譙周:北伐に反対した仇国論と劉禅に説いた魏への降伏【すぐわかる要約付き】

譙周

1分でわかる忙しい人のための譙周(しょうしゅう)の紹介

譙周(しょうしゅう)、字は允南(いんなん)、出身は巴西西充国、生没年(199~270年)

譙周は蜀で学問を司った知識人で、経書に精通し、六経を深く学んだ人物である。
幼い頃に父を失い、裕福ではなかったが、学問に打ち込み、読書と研究に熱中した。
諸葛亮に才能を認められて勧学従事となり、その後は太子僕、中散大夫、光禄大夫へと昇進した。
劉禅に対しては度々意見書を提出し、政治の乱れや国力の疲弊を憂えた。
延熙年間の繰り返される北伐に異議を唱えて「仇国論」を著し、景耀六年の魏の侵攻時には降伏を主張して劉氏一族の保全に貢献した。
蜀の滅亡後は晋から陽城亭侯に封じられ、晩年まで学者として尊重された。
著作は「法訓」「五経論」「古史考」など百以上にのぼり、弟子には陳寿、羅憲、文立などがいる。

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譙周の生涯を徹底解説!姜維の北伐に反対し仇国論を記し、劉禅に魏への降伏を進言した陳寿の師匠

譙周の出自と若年期の評価

譙周は巴西の生まれで、父・譙カンは後漢の学界でも指折りの知識人として知られ、尚書を中心に諸経や図緯に通じていた。州や郡から何度も招かれても頑なに応じず、それでも師友従事として礼遇されるほどの人物であったという。

幼い譙周はそんな父を早くに失い、母と兄のもとで慎ましく暮らした。 家は貧しく、産業には関心を示さず、それでも典籍を読むたびに一人で嬉しそうに笑い、寝食すら忘れるほど没頭した姿は、傍から見れば少し心配になるほどである。
六経の研鑽を深め、書札にも巧みで、天文にもある程度通じていたが深入りせず、諸子の文章にも心を寄せなかった。

若い頃の譙周は、その学識にもかかわらず周囲からは目立たず、どこにでもいそうな若者、くらいの評価しか得られなかった。
そんな中で、ただ一人、楊戯だけは譙周の素質を見抜いていた。後世の誰が追い抜こうとしても、この青年には到底及ばないだろうと語った。 周囲が気づかずに通り過ぎる中、見る人だけは見ていた。

諸葛亮と初謁見と弔問

蜀の丞相である諸葛亮が益州牧も兼任していた頃、譙周という男がその知識を評価されて召し出され、勧学従事に任命された。
身長はおよそ八尺、つまり180センチに迫るほどにもかかわらず、見た目は朴訥で、派手さとは無縁で話し上手でもなかった。

『蜀記』によると、初めて諸葛亮に拝謁したとき、側近たちは思わず吹き出したという。なんという失礼な話かと思いきや、その場にいた諸葛亮自身すらも笑いを堪えることができなかったとある。
拝謁を終えた譙周が退出すると、役人が「笑った者を処罰いたしますか」とお伺いを立てた。ところが諸葛亮は、「いや、私でさえ笑いをこらえられなかったのだから、仕方あるまい」と返したという。
笑われたというエピソードだけ切り取ると哀れな逸話のようだが、それでも譙周は諸葛亮に登用された。

建興十二年(234年)、諸葛亮が五丈原で病没したとき、譙周はその訃報を自宅で聞き、すぐさま弔問に向かった。その後「奔喪禁止」の詔が発せられる。
これは諸葛亮の死によって蜀の政情が不安定になるのを恐れた対策だったが、譙周はその前に現地に到達することができた。

劉禅期の官歴と諫言

諸葛亮が五丈原に倒れたのち、蜀の実務を担うのは蔣琬となり大将軍となった。譙周もその流れのなかで典学従事へと任を移された。
この役職は、州内の学術や教育を束ねる、いわば蜀の知の番頭である。

延熙元年(238年)、後主劉禅が太子・劉璿を立てると、譙周はその教育係として太子僕に任じられる。そしてしばらくしてから、家令という役職へと異動し、家庭教師から家庭運営まで担当した。

