劉璋:周囲に振り回され続け暗愚と評された男【すぐわかる要約付き】

1分でわかる忙しい人のための劉璋の紹介

劉璋(りゅうしょう)、字は季玉(きぎょく)、出身は荊州江夏郡竟陵県、生没年(?~220年)
劉璋は後漢末に益州を支配した人物で、父の劉焉を継いで益州牧となった。
漢王室の一族であり、性格は寛大で柔和だったが、趙韙の反乱や張魯との対立など、益州では相次いで問題を抱えた。
曹操への接近を経たのち、張松や法正の進言を受け入れ、劉備を益州へ迎え入れた。

しかし劉備とは後に決裂し、建安十九年(214年)には成都を包囲された。
城内にはなお三万人の精鋭兵と一年分の物資が残っていたが、劉璋は民衆をこれ以上戦わせることを望まず、開城して劉備に降伏した。
その後は公安へ移され、孫権が荊州を奪うと再び益州牧に任じられ、秭帰に駐屯したのち220年に病死した。

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劉璋の生涯を徹底解説!思いもよらぬ益州牧就任から荊州で迎えた最期

父・劉焉の後継者となった劉璋

劉璋は字を季玉といい、荊州江夏郡竟陵県の出身である。
『元和姓纂』によれば、その家系は漢景帝の子・魯恭王劉余の子孫で、章帝の時代には竟陵侯に封じられた一族だった。つまり家柄だけを見れば、ちゃんと漢王室につながる立派な血筋である。

父は後に益州を支配する劉焉で、劉璋はその末子だった。
母は費氏で、後に劉璋の娘を娶ることになる費観の族姑にあたる。
ややこしい親戚関係だが、この時代の名家というものは、系図を眺めているだけで一日が終わりそうなくらい色々とつながっている。

中平五年(188年)、父の劉焉は漢霊帝に対して、各地の軍事と政治をまとめて担当する州牧を置くよう進言した。その後、劉焉自身も益州牧となり、益州へ向かう。
州牧の設置を進言した本人が、その州牧として益州へ赴くという、なかなか抜け目のない展開である。

ただし、息子たち全員を連れて行ったわけではない。長男の劉範、次男の劉誕、末子の劉璋は都に残され、三男の劉瑁だけが父に従って蜀へ入った。
その後、劉璋は奉車都尉となり、朝廷から「お父さんにちゃんと言ってきなさい」とばかりに、劉焉を諭す命令を持って益州へ派遣される。ところが劉焉は、やって来た息子をそのまま益州に留め、朝廷へ帰さなかった。
使者として送り出した息子が、そのまま父親に回収されてしまったのである。

ところが興平元年(194年)、都に残っていた兄たちの運命が大きく変わる。長兄の劉範は馬騰と手を組み、長安で権力を握っていた李傕を討とうとしたが、計画は失敗に終わり、次兄の劉誕とともに殺害されてしまった。兄二人が政争に飛び込んで命を落とす一方、父親に益州へ引き留められていた劉璋はこの難を免れている。

劉焉と以前から親交のあった議郎の龐義は、残された劉焉の孫たちを保護し、益州まで送り届けた。しかし二人の息子を一度に失った劉焉には、さらに災難が続き、綿竹城が大火に見舞われたことで、本拠まで成都へ移さなければならなくなった。息子を失ったうえに城まで焼けるのだから、踏んだり蹴ったりとは、たぶんこういう状況をいう。

その後、劉焉は背中にできた腫れ物を悪化させて死去した。生前の劉焉は三男の劉瑁を後継者にしようと考えており、本来なら劉璋が父の跡を継ぐ予定ではなかった。ところが父が死ぬと、益州の官吏・趙韙が劉璋を推すことになる。

趙韙が劉璋を推した理由は、彼が温厚で弱く、扱いやすい人物に見えたからだった。
つまり「この方なら益州を立派に治めてくれる」ではなく、「こいつならこっちの言うことを聞くだろう」と、最初から完全に舐められていたのである。父の跡を継ぐという人生の大一番で、能力ではなく「言うことを聞きそう」という理由で選ばれたのだから、本人にとっては喜んでいいのか泣いていいのか分からない後継者デビューとなった。

