1分でわかる忙しい人のための唐彬の紹介
唐彬(とうひん)、字は儒宗(じゅそう)、出身は魯国鄒、生没年(235~294年)
唐彬は魏末期から晋にかけた活躍した将軍である。
幼い頃から弓馬に優れ、走る鹿に追いつくほどの体力を持ち、腕力も群を抜いていた。
大人になると学問にも励み、『易経』を深く学んで多くの学生を教えるほどの学識を身につけた。 郡の下級官吏から昇進を重ね、のちに司馬昭に登用され、中央政府の役職である尚書水部郎を務めた。
西晋の成立後は邺県の長官、弋陽太守を経て、巴東地域の軍を統率する都督に任じられ、広武将軍の号を与えられた。呉との戦いでは王濬の軍の下で各地を攻略し、重要な功績を挙げて上庸県侯に封じられた。さらに幽州では異民族への備えを固め、北方の治安を大きく改善し、漢や魏の統治と比べても並ぶものがないほどの成果をだした。
誤解から罪を問われた時期もあったが無実が判明し、晩年は雍州刺史として教化に努め、元康四年(294年)に六十歳で没した。
唐彬の生涯を徹底解説!魏晋の官吏登用から晋滅呉戦・幽州統治・雍州教化まで
弓馬に秀でた青年期と学問の道への転向
唐彬の父・唐台は太山太守を務めた。いわば地元ではちょっと知られた家筋だが、息子には野生味が勝っていた。
幼い頃から弓と馬の扱いに長け、狩猟を好み、身の丈は八尺。走る鹿に追いつく脚力に、人を超えた腕力まで備えていた。
規律や格式にはさほど頓着せず、大雑把なところもあったが、そんな彼が抱えていたのは国家を動かす度量も持っていた。
そんなある日、血気盛んな武骨青年が本に目覚める。
唐彬は突如として学問へと関心を移し、経書や史書に没頭し、とくに『易経』に詳しかった。
師に就いて学を修めると、今度は教える側へ回る。すると、彼の講義を聞きに門人が次々と集まり、いつの間にかその数は常時数百人となったという。
かつて鹿を追っていた男が、今や人を惹きつけて離さぬ学問の狩人と化していた。
初期の官吏と王沈への献策
唐彬は郡の門下掾として仕え、主簿に昇進した。 刺史の王沈が参佐を集めて「呉への備え」をテーマに大論議を始めたとき、チャンスが訪れる。
このとき唐彬は譙郡主簿の張惲と共に、「呉は攻め落とせる」と断言する。王沈はその意見に耳を傾けた。
そして今度は「呉など攻められぬ」と反論する他の官僚たちと、舌戦させた。
唐彬は、理路整然、事実を積み重ね、相手の矛盾を突き、情熱で圧倒し、反論した者たちは次々と黙りこみ、王沈も「こいつ、只者ではないな」と感心したとかしないとか。
その後は、郡に戻れば功曹に昇進し、孝廉に挙げられ、州に召されて再び主簿、さらに別駕へと累進する。
彼は忠実で謙虚、公平で妥協しない。あざとい自己アピールなど一切せず、ただ必要なときに必要なことをする。
誰かの顔色ではなく、現場の困窮に目を向け、救済策を惜しみなく献じた。
相府の政務会議にも使者として派遣され、その場には錚々たる俊才たちが顔を揃えていた。しかし唐彬の一言が場を静め、全員が一目置いた。
彼らは司馬昭に掾属として推挙したというのも納得である。
司馬昭の補佐官任官と評価
司馬昭は唐彬を掾属(補佐官)に任じようと考え、参軍の孔顥に意見を求めた。ところが孔顥は、その才能を妬んで黙り込んだ。
すると、同席していた陳騫が「唐彬という人物は、私などより遥かに優れています」と唐彬を強く推す。
これを聞いた司馬昭は微笑を浮かべて言った。「そなたのような者ですら得がたい。優劣などで測るべきではない」と返し、唐彬を鎧曹属に任じた。
あるとき司馬昭が、「どういう志で官に出仕したのか」と尋ねると、唐彬はこう答えた。
「我が家は貧しかったが、粗末な環境でも学問を怠らず、古人の行いを手本として自らを律し、言動に乱れがないよう努めてまいりました。誰からも怨まれぬよう、慎みを持って過ごしてまいりました」
その返答を聞いた司馬昭は「世評に違わぬ人物である」と評した。
後日、司馬昭は孔顥に対し、「賢人の登用を妨げたこと、これは過ちである」とたしなめたという。
