1分でわかる忙しい人のための張邈の紹介
張邈(ちょうばく)、字は孟卓(もうたく)、出身は東平郡寿張、(?~195年)
少壮の頃より義侠心にあふれ、「八厨」の一人として貧民を援助しまくる生き様で知られた。袁紹とも親しくしつつ、最終的には曹操に仕えていたが、その後裏切って呂布を担ぎ上げ、兗州牧に据えるというドラマチックな展開を見せる。
人間関係がカオス気味な東漢末の中でも、曹操に家族を託されるほどの信頼から、裏切り者として討たれるまでの落差はなかなかのジェットコースター。
袁術に助けを求める道中で部下に殺されるという幕切れも、実にこの時代らしい終焉である。
張邈を徹底解説!裏切りと忠義のあいだで
曹操の親友か裏切り者か?張邈がなぜ呂布を迎えたのか
この男、若い頃から侠気にあふれ、「八厨」の一人として貧者に米を分け与える“義の人”だった。
なのに後の世では“裏切り者”の代名詞みたいに言われている。
※八厨とは財を惜しまず人を救う者の八人で、他に八俊や八及などがある。
実は張邈、曹操とはかなり親密だった。曹操が討董戦に失敗したときも、彼をかばい、家族すら預かる仲。袁紹との関係が微妙だったため、袁紹に「張邈を殺せ」と言われても、曹操はスルーを決め込むほど信頼していた。
ところが、曹操が陶謙を討つため兗州を留守にしたその隙に、張邈は陳宮とつるんで呂布を呼び寄せ、兗州牧に据えてしまう。この電撃的な裏切り劇、
陶謙:「いやいや曹操、君の親友が、君の不在中にクーデター起こしたよ」状態である。
理由はいろいろある。袁紹の圧力にビビったとか、曹操が処刑した名士・邊讓の件で嫌気が差したとか。あるいは、単に呂布と昔から仲良しだった説も。
張邈は「友情」よりも「政治的保身」を取った。それが“裏切り”と呼ばれる所以だ。
張邈と呂布の結末:信義か誤算か
呂布を兗州に迎えたはいいが、曹操がただ黙って見ているはずもなく、反撃開始。
張邈と呂布は手を取り合って抗戦するが、次第に劣勢となり、ついには兗州を失う。
張邈は呂布と共に劉備を頼るも、曹操は容赦なかった。雍丘にいた張邈の家族と弟・張超を皆殺しにする。義侠で知られた男が、自分の“義”によって大切なものを失うという皮肉な展開である。
そして張邈自身の最期もまた、哀れである。袁術に援軍を求める途中、部下に殺されるという“雑なバッドエンド”。義に厚く、情に流され、人を見る目は……まあ無かったのかもしれない。
『献帝春秋』によると、張邈は袁術に皇帝即位を持ちかける相談をしていたらしい。完全に逆臣コースまっしぐらだが、それもまた彼なりの「大義」だったのかもしれない。たぶん。
侠客から反逆者へ:評価が割れる張邈の人物像
張邈をどう評価すべきか?
侠客としての彼は、確かに光っていた。「八厨」と呼ばれた慈善精神は本物で、士人たちが群がるほどの人望があった。
曹操にとっても、もしもの時に家族を託せる存在。
それほど信頼していた相手に裏切られたショックは、きっと現代ならPTSDを疑われるレベルだろう。
陳寿は彼を「知人を見誤る難しさの象徴」と評した。曹操が彼に裏切られたことを、光武帝と龐萌の誤信に例えたほど。
つまり、張邈は「誠実さと猜疑心」の狭間で迷い、政治の荒波に翻弄された一人の“人間”だったのだ。
信義に厚い義士でもあり、機を見て翻る現実主義者でもある──彼の存在が“評価不能”であることこそが、張邈という男の最大の特徴かもしれない。
参考文献
- 参考URL:張邈 – Wikipedia
- 三國志
- 後漢書
- 献帝春秋
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