職に復帰することとなる。
彼はまず議郎に任命され、続いて御史中丞へと昇進した。
長安へ遷都後、董卓は自身の権威を誇示するため、百官に車前での跪拝を命じる。
このとき、董卓は皇甫嵩に向かって手を伸ばしながら言った。「義真、怖未乎(おまえ、怖くないのか)」
皇甫嵩はこれに微笑みながら、次のように応じた。「明公が徳をもって朝廷を補佐するのなら、慶事が訪れるばかりで、恐れることなど何もありません。もし暴虐を好むのであれば、天下の者すべてが恐れるでしょう。甫嵩嵩ひとりが怖じるものではありません」。
この一言は、董卓の圧政に対する痛烈な皮肉であり、また忠義を貫く士の覚悟の現れでもあった。
王允・李傕と政変の波に飲まれて
初平三年(192年)、董卓が王允と呂布によって殺害されると、皇甫嵩にもその余波が及んだ。王允は皇甫嵩に命じて、董卓の一族である董旻を郿塢に攻め滅ぼさせ、董卓の一族を根絶やしにする。
王允はその功績を評価し、皇甫嵩を征西将軍、続けて車騎将軍に昇進させた。だが政局は安定せず、董卓の旧臣である李傕らが長安に進軍し、王允を殺害、再び中央政府は混乱に陥った。
この新政権下でも、皇甫嵩は太尉に任じられるが、後に天変(流星)を理由に罷免されるという時代らしい理不尽に遭う。しばらくして光禄大夫、太常へと転任されたが、政争の激しい時勢においてその立場は決して安泰とはいえなかった。
やがて病に倒れ、そのまま世を去った。死後には驃騎将軍の名誉職が追贈され、その功績は一定の評価を得る形で幕を閉じた。
皇甫嵩の評価:忠義と慎みを貫いた名将
混乱のただ中で、皇甫嵩の忠義を第一に考える姿勢は、多くの人々の心に深く刻まれた。 戦略家としての彼を絶賛したのは閻忠。「軍を授かり、勝利を収め、敵軍を電光のように打ち破った」と讃え、「三十六方を屠り、黄巾軍を根絶した」と記すほど、その戦果は鮮烈だった。
典籍に記された人物評もまた興味深い。范曄は「皇甫嵩は謙虚に過ぎて大業を捨て、小義を守って智者に嘲笑される存在である」とし、その姿勢を高くも冷静に見つめた。巨大な権力を手にしなかったことを「惜しい」と見る者も少なくなかった。
華歆は「功を仲間へ譲り、自らの功名を語らず、だからこそ恨みも禍もなかった」と述べ、謙譲の美徳と武功を併せ持つ稀有な人物であるとした。
後代においては、儒教的理想を体現した将として「武廟六十四将」のひとりに選ばれる。鄧艾や関羽、陸遜と肩を並べるその名が、ただの軍人にとどまらぬ存在であったことを物語っている。
参考文献
- 参考URL:皇甫嵩 – Wikipedia
- 《後漢書》巻八
- 《孝靈帝紀》第八
- 《後漢書》卷九
- 《孝獻帝紀》第九〉
- 《後漢書》卷六十五〈皇甫張段列傳第五十五〉
- 《後漢書》卷七十一〈皇甫嵩朱儁列傳第六十一〉
- 《後漢書》卷七十二〈董卓列傳第六十二〉
- 《資治通鑑》〈漢紀〉
FAQ
皇甫嵩の字(あざな)は?
皇甫嵩の字は義真(ぎしん)です。
皇甫嵩はどんな人物?
名将で忠義と謙譲を貫いた人物です。出過ぎた野心も持たなかったため、混乱の時代にあっても品格を保ち続けました。
皇甫嵩の最後はどうなった?
西暦195年ごろ、病により亡くなりました。晩年は太常(祭祀を司る高官)を務めていました。
皇甫嵩は誰に仕えた?
主に漢の霊帝に仕えました。また、董卓政権下でも名目上は仕官していますが、忠義を保ったまま政治的な野心とは距離を取りました。
皇甫嵩にまつわるエピソードは?
代表的なのは、黄巾の乱での活躍と、戦後に冀州で民のために税を免除させたという話です。
総評
三国志の幕開けは、董卓の暴政によって決定的となった。もし彼が存在しなければ、後漢王朝は霊帝の時代の延長として、腐敗しつつもまだ緩やかに存続していたかもしれない。
だが董卓が出現し、暴力と恐怖によって政治を制圧したことで、群雄割拠と漢朝崩壊の道が一気に動き出す。
これを止める術があったとすれば、それは「正統の矛」を手にした皇甫嵩の決断だけだった。 呂布や王允のように、情熱と劇場型の謀略で董卓を討った者たちはいたが、彼らには「次」がなかった。皇甫嵩であれば、李傕・郭汜すら動けなかったかもしれない。
しかし、彼は動かなかった。忠臣として、専断を避け、朝廷の裁可を仰ぎ、機を逸した。これは一方で彼の美徳であり、もう一方では、歴史を変える力を放棄した瞬間だった。
「皇甫嵩ならば董卓を止められた」この言葉は、架空の歴史を語るのではない。失われた可能性にして、三国志という混乱の起点に確かに存在した「もしも」なのだ。
コメント