人材を用いる目がなければ、出世の場も閉ざされる。孔顥にとっては、耳の痛い忠告だったに違いない。
蜀平定後の鄧艾の調査
景元五年(264年)、蜀征伐の混乱で鍾会が反乱を起こし、鄧艾がその中で誅殺される事件が起きた。
司馬昭は、長く隴右を守って人心を得ていた鄧艾の死が辺境に動揺をもたらすことを危惧し、密かに唐彬を派遣して実情を探らせた。
唐彬の報告はこうである。「鄧艾が功に酔って他人の言葉を聞かず、気に入らぬ部下を罵倒して人望を失ったと報告した。礼も失われ、民は酷使され、死んでも惜しまれないほど嫌われていたという。さらに諸軍はすでに到着しており、鎮圧に支障はない」は冷静に報告している。
西晋成立後の官歴
西晋が成立して唐彬は尚書水部郎に任じられる。 泰始初年(266年)には関内侯の爵位まで授かる。
続いて鄴県の長官に就いたとき。着任からわずか一ヶ月で礼制を整え、住民の生活を安定させてしまった。
その後、弋陽太守に転じてからも、禁令を整えて秩序を確立する。しかし母の喪に服すため、あっさりとその職を辞する。名声よりも孝を選ぶその姿勢に、周囲の者は舌を巻いた。
一方、朝廷ではまたしても唐彬の名が取り沙汰されていた。益州が呉と国境を接しており、監軍の空席を埋める必要があった。候補者は唐彬と武陵太守・楊宗であった。
武帝・司馬炎が「どちらを起用すべきか」と、散騎常侍の文立に意見を求めた。すると文立は「唐彬は財を好み、楊宗は酒を好む」と答えた。
この曖昧な評価に、帝は少し考えた末に「財欲は抑えられるが酒癖は改めにくい」と判断し、唐彬が選ばれたのであった。
以後、唐彬は詔により巴東の諸軍を監督する立場に就任し、広武将軍の号を与えられる。のち彼が上奏した呉征伐の戦略は司馬炎の方針と合致し、そのまま作戦の骨格として採用された。
呉征伐と戦功争いの回避
咸寧五年(279年)、唐彬は王濬に従って呉征伐に参戦した。彼は先鋒を任され、丹楊監の盛紀を捕らえた。
さらに、要害を押さえつつ囮兵を配置して敵の判断を惑わせ、戦のたびに確実に勝利を重ねていった。西陵や楽郷を攻め落として捕虜を得ると、巴陵や沔口以東の地では、呉兵が恐怖のあまり武器を捨て、上半身裸で降るほどの動揺ぶりを見せた。唐彬の軍はもはや、武力というより威圧だけで人心を制していた。
このとき、唐彬はすでに呉の戦力が尽きかけ、孫皓の降伏も近いことを見抜いていた。そこで建業まで残り二百里という地点で、自ら病を理由に進軍を止めた。あくまで、功を争うつもりはないと示したかったのである。
前に出た者たちは戦利品を奪い合い、後れた者(王渾や周浚)は功を求めて騒ぎ立てたが、唐彬の真意を知る者は皆その慎み深さを称賛した。
戦後、朝廷は唐彬の働きを称えた。呉の侵攻を防いで辺境を守り、蛮越の監督でも治安を維持し、戦役中は病身ながらも指揮にあたり、多数の捕虜と首級を献じたその功績により、右将軍・都督巴東諸軍に任じられた。さらに翊軍校尉に召され、上庸県侯に封じられ、六千戸の食邑と絹六千匹が与えられた。
その後も朝廷ではたびたび意見を求められ、政務にも関わり続けた。唐彬の名は、ただの戦功では終わらず、政治の場でも頼られる存在となっていった。
幽州での北方防衛と長城の復旧
北平に異民族が侵入したことで、唐彬は幽州の防衛責任者に抜擢された。肩書きは、使持節・監幽州諸軍事・護烏丸校尉・右将軍。何重にも肩に乗った役職の重みをものともせず、彼は着任早々に兵を鍛え、警備を固め、農業を奨励して民を養った。恩と威をもって治めるという、お手本のような統治である。
その効果は早くも現れ、鮮卑の大莫廆や擿何らが自らの子を人質として差し出し、朝貢によって服属の意思を示した。唐彬はそれに満足することなく、学問の普及にも励み、荒れた学校を直し、昼夜問わず教えを広めた。
さらには開墾を進めて旧領を千里にわたり回復し、かつて秦が築いた長城の一部までも修復してしまった。温城から碣石まで、山や谷に沿って三千里、烽火台が互いに見渡せるよう配置されたその警備線は、犬が吠える隙さえ許さなかったという。