こうして劉璋は益州刺史として推挙され、その後は朝廷の命令によって益州牧となり、父・劉焉の死後の益州を治めることになった。漢王室につながる家に生まれ、兄たちの死をくぐり抜け、本来は後継者ではなかったのに、思いもよらず父の地位を継ぐことになった劉璋。

しかし、めでたしめでたしとはならない。むしろ彼の苦労は、ここから本格的に始まるのである。

反乱が相次ぐ益州

父の跡を継いで益州の主となった劉璋だが、さっそく統治の難しさを思い知らされることになる。沈弥、婁発、甘寧らが反乱を起こしたのである。この反乱には趙韙が立ち向かって彼らを破り、敗れた沈弥らは荊州へ逃れていった。

劉璋が抱えていた問題は、反乱だけではなかった。『英雄記』によれば、当時の益州には南陽や三輔から移り住んできた人々が数万戸もおり、彼らは東州兵として組織されていた。
ところが、この東州人が以前から益州に住んでいた人々を苦しめることがあり、両者の間には不満が積もっていた。

本来なら、ここで主君である劉璋が「お前らいい加減にしろ」と押さえつけるところだが、残念ながら劉璋はそういうタイプではない。寛大で柔和ではあったものの、威厳と策略に欠け、東州人の横暴を止めることができなかった。
政治や命令にも不備が多かったため、もともと益州に住んでいた人々の不満はますます大きくなっていった。優しいだけでは組織は回らないという、なんとも世知辛い現実である。

そんな劉璋を支えていたのが、沈弥らの反乱を鎮圧した趙韙だった。
劉璋から厚く信頼され、周囲からの人望も集めていたのだから、普通なら頼れる家臣として末永く活躍してほしいところである。ところが『英雄記』によれば、決断力に欠ける劉璋が周囲の意見を聞き入れたことで、二人の関係には亀裂が生じてしまった。

そして建安五年(200年)、劉表への備えとして駐屯していた趙韙が、ついに劉璋へ反旗を翻した。かつて反乱から助けてくれた男が、今度は自分に対して反乱を起こしてしまう。
しかも趙韙は、ただ勢い任せに兵を挙げたわけではなかった。東州兵に不満を抱いていた益州の旧住民の感情を利用し、荊州へ多額の贈り物を送って和睦すると、益州の有力豪族とも密かに手を結んだのである。すると蜀郡、広漢、犍為まで趙韙に呼応し、追い込まれた劉璋は成都城に入って防戦することになった。

ここで劉璋を救ったのが、なんとそれまで旧住民との対立を引き起こしていた東州兵だった。東州兵は趙韙を恐れ、劉璋を守るために命を惜しまず戦い、ついには趙韙軍を打ち破った。
散々問題を起こしていた集団が、いざという時には主君を救うのだから、世の中は実にややこしい。劉璋側はそのまま江州まで攻め進み、趙韙をさらに追い詰めていった。

最後には趙韙の配下だった龐楽と李異まで離反し、趙韙を殺害した。
こうして、かつて劉璋のために反乱を鎮圧し、その地位を支えていた趙韙自身が起こした大規模な反乱は終わった。

しかし、これで益州がすっかり落ち着いたわけではない。『漢献帝春秋』によれば、朝廷は益州の情勢を受け、五官中郎将の牛亶を益州刺史として派遣し、劉璋を卿として朝廷へ召そうとした。
だが劉璋はこの召しに応じず、そのまま益州に留まった。反乱には振り回され、家臣には舐められ、それでも益州の主という席だけは手放さない。頼りなく見えても、劉璋の統治はまだ続いていくのである。

張魯との決裂

趙韙の反乱をどうにか乗り切った劉璋だったが、これで安心して眠れるほど益州は平和ではない。

今度は北方の漢中で、張魯との関係が悪化していた。張魯はもともと父・劉焉に従っていた人物だったが、劉焉が死ぬと次第に驕るようになり、後を継いだ劉璋の命令を聞かなくなっていった。
父親には従っていたのに息子へ代替わりした途端にこの態度なのだから、劉璋はここでもずいぶん舐められている。

