陳祗:劉禅に寵愛され、姜維の北伐を支えた蜀の最後の名官僚【すぐわかる要約付き】

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1分でわかる忙しい人のための陳祗(ちんし)の紹介

陳祗(ちんし)、字は奉宗(ほうそう)、出身は汝南郡、生没年(?~259年)

陳祗は幼くして孤児となり、外叔公の許靖に養育された。若年で名声があり、選曹郎に任ぜられた人物であった。占星、卜筮、相術に通じ、多芸多才であり、費禕も驚く才能を持っていた。

延熙九年(246年)に董允が死去すると、費禕の推薦で侍中となり宮中事務を掌握した。この頃から宦官黄皓と密接に結びつき、朝政への影響力を強めた。

延熙十四年(251年)には、陳祗が侍中のまま尚書令を兼務し、鎮軍将軍を加号された。
延熙十六年(253年)に費禕が暗殺されると、大将軍になった姜維は北伐を主導したが、陳祗が朝廷内にあって補給や宮中統括を担い、劉禅の信任はむしろ陳祗へ集中した。

景耀二年(259年)に死去した。

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陳祗の生涯を徹底解説!黄皓と繋がるも費禕亡き後の政務を担い姜維の北伐を支援した蜀最後の名官僚

許靖に育てられた幼少期

陳祗は幼い頃に親を失い、外叔公(母の伯父)にあたる許靖に引き取られた。許靖は後漢末から蜀で名士として知られ、地元の大物扱いだった人物だ。そんな家に育てられた時点で、陳祗は若くして名声を得ており、早々に朝廷から選曹郎に任命された。

さらに陳祗本人も、性格がまじめでしっかりしており、人前に出た時の雰囲気も落ち着いていた。おまけに占星や卜筮、相術などにも詳しく、気付けばあれこれ身につける多芸ぶりだった。費禕もその幅広い才能に驚き、素直に評価していたという。

董允死後の昇進と黄皓との結託

延熙九年(246年)に董允が亡くなると、その後を引き継ぐ形で陳祗が侍中に抜擢された。同じタイミングで尚書令には呂乂が入っており、気付けば陳祗は宮中の仕事を仕切る立場に座っていた。

ところが、このあたりから陳祗は宦官の黄皓と近づきはじめる。そこから黄皓が政治に口を出すきっかけが生まれていった。この関係が後になって蜀の内部をややこしくする土台になっていく。

尚書令兼任と権力集中

延熙十四年(251年)に尚書令の呂乂が亡くなると、陳祗はそのまま侍中を続けつつ、さらに尚書令まで兼ねることになった。ついでに鎮軍将軍の称号まで追加され、宮中と政務のどちらにも関わる立場を一気に抱えることになった。

陳祗は劉禅に対しては従順に振る舞い、同時に宦官の黄皓とも手を合わせながら宮中での存在感を強めていった。この頃になると宮中の仕事の多くが陳祗の管轄に入り、朝廷の中での権威も増していった。

姜維北伐期の朝廷運営と諸臣との対立

延熙十六年(253年)に費禕が刺されて亡くなると、蜀は一気に路線変更し、姜維が大将軍となって北伐を主導する方向へ動いた。ところが姜維は外征に出ていることが多く、都に顔を出す時間がとにかく少なかった。その結果、朝廷の仕事や兵站の手配など、国内で動かさないといけない部分は自然と陳祗がまとめる形になり、政務の流れも陳祗の側に集中していった。

延熙二十年(257年)には、譙周が「魏への出兵はやめるべきだ」と朝堂で主張する。理屈としてはもっともだが、戦意高揚が命題のこの時期に、それは水を差す発言だった。 陳祗はこれに真っ向から反対した。二人はその場で強く議論し合い、最終的に譙周は一歩引く形になり、直接諫言ができない状況で、その後『仇国論』を著したとされている。 龐統の子である龐宏は性格がまっすぐで是非をはっきり言う人物だったが、陳祗に対して遠慮のない態度を取ったことで朝廷内での立場を落とし、涪陵太守として在任中にそのまま亡くなった。
気付けば彼に逆らうものは国内にいなくなっていたのである。

景耀元年の死去とその後の影響

景耀二年(259年)に陳祗が亡くなると、劉禅はかなり落ち込んだという。長年そばにいて支えてきた功も大きく、諡号として忠侯が与えられた。さらに子の陳粲には関内侯が与えられ、次子の陳裕は黄門侍郎に任じられている。家としての扱いも丁寧だった。

陳祗は劉禅から深く信頼されていた人物で、宮中でも頼りにされていた。董允が生前に黄皓をしっかり戒めていたため、後になって、劉禅が後に董允をよく思わなくなった背景に、陳祗と黄皓の影響があったされる。

費禕が亡くなったあと、蜀の政務を実際に支え、姜維が北伐を続けられる体制を作ったのは陳祗である。蔣琬や費禕に続く、蜀の後期に見られる最後の有能な官僚だったと言っていい。

参考文献

陳祗のFAQ

陳祗の字は?

陳祗の字は奉宗(ほうそう)です。

陳祗はどんな人物?

多才で占星や卜筮に通じ、厳格で自信に満ちており威儀があり、宮中で強い権力を持っていました。

陳祗の最後はどうなった?

景耀元年(259年)に死去し、劉禅から忠侯の諡号を追贈されました。
※華陽國志を参照

陳祗は誰に仕えた?

蜀漢の後主劉禅に仕え、侍中や尚書令を務めました。

陳祗にまつわるエピソードは?

譙周と激論して『仇国論』を書かせる契機となったことや、龐宏を抑圧したことが知られています。

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