これは歴代の漢や魏の統治と比べても並ぶものがないほどの成果であったという。
だが栄光の裏に、思わぬ落とし穴があった。幽州の安定ぶりに脅威を感じたのか、鮮卑の諸部族はついに大莫廆を殺害してしまう。唐彬はこれを知ると、彼を殺した部族を討つべきと判断したが、いちいち朝廷の返事を待っていては、敵は雲散霧消してしまうだろうと踏んだ。
唐彬は独断で冀州と幽州の車や牛を徴発し、出兵の準備を整えた。しかしこれを見ていた参軍の許祗が、しれっと密告する。詔が下り、唐彬は御史に逮捕されて檻車で廷尉へ送られるという、何とも後味の悪い展開になった。
幸い調査の結果、私利私欲は一切なかったことが判明し、無罪放免となった。
その潔白と功績を慕った人々は、生きているうちから彼の碑を建て、その徳を称えた。存命中に石碑が建つのは、まず間違いなく本物の証である。
雍州刺史としての教化と晩年
元康初年(291年)、唐彬は使持節・前将軍・西戎校尉を兼ねて雍州刺史として赴任した。着任に先立ち、雍州には名士が多く、彼らを蔑ろにしては州の気脈が保てないと述べ、皇甫申叔・厳舒龍・姜茂時・梁子遠ら徳望ある人物を迎える意向を示した。唐彬は彼らを官職で縛るつもりはなく、幅巾のまま会って礼を尽くし、ただ道義について語り合えばよいと郡国に命じた。
この教令に応じて四人はいずれも訪れ、唐彬は深い敬意をもってもてなし、互いに礼を尽くした。このあたりに、権威ではなく人望で治めようとする唐彬の姿勢が表れている。
元康四年(294年)に唐彬は任地で亡くなり、六十年の生涯を閉じた。諡は襄とされ、絹二百匹と金二十万が贈られた。栄達にも退隠にも偏らず、最後まで穏やかな統治者であったことがうかがえる。
死後は長子が広陵太守に任じられ、次子の唐熙は西晋で太常丞となり、前凉の武王・張軌の娘婿となった。末子の唐岐も征虜司馬に抜擢された。派手な家運ではないが、唐彬の名は家族の中で静かに受け継がれていった。
唐彬の評価
呉征伐において最も大きな功績を挙げたのは王渾と王濬の二人だったが、互いにその功を競い合ったことで、かえって朝廷を混乱させてしまったという。
そのなかで唐彬は、戦局を冷静に見極め、呉軍の力が尽き、孫皓の降伏も間近であると判断していた。そこで、あえて病を理由に進軍を控え、功を奪い合う場から身を引いた。
史書は、この判断を「争いを避け、終局を冷静に処理した見事な対応であった」と高く評価している。
また伝記には、唐彬は「細かい規律にこだわらない人物」とされているが、実際には立派な節度と自制心を備えた人物であったと結ばれている。
若い頃には東海の閻徳に学び、数多くの門弟の中でもただ一人、国家を託せる人物だと太鼓判を押されていた。唐彬が出世したときには、すでに師は世を去っていたが、その恩を忘れず、自ら碑を建ててその徳を弔った。
功に飛びつかず、筋を通したこの記述が唐彬という人物の、何より雄弁な評価であった。
参考文献
- 晋書 : 列傳第十二 王渾 王濬 唐彬 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷080 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷081 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:唐彬 – Wikipedia
唐彬のFAQ
唐彬の字(あざな)は?
字は儒宗(じゅそう)です。
唐彬はどんな人物?
唐彬は剛直で公正、細事にこだわらない度量を持つ人物でした。
唐彬の最後はどうなった?
元康四年(294年)に雍州刺史の任地で亡くなり、諡は襄が贈られました。
唐彬は誰に仕えた?
魏から西晋にかけて仕え、司馬昭、司馬炎に仕えました。
唐彬にまつわるエピソードは?
呉征伐で戦攻争いを避けるため進軍を遅らせ、公平を示して高く評価されました。






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