もちろん劉璋も、いつまでも黙って見ていたわけではない。命令に従わない張魯に対し、その母と弟を殺害するという強硬な手段に出たのである。
こうなってしまえば「これから仲良くやりましょう」で済むはずもなく、劉璋と張魯の関係は完全に決裂し、ついには武力で争うまでになった。

そこで劉璋は張魯を討つため、龐義らを何度も送り込んだ。ところが結果は散々で、送り込むたびに敗北する。何度やっても勝てないという、戦えば戦うほど兵と物資と自信だけが減っていく悲しい戦いになってしまった。さらに張魯の兵の多くが巴西にいたため、劉璋は龐義を巴西太守に任じ、兵を率いて張魯への備えにあたらせることにした。

この龐義は以前から劉璋と親しい関係にあり、かつて劉璋の子供たちを危難から救ったこともあった。劉璋としても恩のある相手だけに、その功績へ報いる形で龐義を厚く待遇した。さらに張魯への備えまで任されたことで、龐義は多くの兵を握り、益州の中で大きな権勢を持つようになっていく。

張魯は言うことを聞かず、討伐軍を送れば負け続け、その対策として頼った龐義には大きな力が集まっていく。趙韙の反乱をようやく片づけたばかりだというのに、劉璋の周囲にはまた別の問題が育ち始めていた。

曹操への接近

張魯との戦いを抱えていた劉璋は、曹操が荊州を征討していると聞くと、さっそく曹操との関係を築こうと動いた。河内出身の陰溥を使者として送り、曹操に敬意を示したのである。これを受けて曹操は劉璋を振威将軍、兄の劉瑁を平寇将軍としたが、その劉瑁は後に精神を病み、死去してしまった。

劉璋はさらに曹操との関係を深めようと、別駕従事の張粛を送り、叟兵三百人とさまざまな品物を献上した。曹操はやって来た張粛を広漢太守に任命し、劉璋は続いて張松を使者として送り出す。ここまでは贈り物を届け、人を送り、少しずつ関係を作っていくという、わりと順調な付き合いだった。

ところが張松が曹操のもとを訪れた頃、曹操は荊州を平定し、劉備を敗走させたばかりで勢いに乗っていた。『漢書春秋』でも、この頃の曹操は自分の功績を誇っていたとされており、わざわざ益州からやって来た張松を軽く扱ってしまう。遠路はるばる出向いたのに雑に扱われた張松としては、当然ながら面白くない。

その後、勢いに乗っていた曹操軍は赤壁の戦いで敗れ、さらに疫病による被害まで受けた。益州へ戻った張松は曹操を低く評価し、劉璋に曹操との関係を断つよう勧める。ついこの前まで関係を築こうとしていた相手から一転して距離を置くことになり、益州の向かう先も変わり始めた。

後に習鑿歯は、張松を軽く扱った曹操について、斉の桓公の故事を持ち出して厳しく論じている。斉の桓公が自らの功績を誇ったことで九国の反乱を招いたように、曹操も一時の驕りによって天下が三つに分かれることになり、それまで数十年かけて積み上げてきた努力を一時に失ったというのである。一人の使者を雑に扱っただけと思えば小さな話だが、その小さな態度が後々まで響いたという評価である。

習鑿歯はさらに、君子というものは功績があっても謙虚に振る舞い、高い地位にあってもへりくだり、人々と心を通わせることで富と地位、そして功績を長く保つものだと述べている。そのうえで、曹操が天下を統一できなかった理由も、この張松への態度に表れていると論じた。勝っている時ほど偉そうにしないほうがいいという、二千年近く経っても耳の痛い話である。

もっとも、赤壁の戦いの時期には、劉璋が朝廷の命令に従って曹操側へ援軍を送った記録も残っている。しかし曹操が赤壁で敗れると、劉璋は臨江郡方面へ襲粛らを派遣し、秭帰と巫県を占領した。その後、甘寧が夷陵を奪取すると、襲粛は配下三百人を率いて甘寧に降伏している。

