楊欣とは?金城太守として蜀征伐に従軍し涼州で鮮卑に敗れた武将
鄧艾軍として蜀征伐に参加
楊欣(ようきん)、字不詳、出身は天水郡、生没年(?~278年)
楊欣は魏の時代には金城郡太守を務めた。
景元四年(263年)、魏が蜀征伐の大軍を動かすと、楊欣は鄧艾配下としてこれに従軍した。
作戦は三方からの挟撃で、鄧艾は天水太守の王頎らに姜維の本陣を直接攻めさせ、隴西太守の牽弘らにはその進路を遮らせた。そして金城太守の楊欣には甘松への進軍を命じた。
この圧力を受け、姜維は鍾会の軍がすでに漢中に入ったと聞き退却する。これを見逃さず、楊欣らは彊川口まで追撃して蜀軍を敗走させた。
のちに鄧艾が成都へ入城し、蜀が正式に滅亡すると、咸熙元年(264年)、楊欣は戦功を認められ犍為太守へと任命された。
涼州刺史就任と最期の戦い
西晋の成立後、楊欣は牽弘の後任として涼州刺史に就任する。
当時、敦煌で反旗を敦煌太守代行の梁澄を殺し、令狐豊が掌握していた。
令狐豊の死後、弟の令狐宏が継ぐ。
咸寧二年(276年)、楊欣は州の軍勢を率いて令狐宏を討伐し、令狐宏の首を洛陽に届けた。
咸寧四年(278年)、落ち着いたのも束の間、今度は秃発樹機能の一派、若羅拔能が鮮卑の軍勢を率いて武威に攻めてくる。
このとき、馬隆は「楊欣は羌・戎との信頼を失っている、いずれ敗れるだろう」と武帝に進言している。予言めいたその言葉通り、楊欣は若羅拔能の鮮卑軍と激突して敗北を喫し斬られている。
これにより、涼州と河西との連絡線は断たれたという。
参考文献
- 三國志 : 魏書二十八 : 鄧艾傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 帝紀第三 世祖武帝 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 帝紀第二 世宗景帝 太祖文帝 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 列傳第二十七 羅憲 滕脩 馬隆 胡奮 陶璜 吾彥 張光 趙誘 – 中國哲學書電子化計劃
- 華陽國志/巻八 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻078 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:楊欣 – Wikipedia
楊欣のFAQ
楊欣の字は?
楊欣の字は不詳です。
楊欣の最後はどうなった?
咸寧四年(二七八年)、鮮卑の若羅抜能が武威で軍を起こすと、楊欣はこれと交戦し、その戦いで戦死しました。
楊欣は誰に仕えた?
楊欣は魏に仕えて金城太守を務め、その後は西晋に仕えて涼州刺史となりました。



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