1分でわかる忙しい人のための張繍の紹介
張繍(ちょうしゅう)、字は不詳、出身は武威郡祖厲県、生没年(159~207年)
張繍は後漢末期に活躍した涼州出身の武将で、驃騎将軍・張済の甥である。
若い頃、涼州で反乱が起きた際に県令を殺した賊を討ち取ったことで義士として名を知られ、郷里で勢力を築いた。
その後は張済に従って董卓配下として各地を転戦し、軍功によって建忠将軍・宣威侯に任じられた。
張済の戦死後は宛城を拠点に劉表と連携し、曹操の南征に際していったん降伏するが、やがて宛城の変を起こして曹操軍に大打撃を与えた。
この事件で曹操の長子曹昂らが戦死し、張繍は曹操と長く対立する存在となった。
のちに賈詡の進言を受けて再び曹操に降り、官渡の戦いなどで戦功を立てて厚遇される。
晩年は烏丸討伐に従軍したが、遠征途上で没し、定侯と諡された。
張繡の生涯を徹底解説!涼州での台頭から宛城拠点とした地方豪族の生き残り戦略
張繍の出自と麴勝討伐での台頭
張繍(張繡)は、武威郡祖厲県の出身で、長安を荒らした驃騎将軍・張済の甥という肩書きはあるが、最初から高い地位につけたわけではない。若い頃は地元の役所に勤める普通の地方官僚だった。
中平二年(185年)、涼州では辺章と韓遂が謎の義憤に駆られて反乱を起こし、州内は地獄絵図と化した。そんな中、金城の麴勝という男が、祖厲県令・劉雋をぶち殺すという大事件を起こす。言うなれば「県庁に斧を持って乗り込んだ男」である。
これに反応したのが、名もなき下級官吏だった張繍だった。
彼は情勢を見極めた上で、見事に麴勝を討ち取り、劉雋の仇を討つ。この地方で起きた戦いが、張繍の名を広めるきっかけになった。「義に厚い男がいる」と評判は郡内を巡り、気づけば彼のもとには若者が集まるようになる。
そしてそのまま、私的な武装勢力を持つようになり、地元ではちょっとした有力者へランクアップする。時代が乱れれば、出世の道も早くなるという、その典型例だった。
董卓配下として列侯の位を得る
地元での活躍によって名を上げた張繍は、やがて叔父・張済の配下として行動を共にするようになる。張済は董卓の麾下にあったため、張繍も自然と董卓政権に連なる軍人として、その勢力の一角を担う形となった。
この頃の張繍は、各地の転戦を重ねながら、実戦での経験を積んでいく。運が悪ければここで命を落とすが、張繍はそれを糧にした。
功績が認められた結果、彼は建忠将軍に任じられ、さらには宣威侯として列侯の地位も得る。地方の一豪傑から、中央の軍事官僚へと変貌を遂げたことになる。
ただし、その経緯には董卓政権という胡散臭さもついて回る。道が正しかったかはともかく、張繍がこの時期に力を蓄えたことだけは、確かだった。
董卓死後の政局混乱と張済の戦死
董卓が敗死すると、世の中が少しはマシになると思った人間は多かったはずだが、暴君が消えた後の空席に、より面倒な連中が我先にと座り込んだだけだった。
董卓の旧配下であった李傕と郭汜は、さっさと長安に入り朝廷を掌握する。この二人、協調体制とは程遠く、内輪揉めが始まり、政権中枢は早々に修羅場と化した。
ここで登場するのが張済である。混乱を収めようと調停役を引き受け、その保証として、甥の張繍を人質として差し出す判断まで下している。
それでも情勢は好転せず、建安二年(197年)、張済は兵糧不足という現実的すぎる理由から、劉表が守る南陽へと軍を進め、穰を攻撃した。だが戦闘の最中、流れ矢を受けて戦死する。
張済の戦死は、張繍にとって致命的だった。最大の支えを失い、動乱の只中で自らの進退を決めねばならない立場へと追い込まれる。ここから張繍は、単独での生存戦略を迫られることになる。
宛城拠点の成立と曹操への降伏
