牽弘の生涯:魏・晋を駆けた剛将、青山で果てたその最後

一般武官2

牽弘を徹底解説!魏から晋へ、そして青山に散った軍人の一生

魏から蜀、そして晋へ:牽弘の軍歴とその節義

牽弘(けんこう)、字は不明、出身は安平観津県、生没年(?~271年)
牽弘は、魏の宿将・牽招の次男として育ち、その性格は「剛毅で父譲り」、つまり頑固で扱いにくいタイプ。
若くして魏に仕え、隴西郡太守として統治にあたった後、鄧艾の下で蜀討伐戦に出陣。蜀が滅んだあとは、蜀郡太守として現地に駐在することになる。
このとき、旧蜀臣・杜軫がかつての主君を庇う発言をし、これに牽弘は素直に感動したという。
普通なら“反逆の芽”として処罰するところだが、なぜか感心してしまったあたり、意外と情にもろい面があったのかもしれない。
こう見えて、敵にも敬意を払う筋の通った人だったのだろう。

その後、晋朝に仕えた牽弘は振威護軍、さらに揚州刺史へと昇進し、エリートコースまっしぐら……と思いきや、嵐の前触れが忍び寄っていた。

涼州刺史としての最期:禿髮鮮卑との青山戦

晋と呉の間で火花が飛び交う中、牽弘は丁奉率いる呉軍を渦口で撃退。
これは素直に快挙であり、戦功として讃えられてもいいはずだった。
ところが、当時の大将軍・陳騫と牽弘は犬猿の仲。
命令を無視する牽弘に業を煮やした陳騫は、「牽弘は勇はあるが無能。国の恥になる前に処分を」と司馬炎に直訴。牽弘も負けじと「私は悪くない」と言い返す。
結局、司馬炎は牽弘を涼州刺史へ転任させる。その涼州は鮮卑や羌戎がうろつくモンスター地帯。

陳騫は密かに「ああ、これはダメだな……」と予言したが、それはあっさり現実になる。
271年、禿髮鮮卑の禿髮樹機能が蜂起。
無謀な作戦により羌戎の反乱を招き、牽弘は青山にて敵に包囲され戦死。
敵の大軍と羌戎の反乱に挟まれ、散るように命を落とす。


史書では「果烈」と美辞麗句でまとめられているが、冷静に見れば「猪突猛進して死んだ人」。
とはいえ、その潔さに惹かれるものがあるのも事実。論理より情、計算より信念。それが彼の生き方だった。

参考文献

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