丁忠の功績とは? 晋との国交断絶を招いた進言
西晋の弔問使節として派遣されるも、帰路で同僚が死亡
丁忠(ていちゅう)、字は不明、出身不明、生没年不詳
三国時代末期、孫皓政権下の呉に仕えた官僚である。
宝鼎元年(266年)正月、孫皓は晋の大司馬・司馬昭の死に際し、礼をもって弔う使節を派遣した。
その任にあたったのが、大鴻臚・張儼と、五官中郎将・丁忠の二名である。
形式的とはいえ、一応は国交があった証でもあり、呉としては「ちゃんと礼儀は守ってますよ」というポーズが必要だったのだろう。
だが、この使節団には不運が待っていた。
帰途の途中で、張儼が病没。同行していた丁忠のみが呉へ戻るという事態になった。
外交の場で片割れを失うというのは、今で言えば外務大臣が出張中に急死するレベルのハプニングである。
弔問の使節が道中で絶命するというのも、どこか不吉な暗示のようでもある。
北方の守備の手薄を報告し、晋への襲撃を進言
張儼の訃報を抱えて帰国した丁忠は、それだけで終わらなかった。
彼は西晋を訪問中に「北方の守備は手薄だ」と見抜いていた。特に弋陽あたりなら、襲えば奪えると判断したのである。
そして彼はこれをそのまま孫皓に献策する。「晋は蜀や魏を併合して忙しくて、北方の守備は手薄です。奇襲で奪いましょう」と。
これに対して、左丞相の陸凱は慎重論を唱える。長年の経験から「そんなに都合よく勝てるはずがない」と思ったのだろう。
一方、車騎将軍の劉纂は「まず間者を送り、相手の情勢を見極めるべき」と、情報戦を提案。
孫皓はこの劉纂の案に乗る。
公式には丁忠案は採用されなかったが、この一連の過程で晋との外交関係は冷却され、結局国交断絶に至った。
これ以降、丁忠の記述はない。
参考文献
- 参考URL:丁忠 – Wikipedia
- 三國志·卷四十八·呉書三·三嗣主傳第三
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