この頃、劉禅は外に出て見物を楽しむ機会が増え、やたらと音楽に力を入れ始めた。諸葛亮亡き後「自由な青春」でも取り戻しているかのように、楽しげな日々を送っていた。

当然ながら、譙周は苦々しく思った。彼は上疏を通じて後主に意見する。
「王莽の末路は奢侈の果てであり、光武帝の民心掌握は節倹と規律によるもの。先帝(劉備)の遺志が未だ果たされていない中で、祭祀を怠り、遊びに興じ、楽官を増やし、後宮を膨らませるのはいかがなものか」
こんなふうにしてて、後世にどんな手本を残すおつもりか?と、遠回しなようでいて、実に痛烈な指摘である。

ただ、劉禅が言うことを聞いたかどうかは分かっていない。

仇国論に示された政治・軍事観

費禕が凶刃に倒れ、姜維が大将軍の座に就いたあと、出兵路線に切り替えられ、毎年のように漢中から中原へ兵を出し続けた結果、民は疲れ、財は尽き、畑にすら人の影が見えなくなりつつあった。
この状況に、さすがの譙周も危機感を抱いたのだろう。彼は尚書令・陳祗とともに軍事政策の是非を論じた。最終的に譙周は一歩引く形になり、その議論を『仇国論』としてまとめた。

この論文の中で譙周は、古今の史例を引いて語る。 周の文王が武力ではなく政治によって覇権を築いたこと、越王勾践が忍耐と内政の徹底で呉を討ったこと。
その一方で、秦が法と力に頼りすぎた末に崩壊したことや、項羽と劉邦の抗争が如何に国を疲弊させたか。 その全てが、軍事過多のリスクを裏付ける材料として挙げられている。

譙周の主張はシンプルだった。
「戦を重ねれば国は疲れる。民が疲れているのに、なおも戦を欲すれば、国家の基盤が崩れるのは時間の問題である。彼はまた、小利を追って軽挙妄動することの愚かさを指摘し、戦を起こすならば「軍の数を重ねるな、民の力を測れ」と説いた。」
軍事力そのものを否定したわけではないが、それを行使するタイミングと規模は、政治的熟慮の上に成り立つべきだという信念がうかがえる。

この『仇国論』が発表された頃、すでに蜀は疲労の色が濃かった。
どれだけ姜維が戦上手であっても、兵を送り出すにも米がいる、人手がいる、気力がいる。まして負け続けた姜維のせいで、それらの全てが底をつきかけていた。 譙周の論は単なる知識人の評論ではない。
もはや「誰かが言わなければ、国が終わる」というほどに緊張した局面で放たれた、渾身の諫言であった。

鄧艾侵攻下の朝議と降魏論

景耀六年(263年)の冬、魏の鄧艾が蜀へ侵攻。しかも選んだルートは陰平を渡り江由からの強行突破という意表を突く奇襲だった。
まさかそんな山越えルートを来るとは思っていなかった、江由の守将の馬邈はすぐさま降伏した。 綿竹で諸葛瞻、諸葛尚親子が迎撃に出たが大敗し戦死する。

鄧艾が迫ったという報が届くや否や、民は山野へ逃げ込み、国家の体をなしていなかった。
そんな中、劉禅は群臣を集めて対策を緊急協議するも、「蜀と呉は同盟しているから、呉へ逃避しよう」という意見や、「南中七郡は地勢が険しいため、南へ移って立てこもるべきだ」という絵空事であった。

ここで光禄大夫の譙周が立ち上がり、まず「呉への逃避」案をバッサリ否定する。
「他国に逃れて帝位を保てた例など古来ない。呉に行けば臣下になる。それは保身ではなく没落だ」と切って捨てた。さらに、「呉が魏を飲み込む未来はないが、魏が呉を飲み込む未来はある。弱い者に二度屈するより、強い者に一度従うべきだ」とも述べた。

続いて「南中防衛案」にも冷や水を浴びせる。
「南中は普段から反乱の常連地帯で、諸葛亮の南征でようやく手懐けた地域に、いま逃げ込んでも食料がなく、そのうえ反乱まで再発したら、どうするつもりか。 邯鄲で王郎が僭号したとき、光武帝が退避を考えたが、邳肜が『民は家族を捨ててまで君に従うはずがない』と諫めた結果、光武帝は踏みとどまり、勝利を収めたという。」
逃げれば民心は消える。今こそ逃げるときではない。と諭したのである。

当然ながら、群臣の中には「鄧艾は降伏を受け入れないのでは」と疑う者もいた。だが譙周はそれをも論破する。
「呉が健在である限り、劉禅を虐げれば呉の士気を上げてしまう。ゆえに、鄧艾は必ず礼遇せざるを得ない」と政治的現実を突いた。
極めつけは、「もし魏が陛下(劉禅)に封地を与えぬなら、私が洛陽へ行って義理と道理をもって戦う」とまで言い切る剛胆ぶりで、これには誰も反論できなかった。

