1分でわかる忙しい人のための文欽の紹介
文欽(ぶんきん)、字は仲若(ちゅうじゃく)、出身は譙郡(豫州譙郡)、生没年(?~258年)
曹魏の前将軍・揚州刺史として台頭し、勇猛で粗豪な将として知られる。建安二十四年(219年)に 魏諷の謀反連座で死罪相当となるも、父・文稷の功により曹操から赦免。魏明帝期に五営校督、 牙門将、廬江太守、鷹揚将軍と昇進し、のち冠軍将軍・前将軍、諸葛誕の後任で揚州刺史となる。
曹爽の庇護を受けたが、司馬師に抑えられて怨懣を深め、正元二年(255年)に毌丘倹と挙兵。 敗れて東呉に亡命して譙侯に封ぜられ、都護・幽州牧・鎮北大将軍・假節を加官。甘露二年 (257年)、諸葛誕の寿春反乱で援軍として入城するが、方針対立から甘露三年(258年)に 諸葛誕により誅殺。子は文鴦・文虎。
文欽を徹底解説!毌丘倹・文欽の乱から誅殺まで
出自と若年期
文欽は譙郡の人で、父は曹操の部将・文稷。文稷は建安年間に騎将を務め、その勇力を知られた。 欽もまた若い頃から「名将の子」として膂力を称され、粗猛ながらも才と武勇で注目を集めた。
建安二十四年(219年)、魏諷の謀反に関わりがあるとされ下獄、数百回の笞打ちを受け、律では死罪に相当した。 しかし太祖曹操は、父文稷の功績に免じてこれを赦したと伝えられる。
曹魏での台頭
魏明帝の時代、文欽は五営校督に任じられ、のちに牙門将へ転じ、さらに廬江太守・鷹揚将軍を歴任した。 やがて冠軍将軍に昇進し、魏の斉王(曹芳)の時代には前将軍に任ぜられ、諸葛誕の後を継いで揚州刺史となり、在地の兵権を掌握した。 同郷である曹爽から勇敢果断な性格と数々の戦功を評価され寵遇を受けたが、曹爽が誅殺されると心中に恐懼を抱くようになる。 また、戦功を求めて捕虜数を誇張することが多かったため、司馬師に抑えられて賞を得られず、やがて怨望を募らせていった。
毌丘倹との提携と反乱の兆し
曹爽が誅殺されると、同郷でその庇護を受けていた文欽は、ただちに身の危うさを覚えた。 だが功名心は抑え難く、戦功の誇張も司馬師に咎められて、鬱屈した思いを募らせていった。
そのころ鎮東将軍・毌丘倹は、親しかった夏侯玄・李豊らが次々に誅され、自らの運命を憂えていた。 彼は計をめぐらし、文欽を重んじて遇した。こうして両者は急速に結びつきを強め、文欽もまた その厚恩に感じ入って忠義を誓う。
やがて嘉平二年(250年)、文欽は廬江太守の任にありながら、魏を欺いて呉に投降するふりをした。 これは呉の将・朱異を誘い出すための策であったが、朱異は看破して孫権に報告する。 孫権は「もし真に降るなら受け入れよ。だが偽りなら重兵で防げばよい」と述べ、呂据らに二万の軍を率いさせて備えた。 結局、文欽は姿を現さず、虚偽の投降であることが露見したのである。
合肥新城の戦い
嘉平五年(253年)、東呉の太傅・諸葛恪が大軍を率いて合肥新城を包囲した。
これに対し、毌丘倹と文欽は力を合わせて籠城を守り抜き、やがて太尉・司馬孚の率いる中軍が 東方から到来し、呉軍は挟撃を恐れて退却を余儀なくされた。
その退き際を文欽が鋭く追撃すると、呉軍は総崩れとなり、斬首は万を超えると記された。 この戦勝によって、文欽の勇名はいよいよ天下に鳴り響くこととなった。
毌丘倹・文欽の乱
正元二年(255年)、西北の空を幾十丈もの彗星が横切った。 毌丘倹と文欽はこれを天意の兆しと信じ込み、 ついに太后の名を騙る詔を掲げ、司馬師の罪状を数えて挙兵する。
司馬師は病をおして自ら軍を率い、諸葛誕に豫州軍を安風津に進めて寿春を牽制させ、胡遵には青・徐州軍を以て譙と宋の間に布陣させて退路を断ち、王基には南頓を固めさせて諸軍に戦を禁じた。
毌丘倹と文欽の軍は攻めるにも進めず、退けば寿春を失う恐れに囚われ、まさに袋小路に追い込まれる。
