1分でわかる忙しい人のための孫皓の紹介
孫皓(そんこう)、字は元宗(げんそう)、出身は建業、生没年(242~284年)
孫皓は呉の第四代皇帝で、孫権の孫、孫和の子。廃嫡された父の血筋でありながら、政争を経て帝位に就いた。
即位当初は質素で清廉、善政を敷いて民心を得るも、次第に暴政に転じ、猜疑心と残虐性を露わにした。
多くの忠臣を粛清し、民に重税と労役を強いたことで、呉の国力は衰退の一途をたどる。
やがて西晋の大軍に降伏し、呉は滅亡。孫皓自身は洛陽に連行され、旧友との皮肉な再会の中で生涯を終える。
孫皓が死に追いやった人物たち
孫皓の治世下で処刑、自殺に追い込む、憤死した主な一覧である。
269年 | 濮陽興 | 萬彧の密告により処刑 |
269年 | 張布 | 萬彧の密告により処刑 |
269年 | 孫謙 | 武昌での施旦の反乱に連座。母子ともに毒殺 |
266年 | 王蕃 | 宴席での失言により斬首。 |
270年 | 李勖 | 遠征失敗の責任で、家族もろとも処刑 |
270年 | 留平 | 毒酒を賜る、憤死 |
271年 | 萬彧 | 毒酒を賜る、万彧は自殺 |
272年 | 何定 | 悪事がばれて処刑 |
272年 | 張俶 | 車裂きの刑 |
272年 | 陳声 | 鋸引き刑 |
273年 | 韋昭 | 意見を曲げなかったことが災いし、処刑。 |
274年以降 | 張俊(豫章太守) | 孫奮の母の墓参りを理由に処刑。三族皆殺し |
274年以降 | 車浚 | 飢民救済で“人気取り”と疑われ斬首 |
274年以降 | 張詠 | 徴税不足を理由に斬殺 |
274年以降 | 熊睦 | 諫言の直後、刀の柄で撲殺 |
275年 | 賀邵 | 中風で話せなくなったことを仮病と疑われ拷問死 |
278年 | 華覈 | 諫言により免官・追放 |
280年 | 岑昬 | 最後に民心を抑えるため処刑 |
それでは、三国志史上、最も家臣を粛清した孫皓の人生を追いかけていく。
廬陵王家の出自と孫皓の幼少期
孫皓(そんこう)は、孫権の子・孫和の長男として生まれた。
だがこの家庭、いわば「皇族のゴミ捨て場」みたいなものだった。父・孫和はかつて皇太子に立てられながらも廃され、その後も兄弟ゲンカで泥沼に巻き込まれ、最終的には太元2年(252年)に廬陵王の称号だけ与えられたまま、自殺に追い込まれた。
そのときまだ幼かった孫皓は、母・何氏とともに廬陵の地で育つことになる。
本来ならば皇帝になるような立場ではなかった。
この点が重要だ。家格としては皇族ではあるが、中央から遠ざけられた傍流であり、政権の表舞台とは無縁な存在だったのである。しかも母・何氏は後宮の寵妃でもなく、むしろ身分も家柄も記録に乏しい、謎の存在である。
いわば“陳列棚の裏に落ちた未開封の缶詰”のような一家。
食えるかどうかもわからんし、誰も探してなかった。
このように、孫皓の少年時代はひっそりと、しかし後に天下の命運を握る男としては、あまりにも静かに幕を開けたのである。
政務改革と恩赦のはじまり
新帝・孫皓がまずやったこと。それは恩赦でも厳法でもなく、「ご褒美」だった。
即位元年の永安7年(264年)、自分を皇帝に推した重臣たちに大盤振る舞いの人事を発動。
濮陽興は侍中と青州牧を兼任、張布は驃騎将軍に昇進し、こちらも侍中を授けられる。
古株の施績と丁奉には、それぞれ左大司馬・右大司馬のポストが与えられた。あきらかに「これからもよろしく頼むぞ」という、ご祝儀人事である。
一方で庶民にも飴を配った。宮中の食糧を解放し、貧しい人々に分け与えた。
さらに、後宮の侍女たちを「もう自由にしていいよ」と外へ放ち、飼っていた獣たちすらも野に放つ。
ここまでくると、人間も動物も“放流”である。
