【1分でわかる】向朗の生涯:馬謖を選び諸葛亮に叱責された文臣の静かな晩年【徹底解説】

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1分でわかる忙しい人のための向朗の紹介

向朗(しょうろう)、字は巨達(きょたつ)、出身は襄陽宜城、生没年(?〜247年)
蜀漢の重臣として数十年にわたり地方行政に携わった向朗。若き日には司馬徽に師事し、龐統や徐庶といった名士たちと交流を深めた。劉備に仕えてからは、秭帰・巫山など荊州の要地を管理し、益州では巴西・牂牁・房陵の太守を歴任。
諸葛亮の南征・北伐では後方を託される信任を得ながらも、北伐で私情で失態を演じて失脚する。しかし、その後は復職し、政治の一線を退いて学問に没頭。八十に近い年齢でも書を校正し、知の館のように人生を送った。まさに「書と誠実」に生きた文官の鑑である。

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向朗を徹底解説!忠誠と教養で支えた蜀漢の屋台骨

若き日の師と友:司馬徽門下での学びと交遊

向朗の若き日は、儒学と人格の修養に明け暮れていた。
司馬徽という怪しげで仙人めいた人物の下に弟子入りし、龐統、徐庶、韓嵩らと机を並べた日々は、まさに後の蜀漢を下支えする布陣を築いた青春時代だった。
当時の襄陽は知の十字路であり、奇人・変人・秀才が渦巻くカオス。そこで培われた向朗の姿勢は、派手さとは無縁だが、まっすぐで粘り強いものだった。

向寵の叔父としても知られるが、本人は戦よりも統治に向く性格。
政治の場でも、学問の場でも、一貫して”正道”を重んじる。こうした人物が人脈と信頼を蓄えたのは、まさにこの時期だった。

劉備政権での躍進:荊州から益州への転任と統治

208年、劉表が亡くなると、荊州の政局は混乱。
向朗は臨沮長として劉備陣営に合流し、わずか数年でその能力を買われて秭帰・夷道・巫山・夷陵の四県を一括して統治するという破格の処遇を受けた。
このエリアは、長江上流の要地であり、軍政両面の手腕が問われる現場。つまり、信頼と期待のセット売りだ。

その後、劉備が益州を平定すると、向朗は巴西太守に就任。
さらに牂牁・房陵といった山岳地帯へ転任するが、これは左遷ではなく、逆に「どこを任せても安心」という印のようなものである。

諸葛亮との確執:馬謖事件と長史免職の真相

向朗の経歴において、最も苦いページがこの事件である。

建興六年(228年)、諸葛亮の第一次北伐が始まる。
その要衝・街亭の防衛を命じられたのが馬謖であったが、彼は命令を無視し、山上に布陣した末に敗走。蜀軍は大敗を喫した。
このとき、長史・向朗は、馬謖が軍を見捨てて逃げ出したことをいち早く知っていた。だが、旧友としての私交を理由に、あえて報告を控えた。
その態度に激怒した諸葛亮は、向朗を長史から解任し、成都に送還したという。

失敗を報告せず、友情を優先したその判断は、結果として諸葛亮の信頼を失った。
彼の信義と人情、それ自体は非難されるものではないかもしれない。
だが戦時における統率の原理は、もっと冷酷なものだ。忠臣であっても、情で仕事を歪めれば、それは失格になる。

晩年の書と教養:典籍校正と人材育成の静かな功績

第一次北伐での馬謖敗走事件に連座し、政務の場から退いた向朗だったが、数年後には光祿勳として復職を果たしている。
さらに諸葛亮の死後には左将軍に転任し、顯明亭侯に封じられるなど、形式上の昇進は続いたが、本人は政務から距離を置き、静かに学問に身を委ねた。

延熙十年(247年)に没するまでの約二十年間、向朗は時事に口を挟むことなく、門戸を広く開いて後進の教育に力を注いだ。
年近く八十にしても誤字脱字を自ら校閲し、典籍の謬りを正す姿は、まさに蜀における学術の灯火を静かに守り続ける存在であった。

その家には大臣も童子も等しく集い、時局ではなく書を語り合う、喧騒から隔絶された学問の聖域と化していた。

参考文献

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