こうして曹操へ近づいていた劉璋だったが、赤壁で情勢が変わり、使者として送り込んだ張松まで曹操に見切りをつけたことで、その関係も変わっていった。そして張松が次に目をつけることになるのが、曹操に敗れていたもう一人の漢王室の一族、劉備だったのである。

反対を退け、劉備を益州へ迎える

曹操との関係を断つよう勧めた張松は、代わって手を組む相手として劉備を推した。劉備は劉璋と同じ漢王室の一族であり、親しい関係でもあるため、味方につけるにはちょうどいいというのである。劉璋もこの話を受け入れ、まず法正を使者として劉備のもとへ派遣した。

さらに劉璋は法正と孟達に数千の兵を率いさせ、そのまま劉備への援軍として送り出した。こうして劉備との関係を深めていく一方、張松は「危ないのは外だけではありませんよ」と、益州内部にも目を向けるよう訴えた。龐義と李異がすでに驕るようになっており、このままでは外部へ寝返るかもしれないというのである。張魯には逆らわれ、龐義たちまで怪しくなってくるのだから、劉璋の人間関係は相変わらず安心できない。

そこで張松は、劉備を益州へ迎えなければ、外から敵に攻められるだけでなく、内では民衆まで騒ぎ出し、いずれ敗北を免れなくなると訴えた。外も危ない、内も危ない、ならば頼れる相手を呼ぶしかないという話である。劉璋はこの進言を受け入れ、再び法正を使者として送り、今度は劉備本人を益州へ招くことを決めた。

ところが、この決定には劉璋の配下から強い反対の声が上がった。主簿の黄権が劉璋を諫め、従事の王累も劉備を迎えることに反対したのである。とくに王累は州門で自分の身体を逆さにつり下げてまで止めようとした。ここまで身体を張って反対されたら普通は少しくらい考え直しそうなものだが、劉璋の決意は変わらなかった。

劉璋は黄権と王累の反対を退けると、益州各地へ命令を出し、領内へ入ってくる劉備を歓迎して、必要な物資まで提供するよう命じた。こうして劉備は劉璋自身の招きを受けて益州へ入り、行く先々でまるで自分の家に帰ってきたかのように迎えられた。兵を連れて他人の領地へ入るというのに、待っているのは敵兵ではなく歓迎と物資である。劉備にとって、これほど入りやすい益州への入口はなかった。

劉備への厚遇

建安十六年(211年)、劉備は劉璋の招きを受けて益州へ入ると、江州の北から墊江を経て涪まで進んだ。そこで待っていたのが劉璋で、成都から三百六十里も離れた涪まで、歩兵と騎兵三万人余りを率いて自ら劉備を迎えに出ている。華やかな車や帳幕が並び、両軍の兵士まで入り交じるという盛大な歓迎ぶりだった。

しかも二人は少し顔を合わせて終わったわけではなく、百日余りにわたって宴を開いた。百日を超える宴会ともなれば、歓迎というより半分くらい一緒に暮らしているような長さだが、それだけ劉璋が劉備を厚く迎えていたことが分かる。さらに劉備も劉璋を鎮西大将軍に推挙し、益州牧を兼ねさせた。

劉璋の大盤振る舞いはこれだけでは終わらない。劉備の兵力を増強して張魯を攻撃させることにし、さらに白水軍の指揮まで任せたのである。これによって劉備の軍勢は三万人余りに膨らみ、車や甲冑、武器、軍需物資まで充実した。『呉書』によれば、劉璋が与えた物資には米二十万斛、騎馬千匹、車千乗、さらに錦や絹などまで含まれていた。

こうして劉備を盛大に歓迎し、兵を増やし、武器を与え、食糧を与え、馬や車まで用意した劉璋は成都へ戻った。一方の劉備は北へ進んで葭萌に到着する。しかし劉備は劉璋から期待されていた張魯への攻撃をすぐには始めず、周囲の人々に恩徳を施しながら支持を集めていった。劉璋が張魯と戦わせるために育てた軍勢が、別のところで着々と地盤を固めているのだから、だんだん話がおかしくなってくる。