その甲斐あってか、世間では「明主かもしれん」と評判を得る。新皇帝は、なかなか“優しいスタート”を切ったように見えた。
濮陽興と張布の処刑と恐怖政治の序章
建衡元年(269年)、政権中枢に電撃が走った。
斬られたのは、皇帝・孫皓の即位を誰よりも熱心に後押しした二人、丞相・濮陽興と驃騎将軍・張布。
かつては功臣、だがいまや粛清の第一号。口を開いたことが死に繋がった。
「最近の帝、少し様子が変わったと思わんか?」
おそらく、それほどの内容だったろう。だが密室の嘆きも、帝には筒抜けだった。
密告したのは、同じく擁立派の万彧。
身内の監視、内通の習慣、それこそが孫皓政権の“効率的な統治手段”である。
濮陽興と張布は斬首され、さらに三族まで誅殺された。
三族皆殺しという“皇帝の怒りスイッチ”は、いまや驚くほど軽い。ボタンひとつで命が消える。
朝廷では、忠言よりも沈黙が尊ばれた。讒言のスピードこそが生存率を決める。
そんな恐怖の生態系が静かに完成していく。
内憂外患の兆しと重臣の嘆き
寶鼎元年(266年)、晋では司馬炎が魏から禅譲を受け、正式に晋を建国。
これを受けて、呉も動き出す。
孫皓は晋の内情を探るため、使節として丁忠を派遣した。
だが帰還した丁忠の報告は、表向きの平和とは裏腹に「晋の備えには抜け穴がある」という挑発的な内容だった。
鎮西大将軍・陸凱はすかさず反対する。「今は攻めるべき時ではない」
孫皓は「ごもっとも」と頷きつつ、なぜか晋との国交をバッサリ絶交。
心と言葉の距離が、地球と冥王星ぐらい離れている。
この年、丁忠の帰還を祝う宴席が開かれた。
場の雰囲気は上々のはずが、常侍・王蕃が酒に酔って失言。孫皓の怒りスイッチが入る。
重臣・滕牧や留平がとりなすも、首はあっさり斬り落とされた。
この事件は、後の諫言でもたびたび引き合いに出され、陸凱に至っては「王蕃は呉の関龍逢」とまで言い切った。つまり、孫皓は“夏桀と並ぶ暗君”と遠回しに言われていたわけである。
その後の施政も、派手ではあるが民意から乖離していた。
遷都した武昌は貧しい土地で、物資は長江をさかのぼって輸送するしかない。疲弊する江東の民、そして、またしても童謡が生まれる。
「寧飲建業水,不食武昌魚,寧還建業死,不止武昌居」
※建業の水で死ねるなら本望。武昌の魚なんか、餓死したって食わねぇ。
子どもは正直である。そして時に、政権にとっては非常に迷惑だ。
十月、永安山で施旦という男が数千人を集めて反乱を起こす。
建業に迫る頃には数万の大軍となっていた。
孫皓はこの一報を聞き、不安どころか上機嫌。
「術士の言ってた『荊州が揚州を破る』という予言が的中した!」
街頭に数百人を配置し、「天子の兵が揚州の逆賊を討伐中」と大声で連呼させた。
この“詠唱イベント”の結果、反乱軍は鎮圧されたものの、異母弟の孫謙は処刑された。ついでに別の異母弟・孫俊も粛清される。
この男、家族すら“凶兆の根源”として斬ってしまう。神託はもはや法と化した。
そして昭明宮。267年、孫皓は巨大な新宮殿を建てると宣言する。
木材のために官吏を山に送り込み、農民を動員し、数百人単位で人員を浪費する。陸凱・華覈の諫言?もちろん無視。
宮殿は完成したが、残ったのは疲弊と怨嗟だけだった。
その年の冬十二月、孫皓は都を再び建業へと戻した。
占いと直感で国を振り回し、疲弊と混乱が積み重なるなかで、呉の政権はじわじわと軋みをあげ始めていた。
連年の対晋戦と交州遠征の失敗
寶鼎三年(268年)、孫皓は突如として“全方位戦争”を開始する。
自ら東関に陣を敷き、施績・万彧・丁奉らを江夏・襄陽・合肥に派遣、南では交阯叛軍の鎮圧にも軍を動かした。
ところが、どこもかしこも負け続き。北は司馬望、胡烈、司馬駿に抑えられ、南では劉俊と脩則が戦死、顧容は退却。
交州遠征は“詰め合わせセットで全滅”という、贅沢すぎる敗戦を味わった。