張済が戦死すると、その部下たちは宙に浮いたが、張繍は生き残った兵をまとめ上げ、実質的な後継者として前に立つことになる。
宛を拠点に荊州牧・劉表と連携し、ほどほどに距離を保ちつつ、ほどほどに頼るという、いかにも現実的な関係を築いた。
この時点で張繍は、宛城を中心とした一勢力として存在することになった。
やがて曹操が南征を開始し、軍を率いて淯水まで進軍してくる。ここで張繍は、剣を抜くよりも先に、頭を下げる道を選んだ。
張繍らは兵を挙げて曹操に降伏し、そのまま曹操の配下に収まり、宛城の主から、巨大組織の一歯車へと姿を変える。
宛城拠点の成立と曹操への降伏
張済が戦死すると、その配下の兵は宙に浮いたが、張繍は生き残った兵をまとめ上げ、実質的な後継者として前に立つことになる。
張繍は宛を拠点とし、荊州牧・劉表と連携することで勢力を維持した。
全面的に頼るわけでもなく、敵対するでもない。ほどほどに距離を取り、ほどほどに寄りかかるという、生き延びるための関係である。
この時点で張繍は、宛城を中心とする一勢力として存在することになった。
やがて曹操が南征を開始し、軍を率いて淯水まで進軍してくる。
天下の流れが目に見える形で迫る中、張繍は剣を抜くよりも先に、頭を下げる道を選んだ。
張繍らは兵を挙げて曹操に降伏し、そのまま曹操の配下に収まり、宛城の主から巨大な政権の一部へと立場を変えていく。
宛城の変と曹操との対立
張繍が曹操に降伏した後、曹操は張済の妻を側室として迎え入れた。
この行為は張繍に強い怨恨を抱かせる結果となり、両者の関係は急速に悪化する。
曹操も張繍の不満を察し、密かに誅殺を企てたが、その計画は外部に漏れた。
これを知った張繍は先手を打ち、不意を突いて曹操を襲撃する。
この襲撃によって、曹操の長子・曹昂、甥の曹安民、さらに典韋が戦死し、曹操は宛城一帯からの撤退を余儀なくされた。
これが宛城の変である。
『傅子』によれば、張繍配下には胡車児という軍中第一の勇士がいたとされる。
曹操がその勇猛さを気に入り、金を与えたことが、張繍には暗殺準備に映り、反乱の引き金になったという。
『呉書』では別の経緯を伝える。
賈詡の計によって張繍は高道への移動を願い出て曹操の陣中を通過し、兵に甲冑の着用を許されたまま奇襲を敢行した。
備えのなかった曹操はこれに対応できず敗北したとされる。
この宛城の変以後、曹操は数年にわたり張繍を攻め続けるが、ついにこれを破ることはできなかった。
官渡前後の再降伏と待遇
曹操が官渡で袁紹と対峙すると、袁紹は張繡を味方に引き入れようと使者を送り、賈詡にも書を送って援助を求めてきた。
張繡もこの誘いに応じるつもりだった。
ところが話がまとまりかけたところで、賈詡が袁紹の使者に向かって
「袁本初に伝えよ。兄弟すら容れられない者が、どうして天下の国士を容れられようか」と言い放ち断ってしまった。
目の前でエントリーシートを勝手に破かれたのであるから、当然張繡はあわわわと驚いた。
絶対、袁紹は怒っている。では次はどこへ行けばいいのか。
使者を帰したあと、張繡が賈詡へ尋ねると、返ってきた答えは曹操だった。
張繡にとって本日二回目の驚きだった。
張繡もさすがに「袁紹は強く、曹操は弱い。しかも曹操とは仇敵ではないか」と反論した。
しかし賈詡は、張繡が並べた不安材料をそのまま曹操へ行く理由に変えていった。
曹操は天子を奉じて天下に号令している。袁紹は勢力が大きいため、張繡ほどの兵を連れて行っても重く見ないが、弱い曹操なら必ず歓迎する。そして覇王の志を持つ者なら、天下のために私怨を捨て、徳を示して人を服従させるはずだというのである。
そこまで言われた張繡は疑念を捨て、兵を率いて曹操に帰順した。本当に張繡は素直である。
そして張繡がやって来ると、賈詡の読みは当たった。曹操は張繡の手を取って歓待し、宴まで開いた。