翌建安十七年(212年)、曹操が孫権を攻撃すると、孫権は劉備に救援を求めた。そこで劉備は劉璋へ使者を送り、曹操の攻撃によって孫権が危機に陥っていること、孫氏と自分は唇と歯のように互いを支える関係にあることを説明した。さらに楽進が青泥で関羽と対峙しており、このまま関羽を救わなければ楽進が大勝し、その勢いで益州の境界まで侵入してくると訴えたのである。

劉備はさらに、楽進による脅威は張魯よりも大きく、張魯など自分の土地を守るだけの賊なので、それほど心配する必要はないと主張した。そして孫権を救援するため東へ向かうとして、劉璋に兵一万人と軍需物資を要求する。張魯を討つため益州へ呼ばれたはずの劉備が、その張魯はたいした問題ではないと言い出し、今度は東へ行くための兵と物資を求めてきたのである。

ところが劉璋が認めた兵は四千人だけで、その他の物資についても劉備が求めた量の半分しか与えなかった。これまで兵も武器も食糧も惜しまず渡してきた劉璋だったが、ここでは劉備の要求をそのまま受け入れなかったのである。

劉備との決裂、二年に及んだ益州争奪戦

『魏書』によれば、これに劉備は怒り、「益州のために強敵と戦い、兵士たちは疲れ果てて休む暇もない。それなのに財貨を蔵へ蓄えたまま、功績に対する褒賞を惜しんでいる。これで士大夫に命を懸けて戦わせることができるのか」と兵士たちを奮い立たせた。そして劉備は益州を離れ、孫権を救援するため東へ向かおうとした。

ところが、劉備が東へ去ろうとしていると知って慌てたのが張松だった。張松は劉備と法正へ、「今、大事はまさに成就しようとしているのに、どうしてこれを捨てて立ち去ろうとするのか」と書き送った。劉備を益州へ迎えるよう勧めていた張松だったが、実際には劉備や法正と通じ、劉備が益州を去ることを引き止めようとしていたのである。

その張松の動きを劉璋へ告発したのが、兄で広漢太守を務めていた張粛だった。張粛は自分まで災いに巻き込まれることを恐れ、弟と劉備たちとのつながりを劉璋に明かしたのである。身内だから黙っていてくれるとは限らないのが乱世のつらいところで、事情を知った劉璋は張松を捕らえて処刑し、ここから劉備との亀裂は決定的なものとなった。

劉璋はすぐに関所を守る諸将へ命令を出し、劉備との文書の往来を停止させた。これを知った劉備も激怒し、劉璋配下の白水軍督である楊懐を呼び出すと、その無礼を責めて斬ってしまう。さらに黄忠と卓膺に兵を率いさせ、自らも軍を進め、ついに劉璋との戦いへ入った。百日余りも宴を開いていた二人が、翌年には互いに兵を向けるのだから、人間関係の崩壊としてはかなり急である。

劉備は関中へ直行して諸将を掌握すると、兵士たちの妻子を人質に取り、黄忠、卓膺らとともに涪まで進んで城を占拠した。これに対して劉璋は、劉璝、冷苞、張任、鄧賢らを涪へ送り込み、劉備軍を迎え撃たせる。しかし劉璋軍は敗北し、諸将は綿竹まで退却することになった。

そこで劉璋は李厳に綿竹の諸軍を指揮させ、劉備軍を食い止めようとした。ところが頼みの李厳は戦うどころか、配下の兵を率いてそのまま劉備に降伏してしまう。敵を止めるために軍を任せたら、その軍ごと敵側へ移ってしまったのだから、劉璋にとっては頭を抱えるしかない展開だった。これによって劉備軍はさらに強大となり、劉備は諸将を各地へ送り出して周辺の県を次々と攻略させた。

さらに荊州からは諸葛亮、張飛、趙雲らも軍を率いて長江をさかのぼり、白帝、江州、江陽を平定していった。関羽だけは荊州に残って守備を続け、劉備軍は複数の方面から益州の攻略を進めていった。

