【1分でわかる】郭図:官渡の戦いで袁紹を誤らせた参謀の最後【徹底解説】

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1分でわかる忙しい人のための郭図の紹介

郭図(かくと)、字は公則(こうそく)、出身は潁川(えいせん)。生没年(?~205年)
もともと潁川太守・陰修の属官(計吏)だったが、韓馥の部下を経て、辛評や荀諶と共に冀州を袁紹へ譲るよう説得し、袁紹陣営に加わった。
献帝を迎える是非をめぐり沮授と対立、官渡の戦いでは「囲魏救趙」を主張して烏巣を失わせ、さらに張郃を讒言して曹操に投降させるなど、数々の判断が袁紹軍を弱体化させた。
袁紹死後は袁譚派につき、袁尚派との対立を激化させた。内紛の末に曹操の南皮攻略に遭い、袁譚と共に敗北。郭図は斬首され、短くも波乱の生涯を閉じた。

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郭図を徹底解説!袁紹陣営の疫病神策士の生涯

郭図の若き日と袁紹への取り立て

郭図は潁川郡太守・陰修の下で計吏を務めていた。まあいわば「普通の役人」である。
だが初平二年(191年)、辛評・荀諶と組んで韓馥を説得し、冀州を袁紹に譲らせる大芝居を打った。凡庸な官吏から、一気に群雄・袁紹の懐刀へと抜擢され、歴史の表舞台に突如現れた瞬間である。

献帝を迎えるか否か:郭図の進言

興平二年(195年)、献帝が李傕らに追われ漂泊していた。沮授は「天子を迎えよ」と進言、袁紹も一度はその気になった。しかし郭図と淳于瓊は「帝を抱えれば行動が窮屈になる」と反対した結果、袁紹は献帝をスルーしてしまった。
ただし『三国志・袁紹伝』では「郭図が献帝に会い、迎え入れるよう進言したが却下された」と逆の記録も残る。裴松之も「どっち!?」とツッコミを入れているが、きっと前者の方だろう。
いずれにせよ、最終的に曹操が献帝を保護し、「挟天子以令諸侯」の大看板をゲット。ここで袁紹陣営は歴史的チャンスを棒に振ったのだった。

官渡の戦いと郭図の失策

建安五年(200年)、官渡の戦いが勃発。郭図は顔良・淳于瓊と共に白馬を攻めたが、曹軍の劉延にあっさり撃退される。その後、曹操が烏巢の兵糧を狙うと、張郃は「まず兵糧を守るべき」と冷静に主張。 ところが郭図は「いやいや、曹操本営を直撃すれば一発逆転!」と机上の空論を炸裂させた。
ここで郭図が持ち出した「囲魏救趙(いぎきゅうちょう)」という戦術は、春秋戦国時代の孫子の兵法に出てくる有名な一手だ。本来は敵の本拠を突いて間接的に味方を救う高等戦術なのだが、郭図のケースでは状況を読み違え、ただの無謀作戦になってしまった。
袁紹はこの甘言を採用し、張郃を本営攻撃へ向かわせた。結果、曹操本営は落とせず、烏巢は燃え尽き、袁紹軍は干上がった。郭図の一言が、袁紹敗北のトリガーを引いたのである。

張郃との確執と郭図の讒言

その失策の責任を問われるのを恐れた郭図は、なんと「張郃が手を抜いた」と讒言する。
濡れ衣を着せられた張郃は激怒し、曹操に投降してしまい、曹操は名将をゲット、袁紹は戦力を失うという最悪の展開になる。
さらに官渡の戦い後、審配の息子二人が捕虜になると、孟岱が「審配に問題あり」と讒言。郭図と辛評も「そうそう」と同調し、袁紹は孟岱を鄴城守将に抜擢する。組織の結束どころか、内部崩壊を加速させてしまった。

袁紹死後の後継者争いと郭図の派閥

建安七年(202年)、官渡の戦いに敗れた袁紹は憂悶の末に死去。後継者争いでは、長子・袁譚を推す郭図・辛評派と、袁尚を推す逢紀・審配派が激突した。袁紹自身は後妻・劉氏の寵愛する袁尚を考えていたものの、明言はしていなかった。
そこで逢紀らが遺命を改ざんし、袁尚を後継に。袁譚は納得できず、車騎将軍を名乗って黎陽に拠った。郭図は袁譚に肩入れし、袁家は真っ二つに割れた。

袁譚と袁尚の不和を煽る郭図

建安八年(203年)、曹操が北方へ進軍する中、袁氏兄弟の対立は決定的な局面を迎えた。袁譚は曹操の圧力に対抗するため、弟・袁尚に鎧や兵士の提供を求めたが、袁尚はこれを拒絶。さらに袁尚は腹心の逢紀を袁譚のもとに送り、行動を監視させた。袁譚はこれに激怒し、逢紀を殺害。審配も兵の配備を拒んだことで、兄弟間の不信は深まり、郭図や辛評らの挑発も加わって、ついに両者は互いに武力衝突を始める。
曹操が袁譚を攻めると、袁譚は袁尚に救援を要請した。しかし袁尚は「兵を貸せば兄が返さない」と疑念を抱き、自ら兵を率いて出陣。兄弟の信頼関係は修復不能となった。
やがて曹操は黎陽を攻め、袁譚・袁尚の連合軍を撃破。二人は鄴城へ退却した。さらに曹操は城下の麦を刈り取る挑発を仕掛けたが、この時は袁尚が撃退。 しかし郭嘉の計に従った曹操は「兄弟が勝手に潰し合う」と撤退を選ぶ。事実、郭図と辛評の煽りが火種となり、袁譚と袁尚の対立は決定的に固定化してしまった。

郭図の最期:南皮の戦いでの斬首

建安十年(205年)、曹操が南皮に攻め寄せた。袁譚は必死に抗戦したが力及ばず、城は落ちる。郭図は捕らえられ、あっけなく斬首。
陰修の下級官吏から、あっという間に戦国群雄の参謀に上り詰めた男の末路は、自らの策謀に飲み込まれての最期だった。まさに「策士策に溺れる」を地で行った生涯である。
彼の出す一手はことごとく裏目に出て、唯一まともに機能したのは韓馥を説得して冀州を袁紹に渡させた件くらい。だが韓馥にしてみれば、それすら『余計なお世話』である。
触れるものごとを次々に崩壊へ導く姿は、まさに“疫病神”とでも呼ぶべき存在だった。

参考文献

  • 参考URL:郭図 – Wikipedia
  • 『三国志・魏書六・董二袁劉伝』
  • 『後漢書・袁紹劉表列伝』
  • 『資治通鑑』漢紀五十二・五十五・五十六
  • 『三国志 魏志 鍾繇伝』引 謝承『後漢書』

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FAQ

郭図の字(あざな)は?

郭図の字は公則(こうそく)です。

郭図のあだ名や異名は?

私の中では「疫病神」と呼んでいます。

郭図は誰に仕えた?

袁紹、袁譚に仕えました。

郭図の最後はどうなった?

建安十年(205年)、南皮で曹操に捕らえられて処刑されました。

郭図はどんな人物だった?

自己の保身のために相手を落とし入れ、献策はことごとく裏目に出る策士です。

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