【1分でわかる】笮融の生涯:仏と軍を手玉に取った異色軍閥の最期【徹底解説】

一般武官2

1分でわかる忙しい人のための笮融の紹介

笮融(さくゆう)、字は不明、出身は丹陽、生没年(?~196年)
後漢末期、劉繇の配下として一応は将軍だった男──だがその実態は、殺人・略奪・仏教活動の三拍子そろった“暴走する軍閥”である。
下邳相として陶謙に仕えつつ、三郡の穀物を勝手に使って金ぴかの仏像と巨大寺院を建造。浴仏会では布を数十里に敷き、酒飯をふるまい、信仰を豪奢で塗り固めた。
その後、曹操から逃れて広陵へ避難、恩人の趙昱を殺し掠奪。薛礼と同盟を組みながらも裏切って殺害。朱皓太守を助けるふりをして暗殺し、豫章を乗っ取る。
最期は劉繇に討伐され、逃亡先の山中で地元民に殺されるという結末を迎えた。信仰か略奪か、どちらが本心かは不明のまま、仏に仕えて仏をも愚弄した男だった。

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笮融を徹底解説!仏寺を建て、味方を殺し、民に討たれた男

仏に仕えず仏で食う?笮融、豪奢なる僧官の登場

下邳相だった頃の笮融(さくゆう)は、陶謙のもとで数百の部下を率いて仕えていた。
当初は地味な役人に見えたが、任されたのは下邳・彭城・広陵三郡の輸送ルートの監督という極めて重要なポジション。
だが彼は、これを完全に私物化する。三郡の公的な穀物を勝手に流用し、なんと仏寺を建て始めたのだ。しかも、ちょっとした礼拝所ではない。
銅で仏像を鋳造し、金で塗装。三千人規模の浴仏会を開き、数十里にわたる道を布で敷き詰め、酒と飯でもてなした。
いくら仏教が盛んとはいえ、規模が異常すぎる。費用は億を超え、さすがに陶謙も驚いたはずだが、なぜか彼は何も言わなかった。
その黙認をよいことに、笮融は仏を掲げながら、現世利益を貪る祭司となっていく。まるで「信仰の皮をかぶった地方豪族」。
仏教が持つ清貧のイメージを裏切り続ける彼の活動は、信仰というよりは演出、祈りというよりはイベントだった。

味方を食い殺す:裏切りと略奪の連鎖

曹操が陶謙を攻めてくると、笮融は男女数万人と馬三千頭を率いて逃走。これがもう、軽装避難どころではない。
“宗教団体の移動式王国”のごとく、広陵へ向かう。ここで迎え入れたのが、広陵太守・趙昱(ちょういく)だった。
しかし、これが彼の命取りとなる。広陵の物資に目をつけた笮融は、なんと趙昱を殺してその地を略奪した。
仏教の教えどころか、人間としての一線すら踏み越える所業。だが、本人はまったく悪びれた様子がない。


その後も、薛礼とともに劉繇のもとへ転がり込み、「盟主」としてかしずくような素振りを見せた。
ところが孫策軍に押された際、敗戦の責任をとらされたのはまたしても味方。彼は薛礼まで殺している。
同盟者を次々に始末して生き延びる、その姿は自分以外全員が捨て駒かのようだ。
いわば「信仰するふりをした食肉植物」。近づく者は栄養にされるだけで、根からは毒が染み出していた。

朱皓をも殺し、太守を奪取:信用の最終崩壊

その後、笮融は劉繇から命じられ、豫章に援軍として派遣される。太守・朱皓(しゅこう)を支える役目だった。
しかし、ここでも裏切りは繰り返される。許劭は「笮融は人を裏切る性質。朱皓は誠実ゆえに危険だ」と警告したが、劉繇はそれを無視。
予想通り、笮融は朱皓を誘殺し、豫章の城を奪い取った。
この頃にはもはや、仏教者としての顔も、軍人としての規律も跡形もない。
ただひたすらに、他者を利用し、奪い、潰し、自分の地位を積み上げていく。
しかもこれを、教義の名のもとに実行するのだから質が悪い。民衆からすれば、信仰の仮面をかぶった鬼のような存在だっただろう。
そのくせ、外敵が来ると真っ先に敗走。孫策との戦いでは五百、千と兵を失い、まるで持ち場を守れない。
最前線では逃げ、後方では内紛を起こし、味方は殺され、民衆は搾取される。結果、彼が手に入れたのは「信頼ゼロ」という最悪の勲章だった。

山中に散った命:豪奢な最期はなかった

豫章での独断専行に対し、ついに劉繇が動く。周囲の県から兵を集め、笮融討伐に乗り出した。
初戦では一矢報いた笮融だったが、再戦では大敗。居城を捨てて山へ逃げ込む。
しかし、そこにあったのは味方でも仏弟子でもなく、怒れる民衆だった。
その日、山中にいた農民が一人、顔をしかめながらこう言ったかもしれない。
「また“お坊さん”が逃げてきたぞ。今度は本当に、成仏してもらおうか」
かくして笮融は、かつての信者でもあった民衆の手によって討たれた。誰に看取られることもなく、何の教典にも記されず。


彼の築いた豪華絢爛な寺院とは対照的に、最期は地味な山中。石も碑もなく、ただ草に埋もれた無名の死だった。
「仏教の繁栄に貢献した人物」と言う向きもある。だが、その功績が光るほど、裏にある闇もまた濃くなる。
人は信仰で救われることもあれば、信仰を利用して堕ちることもある。その見本として、彼は後世に名を残した。

参考文献

  • 参考URL:笮融 – Wikipedia
  • 三国志・魏書八・二公孫陶四張伝
  • 三国志・呉書一・孫破虜討逆伝
  • 三国志・呉書四・劉繇太史慈士燮伝
  • 後漢書・劉虞公孫瓚陶謙列伝
  • 資治通鑑・漢紀五十三

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