建衡元年(269年)、性懲りもなく孫皓は再遠征を企てるが、監軍の李勖が「道が悪い」と案内人を殺して帰還。
孫皓はブチギレて李勖と徐存を一族ごと処刑した。首が飛ぶスピードは、報告書より早かった。
この頃、夏口督の孫秀は「次は自分か」と怯え、家族ごと晋に亡命。晋は彼を驃騎将軍・会稽公として手厚く迎えた。
まるで避難先がパラダイスか何かのような待遇である。
建衡三年(271年)、讖文にハマった孫皓は「俺こそ天命」と信じ込み、家族と後宮を引き連れ牛渚から出陣。
ところが大雪で立ち往生、兵士は宮廷キャラバンの荷運びに疲弊し、反乱の噂が流れ撤退。
この時点で軍隊はすでに“戦力”ではなく“苦行”。国も戦もズタボロである。
さらに追い打ち。万彧・丁奉・留平が勝手に引き上げたと知った孫皓は、後に万彧と留平に毒酒を賜与。
結果、万彧は自殺、留平も憔悴死。丁奉は運良く病死で逃げ切ったが、このころから側近の命は“消耗品”扱いだった。
交阯・西陵の勝利と膨らむ皇帝の野心
建衡三年(271年)、孫皓は交州に派遣した薛珝・虞汜・陶璜らが交阯を攻略し、晋将を捕らえ、九真・日南を回復。さらに扶嚴夷も平定し、交州の動乱にひとまず終止符を打つ。
翌年の鳳凰元年(272年)には陸抗が西陵で反乱を起こした歩闡を討伐、三族を誅し、羊祜の5万、楊肇の3万の援軍を撃退。西陵は死守された。
2年連続の大勝利に孫皓の鼻は天を突く勢い。すでに「俺は天命の皇帝」と錯覚モードに突入し、術士・尚広に「天下取れるか?」とご神託を依頼。結果は「庚子の年に青蓋(天子の車)が洛陽に入る」。
孫皓はガッツポーズ。すぐさま「天命キター!」とばかりに北伐に熱を上げたが、結果はどれも空振り三振。
冷静な陸抗は「ちょっと落ち着いて」と上疏し、攻めるより守る策を提案。「建平・西陵の防衛強化が急務」と進言した。建平太守の吾彥も「川に大量の木屑が…これはバ蜀方面から水軍くるぞ」と警鐘を鳴らす。
だが、孫皓は全部ガン無視。陸抗が鳳凰三年(274年)に病没すると、彼の軍を5つに分割して、5人の息子にばら撒いた。
リーダー不在のまま、チームだけ細分化。この采配、まるで“会社の有能な部長を辞めさせて、部下に役職分配”という愚策そのものだった。
忠臣を斬り捨て、臣下を酔わせ、帝はますます独裁者へ
建衡元年(269年)、左丞相の陸凱が病没。この頃、施績・丁奉・孟仁・万彧・留平・范慎・丁固・陸抗ら名だたる重臣が相次いで死去している。
たった6年で重鎮が壊滅し、孫皓が“恐れるべき相手”はいなくなった。
「これで俺の天下だ!」とばかりに、彼の性格はアクセル全開。諫言は聞く耳ゼロ、宴席では部下を無理やり泥酔させ、密告担当を側に配置。
地獄の飲み会で粛清案件を作るという、最悪の「宴会芸」が日常になっていく。
大司農・楼玄は流罪先で自死。中書令・賀邵は中風で声が出ないところを「詐病だ!」と決めつけられ拷問死。韋昭は“命令に従わなかった”という理由で処刑。
「なんでそれで死刑!?」と思わず叫びたくなる事件が続出。東観令・華覈はちょっとしたことで罷免。張俊は孫奮の母の墓参りが理由で三族皆殺し。
さらには車浚・張詠・熊睦といった地方官僚までもが次々と処刑。かつて信頼された何定・陳声・張俶すらも斬られる始末。
張俶は車裂き、陳声に至っては「鋸で首を挽く」というスプラッター演出。孫皓の粛清劇場は、もはやモザイク必須レベルである。
一方その頃、晋では羊祜が懐柔政策を展開。「優しくされると弱い」人間心理を巧みに突き、次々と呉の将軍たちを寝返らせた。
天璽元年(276年)、孫楷が晋に投降。孟泰・王嗣・厳聰・厳整・朱買・邵凱・夏祥・劉翻・祖始……と離反者は続出。
それでも孫皓は「天命だ!一統だ!」と現実逃避。献上された“吉兆アイテム”のコレクションに夢中で、危機感など一切ナシ。