劉備はさらに雒へ進み、今度は劉璋の子である劉循が守る雒城を包囲した。ここでは劉循も簡単には崩れず、劉備軍の攻撃を受けながら一年近く城を守り続けた。この長い攻防では劉備軍も無傷では済まず、龐統が戦死している。

こうして劉璋と劉備による益州をめぐる戦いは長期化し、劉備軍は各地を攻略しながら成都へと迫っていった。

成都を劉備へ明け渡す

建安十九年(214年)、各地を攻略してきた劉備軍はついに成都へ到達し、劉璋が守る城を包囲した。二年に及んだ益州をめぐる戦いも、とうとう劉璋の本拠地を直接攻めるところまで来たのである。劉備は簡雍を成都城内へ送り込み、劉璋に降伏するよう説得させた。

その一方、包囲された成都の内部では、劉璋の配下からも離反しようとする者が現れ始めていた。広漢督郵の朱叔賢とその兄弟は城外へ脱出し、劉備に降伏しようと企てたが、計画が発覚して処刑された。さらに劉璋は朱叔賢の妻である張昭儀に兵士との再婚を迫ったものの、張昭儀はこれを受け入れず、自ら命を絶った。

蜀郡太守の許靖もまた、城壁を越えて劉備のもとへ逃れようとしたが、その計画は途中で発覚した。本来なら処罰されてもおかしくないところだったが、この頃には劉璋自身の敗北も目前まで迫っていたため、許靖を処罰しなかった。城を守る側の太守まで城壁を越えて逃げようとしているのだから、成都の空気がかなり危うくなっていたことは間違いない。

さらに劉璋に追い打ちをかけるように、かつて張魯のもとにいた馬超まで劉備に降伏した。馬超は劉備軍に加わると成都城の北に駐屯し、成都は数十日間にわたって包囲されることになる。しかし、ここまで追い詰められても、劉璋にはまだ戦い続けるだけの力が残されていた。

成都城内には精兵三万人がおり、穀物や物資も一年を支えられるほど蓄えられていた。さらに官吏や民衆も劉璋のために最後まで戦うことを望んでおり、成都にはまだ十分に抗戦できる力が残されていた。

それでも劉璋は抗戦を選ばず、「父子二代で益州にいること二十余年、民衆に恩徳を施すことができなかった。民衆が三年間戦い、その血肉を草野にさらしているのは私のためである。それでどうして心安らかでいられようか」と語り、成都城を開いて降伏することを決めた。

劉璋は簡雍を伴って城を出ると、劉備のもとへ赴いて降伏した。成都城内の人々は劉璋が降伏すると知って涙を流し、劉璋が支配していた地域も劉備に従った。これによって父の劉焉から続いた益州支配は終わり、益州は劉備の手へ渡ることになった。

降伏した劉璋に対し、劉備はそのまま成都に残すことはせず、南郡の公安へ移した。ただし劉璋の財産を奪うことはなく、すべて本人へ返還している。さらに劉璋が持っていた振威将軍の印綬についても取り上げず、そのまま保持することを認めた。

再び益州牧へ、荊州で迎えた最期

公安へ移された劉璋に再び転機が訪れたのは、建安二十四年(219年)のことだった。孫権が関羽を討って荊州を奪取すると、劉璋を益州牧に任命し、秭帰に駐屯させたのである。益州を失ってから五年、劉璋は孫権のもとで再び益州牧の肩書を得ることになった。

もっとも、益州牧になったからといって、劉璋が再び益州を治めたわけではない。劉璋は益州へ戻ることなく、220年に荊州で病死した。父の劉焉から受け継いだ益州を長く治めた劉璋だったが、最期を迎えたのは益州ではなく荊州だった。

劉璋の長男・劉循は、父とともに荊州へは移らなかった。劉循は龐義の娘を妻としており、劉備が益州を平定すると、左将軍司馬となった龐義が劉循を蜀に残すよう求めた。劉備はこれを受け入れ、劉循を奉車中郎将に任命した。

