1分でわかる忙しい人のための陳泰の紹介
陳泰(ちんたい)、字は玄伯(げんぱく)、出身は潁川郡許昌、生没年(?~260年)
曹魏の名臣・陳羣(陳群)の息子であり、母は名門荀氏の出身。父の死後に潁陰侯の爵位を継ぎ、若くして散騎侍郎として朝廷に仕える。
やがて并州刺史に任命され、匈奴の監督役を担うと、武力ではなく懐柔によって異民族との関係を築いた。
その誠実な姿勢と威望は辺境においても広く認められ、朝廷からの信頼を着実に積み重ねた。
清廉で筋を通す性格は、後年の行動にも一貫して現れていく。
陳泰を徹底解説!魏の忠臣・陳泰、その波乱と信義の生涯
陳泰の出自と若き日の活躍:名門に生まれ、信義を貫く
この男の家系、地図じゃなくて年表を辿るべきである。父は陳群、九品官人法の立案者。法の仕組みを作った側の人間だ。
母は荀彧の娘、舅は荀顗。名門荀家との結びつきで、政治と学問の両輪が血の中に組み込まれている。
そういう“血統由緒あり”の人物にはよくあるパターンがある。威張るか、斜に構えるか。でも陳泰は、どちらでもなかった。
それどころか、若くして朝廷に出仕すると、必要以上に真面目で、必要以上に礼儀正しく、必要以上に清廉だった。
やがて并州刺史となり、振威将軍・護匈奴中郎将として、辺境地帯で匈奴の動向を監督する重責を担う。
そこでも彼のスタンスは徹頭徹尾変わらない。力ではなく、誠意と理で接する。話して、納得させて、距離を縮めていく。
「征服」ではなく「理解」で支配するという、口で言うのは簡単だが実行が極めて難しいやり方を、実際に成果に結びつけていた。
武をちらつかせずに威を保つ。このやり方ができたのは、彼の中にブレない判断軸があったからだ。
その判断軸は、朝廷での態度にも表れている。
都の高官たちから送られてきた贈答品。つまり、やんわりとした見返り要求である。陳泰はこれを一切開けず、壁に並べて吊した。
装飾ではなく、抗議。威圧でもなく、拒絶。そう読み取れる態度だった。
朝廷に戻ると、すべてをそのまま返却。包装紙ひとつ破れずに、きっちり戻ってきたその荷に、送り手たちは額に汗を浮かべたに違いない。
名門の出でありながら、誇示せず。清廉を貫きながら、他人を責めず。
中央から辺境まで、どこにいても態度が変わらない。
陳泰は、地味だが凄まじい信頼感を漂わせる男だった。見た目の華やかさや、戦場での豪腕では測れない、「品格」という武器で勝負していた人物である。
牛頭山の戦いで姜維撃退:冷静な分析と包囲戦術の妙
嘉平元年(249年)、蜀の姜維が魏の西部を荒らすべく出撃。例によって「今回は勝てるかもしれない病」を発症し、麴山に二つも城を築く。
しかも羌胡の勢力まで引き連れて、辺境一帯を騒がせるという念の入れようだった。火事場に爆竹持ってくるような真似である。
そこへ現れたのが、雍州刺史に就任したばかりの陳泰。お披露目早々の実戦である。
ところが彼、到着するなり地図を広げて静かにこう言った。「攻めずとも勝てる。相手の補給線が遠すぎる」
声を荒げず、剣も抜かず、しかしその読みは一寸の隙もなかった。
郭淮も納得し、すぐさま包囲戦の準備が始まる。兵を分け、鄧艾・徐質と共に城を囲みつつ、援軍を率いる姜維の動線を封じにかかる。
姜維にしてみれば、麴山の二城は“進出拠点”のつもりだった。ところが、気づけばそれが“孤島”になっていた。
進軍路も遮断、補給も届かず、住民もやる気ゼロ。
「あれ?みんな疲れてない?」と部下に声をかけたら、すでに配給が尽きていた、みたいな状態。
攻めどころか、退くことすら難しい。もはや戦ではなく、出口探しのサバイバルである。
それでも姜維は意地で前に出るが、そこにも陳泰がいた。まるで「出口こちら→」という案内板の先に鉄扉があるような完璧な布陣。
郭淮も連携し、敵将は完全に挟み撃ちの構図。戦う前から結果は決まっていた。
結局、姜維は撤退。麴山の二城は一矢も報いることなく降伏した。魏側の被害はほぼゼロ。
誰かが褒めようとすれば、本人はこう言ったかもしれない。「いや、城が勝手に降伏しただけです」
控えめすぎて逆に怖い。これが陳泰という男だった。
南安・狄道の防衛戦:呉蜀連携軍を退けた陳泰の胆力
253年。東興で呉軍が勝ったことで「いけるんじゃない?」と錯覚した連中がいた。
それが諸葛恪と姜維である。片方は祝勝ムードに酔いすぎて攻め込み、もう片方はタイミングを見計らって蜀から動いた。
敵が南から来て、また敵が西から来る。呉と蜀の同時多発嫌がらせ。
だが、困ったことに魏には陳泰がいた。今回も案の定、洛門に進軍して姜維の退路と補給線を断つ。
そしてまたしても、姜維の兵糧が先に尽きる。もうパターン化している。
そのころ新城を攻めていた呉軍も、疫病と疲労で自壊。
宴会開いたのに、全員が風邪と食中毒にやられたみたいな撤退ぶりだった。
そのわずか2年後、魏にさらなる試練が訪れる。
255年、征西の大黒柱・郭淮が死去。その跡を継いで、陳泰が征西将軍に任命され、節を仮し、雍涼二州の軍事を一手に指揮することとなった。