忠臣は死に、敵は懐柔に走り、皇帝は幻想の中、終焉フラグがビンビンに立っている。
最期の戦いと孫皓の降伏:呉の終焉
天紀三年(279年)、広州では監督官・虞授が殺され、郭馬が蜂起。もはや地方の崩れが止まらない。そんな中、晋では司馬炎が全土制覇に乗り出すため、故・羊祜の遺志をもとに、六方面からの総攻撃計画を発動。
王濬、杜預、王渾……そうそうたる武将たちが、いっせいに動き出す。
天紀四年(280年)、晋の大軍はまるでダムが決壊したかのように、荊州・揚州の要所を一気に飲み込んでいった。西陵、夷道、江陵、夏口、武昌……はい、全滅です。
張悌・孫震・沈瑩が出撃するも、あっという間に版橋で戦死。もう、「形勢逆転ホームラン」なんて都合の良い展開は起きません。
孫皓はとうとう観念。舅の何植に向けて、「これ、天のせいじゃない。オレが悪いの」と懺悔の手紙を書く。だが、その手紙が届くか届かないかのうちに、何植はあっさり晋に降伏。
いや、せめて一晩くらい悩んでくれよ、と部屋の隅で兵士がつぶやいてそうな展開である。
その後、張象がサクッと寝返り、陶濬の部隊は夜逃げ。側近が「岑昬を殺したらどうっすかね?」と提案すれば、孫皓はしぶしぶ承諾。責任って、そんな軽かったっけ。
そしてついに、280年5月1日。石頭城が開かれ、王濬が堂々と入城。孫皓は太子や王族を引き連れて降伏し、ここに呉の物語は幕を閉じた。
だが、意外だったのはその後。孫皓は全国の部下たちに降伏を勧める手紙を送る。
そこには、政治の失敗をすべて自分の責任とし、今後は晋の下で生きよと書かれていた。
……あれ、ちょっとだけ格好良くないか?
三国志の終幕、そこに立っていたのは、「あの暗君」ではなく、敗北を受け入れた一人の“元皇帝”だった。
洛陽での晩年と“面の皮”問答
天紀四年(280年)に降伏した孫皓は、晋に連行され洛陽へと送られた。
一応は「降伏王」として、晋武帝からそれなりの待遇は受けた──表面上は。
晋の朝議に招かれた際、晋武帝は孫皓にこう言い放つ。「朕、卿のためにこの末席を用意しておいたぞ」
孫皓は一礼して言った。「臣も南方で、陛下のために同じ席を設けておりました」
会場の空気、凍る。言い返す権力者はいても、返せる機知を持った者は少なかった。
この場にいた賈充が、わざとらしく問いかける。「お前は南で人の顔の皮を剥ぎ、目を抉ったというが、それはどんな刑罰かね?」
孫皓は眉ひとつ動かさず答える。「それは主君を弑した者や、奸臣に施す刑罰です」
そう、賈充はかつて魏帝・曹髦を殺させた張本人である。全身から冷や汗が噴き出したのは、賈充のほうだった。
また、晋武帝が王済と囲碁を打っていた際、孫皓が傍らにいた。
晋武帝が皮肉めいて尋ねる。「そなたは人の面皮を剥ぐのが好きと聞くが?」
孫皓はさらりと答えた。「主君に礼を失した者には、それが妥当です」
言葉に込めた鋭さは、剃刀というより、もはや外科手術のメスである。
酒席で晋武帝が「南方には《爾汝歌》なる戯れ歌があるそうだな」と話を振ると、
孫皓は羽觴を掲げて即興でこう歌った。
「昔はお前と隣人だったが、今やお前に仕える臣下となった。
一杯の酒を献上する、お前が万春の寿を得んことを!」
あろうことか、天子に「お前」呼ばわり。
晋武帝は、即座に「連れてこなければよかった」と後悔したという。
それから四年後、太康四年12月(284年)、孫皓は洛陽で病死。享年42。
その遺体は、河南の邙山に葬られた。
かつて宮殿を作り、戦を起こし、誰も信じず、誰にも従われなかった男は、最後は洛陽の片隅で、面の皮だけを最後まで守りきって終わった。
参考文献
- 参考URL:孫皓 – Wikipedia
- 華陽國志
- 三國志
- 資治通鑑
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