淮南の将士は家族を北に残していたため心は動揺し、降伏は相次ぎ、忠義を尽くすのは新たに従えられた農民兵ばかりであった。
この隙に鄧艾が泰山の軍一万余を率いて楽嘉に進み、わざと脆弱を装って誘いをかける。
文欽は策を見抜けず夜襲を敢行したが、黎明の光の下に司馬師の大軍が現れると戦慄し、退却を余儀なくされた。
司馬師は驍騎を放ち追撃し、文欽軍は大いに崩れて潰走、文欽は呉へと奔った。
敗報を聞いた毌丘倹は恐慌に陥り、ついに寿春を棄てて夜逃げするが、途中で民の張属に射殺された。毌丘秀・毌丘重は呉へと亡命し、毌丘倹と文欽に従っていた将士もまた一斉に魏へ帰順した。
呉での仕官と対魏作戦
寿春の敗戦で、呉に亡命した文欽は、都護・幽州牧・鎮北大将軍・假節の号を授けられ、譙侯にも列せられた。
その後、文欽は呉廷において「魏を討てば大きな利を得られる」と強く説き、積極的に北伐を促した。 これを容れた孫峻は、驃騎将軍呂据・車騎将軍劉纂・鎮南将軍朱異・前将軍唐咨を加えた大軍を文欽のもとに付し、江都より淮水・泗水に進ませて、青州・徐州の攻略を図らせた。
諸葛誕の乱と文欽の最期
甘露二年、寿春において諸葛誕が反旗を翻すと、司馬昭はみずから兵を率いてこれを討ち、同時に帝と太后の命を奉じて征伐を進めた。
諸葛誕は子の諸葛靚と長史吳綱を東呉へ遣わし援軍を請う。呉は唐咨・全懌・全端・王祚ら三万の軍を発し、密かに文欽と呼応させた。
しかし翌年、軍勢が逼迫するに及び、文欽は北方出身の兵を出城させて降し、糧を節して呉軍とともに固守すべしと主張した。これに諸葛誕は強く反対し、しかも文欽とは日頃より不和であったため、ついに疑心を極める。
文欽が議に臨んだ折、諸葛誕は機をとらえてその身を誅殺した。文欽の二子、文鴦と文虎は父の死を聞くや小城を脱して魏に投じ、以後はその旗下に属したという。
評価と後世の見方
鄭袤は「勇あれども算なし」として短慮を戒め、鍾会は「叛主讎賊、還って戎首」と断じて仇敵視した。 一方で蕭常は「司馬氏に附さず、一死を甘んじた」としてその節を惜しみ、盧弼は「粗猛武夫、反覆無常」と切り捨てた。
功名を焦がれて叛逆に身を投じたのか、それとも忠を貫いて滅んだのか。評価は二つに大きく割れる。
家族と子孫
父の文稷は曹操に仕えた騎将で、勇力をもって知られた。文欽はその血を受け継ぎ、乱世に雄烈を示したが、非命に倒れた。 子の文虎は曹魏で関内侯に封ぜられ、文鴦(本名・文俶)は西晋に仕えて東夷校尉を務めた。
文欽は呉で斃れ、子が魏・晋へ帰したことは、文氏一門の命運が時代の波に翻弄されたことを物語る。 その姿は、三国を跨いで生き延びようとした家の記録であり、また文欽という将の烈しさと脆さを後世に伝えている。
参考文献
- 参考URL:文欽 – Wikipedia
- 主要來源:『三國志・魏志・毌丘儉諸葛誕伝』
- 『資治通鑑・巻七十五・巻七十六・巻七十七』
- 『晋書・帝紀』ほか関連条
- 王沈『魏書』条文、鄭袤・鍾会・蕭常・盧弼各評
FAQ
文欽の字(あざな)は?
文欽の字は仲若(ちゅうじゃく)
文欽はどんな人物?
勇敢果断で戦功を重ねてますが、捕虜数を誇張することが多かったです。
文欽の最後はどうなった?
甘露三年(258年)、寿春で方針対立の果てに諸葛誕により誅殺されました
文欽は誰に仕えた?
主に曹魏に仕え、敗走後は呉に仕官。都護・幽州牧・鎮北大将軍・譙侯に封ぜられました。
文欽にまつわるエピソードは?
嘉平五年(253年)の合肥新城戦で撤退する呉軍を大破して名声を高め、正元二年(255年)には 太后詔を矯めて挙兵。鄧艾の示弱策に誘われて敗れ、呉へ亡命した。
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