それどころか、息子の曹均に張繡の娘を娶らせ、張繡を揚武将軍に任じている。
もちろん張繡も、厚遇されただけで終わったわけではない。官渡の戦いでは奮戦して功績を挙げ、破羌将軍へ昇進し、その後も南皮で袁譚を破る戦いに従軍した。
食邑も加増されて合計二千戸となり、戦乱で天下の戸口が大きく減り、多くの将が千戸にも満たなかった時代としては、かなり異例の厚遇である。
賈詡は曹操なら私怨を捨てて張繡を迎えると読んだが、実際の曹操は迎えるだけでは済ませなかった。将軍にし、親戚にし、功績を挙げれば二千戸まで与えている。
少なくとも曹操との間では、あれほどこじれた張繡との関係も、これで過去になったように見えた。
張繍の死後と異説、張氏一門の末路
建安十二年(207年)、張繍は曹操に従い、烏丸を柳城で討つ遠征に参加した。
だが、その道中、目的地に辿り着く前に没する。
戦場で華々しく散ったわけでもなく、誰かに討たれたわけでもない。乱世を泳ぎ切った男の最期としては、静かな幕切れだった。
張繍の死後、その功績を踏まえ、諡は定侯とされた。
一応の名誉は与えられたが、ここで話は終わらない。
裴松之が引く『魏略』には、後味の悪い異説が残されている。
それによれば、五官将となっていた曹丕は、宴の席でたびたび張繍を呼び出し、かつて兄の曹昂を討った件を持ち出して責め立てたという。
冗談の皮を被った私怨であり、酒席という逃げ道を用意した嫌味でもある。
張繍は「曹氏は、過去を忘れてなどいない。」と悟った。
功を立て、忠を尽くし、待遇も受けた。それでも帳消しにはならない血がある。
そう理解した張繍は、心安らぐことができず、ついには自ら命を絶ったとされている。
乱世で生き残る術を知っていた男が、最後に敗れたのは人の心だった。
張繍の子・張泉は爵位を継ぎ、長楽衛尉に任じられる。
だが後に、魏諷とともに謀反を企てた罪に連座し、誅殺された。
この事件によって張氏の封国は廃され、一門は完全に歴史から姿を消す。
『三国志』の陳寿は、張繍を他の群雄と並べて評している。
公孫瓚は残虐さゆえに一族を滅ぼし、陶謙は混乱を招いて憂いの中で没し、張楊は配下に殺された。
州郡を持ちながら、その末路は取るに足らないと断じられている。
それに対し、張燕、張繍、張魯は、もとは群盗でありながら、最終的には功臣として列せられ、宗廟を保った存在とされた。
張繍は強い者を見極め、引くべきところで引き、頭を下げるべきところで下げた。
その結果、張繍は勝者ではないが、負け方を間違えなかった男として、乱世の片隅に名を残した。
参考文献
- 三國志 : 魏書八 : 張繡傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十 : 賈詡傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷062 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:張繍 – Wikipedia
張繍のFAQ
張繍の字は?
張繍の字は記されておらず、不明です。
張繍はどんな人物?
張繍は若い頃に義挙で名を上げ、後漢末の混乱期に独自の勢力を築いた武将です。
張繍の最後はどうなった?
建安十二年(207年)、烏丸討伐の遠征途上で没したとされ、別説では自殺したとも記されています。
張繍は誰に仕えた?
張繍は張済、董卓、劉表を経て、最終的には曹操に仕えました。
張繍にまつわるエピソードは?
宛城の戦いで曹操軍に大打撃を与えた事件が、張繍に関する代表的な出来事です。
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