要するに「西部戦線、全部あいつに任せた」状態である。
そんな矢先、司馬師の訃報に呼応して、姜維が大軍を率いてまたしても攻めてくる。
このとき魏陣営では、雍州刺史の王経が「敵は分兵してくる」と予想し、こちらも軍を分けようとする。
しかし陳泰は即座に否定。「いや、奴らまとめて来るよ。分けたら死ぬ」と冷静に断言する。
が、王経はこれを無視して強行出撃。見事に姜維に叩きのめされ、狄道に逃げ込む羽目になる。
困ったときの“陳泰出動”である。
だがこのときの陳泰、兵も補給もギリギリ。それでも諦めず、狄道山に登って烽火を焚き、号角を鳴らした。
援軍が来たと誤認した城内では歓声が上がり、姜維は動揺。
糧も尽き、状況も見えなくなった敵軍は、撤退せざるを得なかった。
兵力で勝ったのではない。見せ方で勝った。
“西部戦線総司令官”として初の大一番を、陳泰は完璧に裁いてみせた。
曹魏の忠臣として:陳泰の信念と司馬昭への直言
高平陵の政変以降、魏の実権は司馬氏が掌握し、皇帝は形だけの存在になっていた。
しかし、そんななかでも陳泰は最後まで“魏の臣”であることをやめなかった。
司馬一族に重用されながらも、忠誠の矛先は終始、曹家に向いていた。
甘露元年(256年)、呉が再び魏へ侵攻すると、陳泰は鎮軍将軍・淮北都督として前線の総指揮に就く。
孫峻が病死すると呉軍は撤退し、陳泰はその功を経て中央に戻り尚書左僕射に任命された。
翌年には司馬昭による諸葛誕討伐が始まり、陳泰は行台の総署という戦時内閣のような立場でこれを支えた。
そして運命の年、景元元年(260年)がやってくる。
その年、魏の皇帝・曹髦が司馬昭に弓を引き、成済らに殺されるという衝撃的な事件が起きる。
朝廷の重臣が集まる中、ただ一人、陳泰だけが姿を見せなかった。
親族は「怒らせたら殺される」と彼を止めたが、陳泰は涙ながらに宮中に現れ、司馬昭にこう言い放った。
「賈充を斬るべし。これでこそ天下に対し、少しでも面目が立つ」
だが司馬昭はこれを拒絶。陳泰はそれ以上、何も言わなかった。
『魏氏春秋』によれば、陳泰はこの件に憤って吐血し、そのまま死去したという。
『漢晋春秋』では、自殺だったとまで記される。
ただしその死に様については史書ごとに異説があり、はっきりしたことはわからない。
ただひとつ言えるのは、魏への忠誠を、彼が最後まで曲げなかったという事実だ。
景元元年(260年)、陳泰は死去。追贈は司空、諡は穆侯。
葬儀は大掛かりなもので、曲蓋・秘器・追鋒車に至るまで、まさに“英雄の葬列”が用意された。
その死に様さえも、魏の最後の良心として、静かに刻まれている。
陳泰の人物像と後世の評価:名臣と称された理由とは
陳泰について最も簡潔に表現したのは、やはり『三国志』の編者・陳寿だろう。
「弘濟簡至、允克堂構」
これは彼が人の補佐に優れ、簡素で明快であり、その能力は名門の後継者として十分にふさわしい人物であることを示す。
きらびやかな美辞ではないが、その分だけ本物の匂いがする。
軍務では、司馬昭が「沉勇能斷(ちんようのうだん)」と称賛。
沈着冷静にして勇気があり、決断力をもつという四字が、まるで”狄道の烽火”をそのまま語っているようだ。
戦の勝利は奇跡ではない。こういう“何もかも揃ってる人”が背後にいるから起きる。
また、父の陳羣(陳群)については「教化に優れた名士」とされているが、
武陔の評価では「事を成すにおいては陳泰が父を超えた」とまで言われる。
教養の家に生まれながら、書斎に籠もらず戦場へ。
このバランス感覚は、もはや設計図なしの完全体に近い。
さらに陳泰は、対司馬昭との関係にもその人格が現れている。
権力の庇護を受けながら、曹家への忠義を忘れず、あまつさえ反論までする。
しかも一度言って駄目だったら、それ以上は語らない。
これほどの“硬さと柔らかさ”を両立した人物、他にそうそういない。
その死後、追贈は司空、諡号は穆侯。
秘器や追鋒車、鼓吹に至るまでの厚遇が用意された葬儀も、
彼が単なる功臣ではなく、「魏の最後の道徳的支柱」だったことを物語っている。
参考文献
- 参考URL:陳泰 – Wikipedia
- 三國志・魏書・陳群伝
- 晋書
- 資治通鑑
- 漢晋春秋
- 魏氏春秋
- 世説新語
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FAQ
陳泰の字(あざな)は?
陳泰の字は玄伯(げんぱく)です。
陳泰の父は?
魏の名臣の陳羣(陳群)(ちんぐん)です。
陳泰はいつ死去した?
260年に憤って吐血したと言われています。
陳泰と郭淮の関係は?
陳泰は郭淮の部下であり、郭淮の死後、その地位を継いでいます。
陳泰はどんな人物だった?
陳泰は、知略に優れ、司馬昭といった権力者にも公正な態度を貫いた、慎重かつ高潔な人物でした。
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