一方、次男の劉闡は父とともに荊州へ移り、そのまま呉に仕えた。劉璋の死後、雍闓が益郡で反乱を起こして呉に従うと、孫権は劉闡を益州刺史に任命し、交州と益州の境界に駐屯させた。その後、諸葛亮が南方を平定すると呉へ戻り、御史中丞まで昇進している。

『呉書』によれば、劉闡は劉緯とも呼ばれ、恭敬で財産よりも義を重んじ、仁愛と謙譲を備えた人物だったという。その後も呉で生涯を送り、病気によって自宅で死去した。

費観に嫁いだ娘の家系はさらに後世まで続いた。『華陽国志』によれば、曾孫の劉敞は白鹿山に住み、高い志を保ったまま老年まで世俗の事柄に関わらなかった。しかし太安二年(303年)夏四月、劉敞は羅尚によって殺害されたと伝えられている。

暗弱か仁厚か、陳寿・諸葛亮らが残した劉璋への評価

劉璋については、寛大で穏やかな人柄を認める一方、益州を治める君主としては弱かったという評価が残されている。王粲の『英雄記』によれば、劉璋は寛大で柔和な性格だったが、威厳や策略には欠けていた。当時の益州では外から移住してきた東州人が古くからの住民を圧迫していたものの、劉璋はこれを抑えることができず、政令にも不備が多かったため、旧来の住民たちから不満を抱かれていたという。

諸葛亮も劉璋を「暗弱」と評している。北には張魯という敵がいたものの、益州は人口が多く、国も豊かだった。それほど恵まれた土地を治めながら、劉璋は民衆をいたわることを知らず、知恵や能力を持つ者たちは明君を求めていたという。土地には恵まれているのに、それを治める側への評価がついてこないという、劉璋にとってはかなり耳の痛い話である。

彭羕の評価も厳しく、劉璋を「暗弱」と評したうえで、曹操を暴虐、孫権を無道とし、劉備には覇王となる器があると述べている。劉璋の弱さを指摘したのは後世の歴史家だけではなく、同じ時代を生きた人物たちの言葉にも見られたのである。

そして『三国志』の陳寿は、さらに容赦がない。陳寿は劉璋には英雄としての才能がなく、乱世に領土を持ちながら、それに見合う力量がなければ敵を招くのは自然の理であり、益州を奪われたことも不運ではないと評した。運が悪かったから国を失ったのではなく、守るだけの力がなかったから奪われたというのである。

劉璋は寛大で柔和な人物だった一方、威厳や策略に欠け、豊かな益州を守り抜くだけの力を発揮することはできなかった。趙韙に扱いやすい人物だと思われて益州を継ぎ、その趙韙には反乱を起こされ、張魯には命令を聞かれず、最後には自ら招いた劉備に国を奪われる。人として穏やかであることと、乱世の君主として国を守れることは別物であり、劉璋の人生は最後まで周囲に振り回され続けたものだった。

参考文献

劉璋のFAQ

劉璋の字(あざな)は?

劉璋の字は季玉(きぎょく)です。

劉璋はどんな人物?

劉璋は寛大で柔和な性格でした。
一方で、史料では威厳や策略に乏しく、益州を治める君主としては弱さがあったと評価されています。

劉璋の最後はどうなった?

劉璋は建安十九年(214年)に劉備へ成都を明け渡した後、公安へ移されました。
その後、孫権から益州牧に任じられて秭帰に駐屯し、220年に病死しました。

劉璋は誰に仕えた?

劉璋は後漢の朝廷から益州牧に任命され、益州を統治しました。
劉備への降伏後は公安へ移され、孫権が荊州を奪った後には、孫権から益州牧に任命されました。

劉璋にまつわるエピソードは?

劉備を益州へ迎える際、黄権が反対し、王累は州門で自らの身体を逆さにつり下げてまで劉璋を諫めました。
それでも劉璋は劉備を迎え、建安十六年(211年)には三万人余りを率いて涪まで出迎え、百日余りにわたって宴を開きました。

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