最終的に、譙周の意見が採用され、劉禅は魏に降伏する。 譙周は沈みゆく蜀という巨船の中で、最後まで羅針盤の役目を果たした。
その言葉があったからこそ、劉氏一族は命を長らえ、血が流れることなく幕は引かれた。

蜀滅亡後の待遇と晩年

蜀が魏に降伏したのち、譙周はその判断と進言の功績を評価され、司馬昭によって陽城亭侯に封じられる。
この時点で既に譙周は「亡国の文士」という立場だったが、その才を惜しみ、何度も中央への召還を試みた。

一度は漢中まで赴いたが、途中で病を得てやむなく蜀へ引き返す。
その帰郷後、咸熙二年(265年)の夏、洛陽から戻っていた旧知の文立が彼を訪ねた。病床の譙周は言葉がままならず、筆をとって「典午忽兮,月酉没兮」と記した。
訳すならば、「司馬氏の天下は忽然と終わり、八月に没するだろう」 で、その言葉通り、同年八月に司馬昭は死去した。

その後も晋朝は彼を何度も召し出し、泰始三年(267年)には輿に乗せて洛陽へ向かわせた。政務に就くことは叶わなかったが、騎都尉に任命される。
それでも譙周は「自分には功績がない」として爵位を辞退しようとしたが、許されなかった。

泰始五年(269年)、譙周は郡の中正を務め、任を終えると郷里へ戻ることを希望する。
その道中、同行者に「私はもう七十を超え、孔子や劉向・揚雄と同じ年に近づいている。来年までは持たないだろう」と語ったという。
死の予感を淡々と口にする様は、悟りにも似ていたのかもしれない。

泰始六年(270年)の冬、散騎常侍への任命を受けるも、病は重くついにその職に就くことなくこの世を去る。
死後、朝廷からは衣や金銭が贈られたが、譙周は生前に「贈り物を身につけるな」と遺言していたため、家族はそれらを返納しする。 当時の慣習として、官人が他郡で亡くなった場合でも遺体を郷里へ戻して埋葬するのが通例とされていた。
譙周もまた、自らの遺骸が故郷へと運ばれることを前提にしていたのだろう。葬儀には軽い棺を用いるよう指示し、険しい山道を越えての運搬に備えていた。
それは、死してなお家に帰ることを大事にした、最後の心配りでもあった。

著述と評価

譙周は生前、《法訓》《五経論》《古史考》など百篇を超える著作を遺し、散らばっていた蜀の学問的伝承を一つの体系にまとめ上げた。
益州刺史の董榮はその学徳を高く評価し、州学に譙周の肖像を掲げ、従事の李通には頌文を作らせたという。

譙周の門下からは多くの人材が輩出された。『三国志』の陳寿、呉の侵攻から永安を守り抜いた羅憲、晋で名を成した文立、そして清談家として知られる李密など、いずれも歴史の場面に顔を出すような面々である。
譙周の学風と教えは、蜀という国が滅びた後も継承されていった。

弟子である陳寿は『三国志』の中で、「言論は道理に通じ、学識は深く広い。董仲舒や揚雄に並ぶ大儒である」と評している。

だが一方で、異なる視点もある。張璠は「譙周が劉禅に降伏を勧めたことは、むしろ危険だった。
もしも劉禅が温厚でなければ、あの場で譙周が処刑されていたかもしれない。そんな性急な進言は、命と国家を同時に危険にさらす恐れがあった。」」として疑義を呈した。

しかし、この批判には首をかしげたくなる。譙周は長年にわたり劉禅に仕え、彼の性格を熟知していた立場にある。それを見誤って無謀な進言をするような人物ならば、そもそも歴史に名は残らない。
張璠の論は、もしもの仮定に依拠した「外野席からの評論」に過ぎないだろう。

参考文献

譙周のFAQ

譙周の字(あざな)は?

譙周の字は允南(いんなん)です。

譙周はどんな人物?

譙周は経学に精通した大儒であり、誠実で質朴な性格の人物です。

譙周の最後はどうなった?

泰始六年(270年)の冬に亡くなりました。

譙周は誰に仕えた?

蜀の後主劉禅、蜀滅亡後は晋の司馬炎に仕えました。

譙周にまつわるエピソードは?

景耀六年の魏軍侵攻時に降魏論を唱え、劉氏宗族の保全に寄与したことが代表的です。

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