黄皓:佞臣として朝廷腐敗を招き蜀を滅亡へと導いた宦官【すぐわかる要約付き】

黄皓

1分でわかる忙しい人のための黄皓(こうこう)の紹介

黄皓(こうこう)、字は不明、出身は不明、生没年(?~?)

黄皓は蜀に仕えた宦官で、劉禅に寵愛され、後期蜀政権において強い影響力を持った人物である。

董允が在世中は強く抑え込まれていたが、延熙九年(246年)に董允が死去すると、侍中陳祗の後押しを受けて政務に関与するようになった。

景耀元年(258年)、陳祗が死去すると、黄皓は中常侍と奉車都尉に進み、完全に専権化した。この過程で多くの将臣と軋轢を生じさせ、羅憲の左遷や劉永の十年間の朝見停止など、朝廷内部の人事にも深い影響を及ぼした。

景耀六年(263年)には鬼巫の占いを根拠に魏軍の侵攻を隠し、諸葛瞻らの戦死を含む蜀滅亡の一因となった。滅亡後は鄧艾により一度拘束されるも賄賂で死を免れ、以後の消息は不明である。

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黄皓の生涯を徹底解説!劉禅政権で董允亡き後に進んだ専権と朝廷腐敗、蜀の滅亡後の黄皓の行方

董允存命期の抑制と陳祗との政権掌握

宦官の黄皓は劉禅に深く寵愛されていたが、董允が健在なうちは抑え込まれていた。
上では皇帝に諫言し、下では黄皓の振る舞いに目を光らせる董允の姿は、まるで王朝に最後の秩序をもたらす防波堤のようでもあった。
黄皓もさすがに手出しができず、官位は黄門丞にとどまったまま、牙を研ぐ時間だけが静かに過ぎていった。

しかし、延熙九年(246年)、董允の死をもって風向きは一変する。
後を継いで侍中となった陳祗が、劉禅の信任を背景に黄皓を朝政の中枢へと引き入れた。
慎重さを欠いたわけではないのだろうが、ふたりは互いを補完し合うように政務を掌握し、これまでの抑制は音を立てて崩れていった。

劉禅が次第に董允の忠言を遠ざけるようになった背景には、陳祗が劉禅に媚びて取り入ったことと、黄皓による讒言が絶え間なく繰り返されたことがあるとされる。
つまり、劉禅が董允を「自らの立場を貶める者」として誤解し、次第に怨みの念を募らせていった構図である。

陳祗死後の専権化と官位昇進

景耀二年(259年)、黄皓と結託しながらも国政についてはまともに行っていた陳祗が世を去った。黄皓の背後にあった最後のブレーキが外れ、ここからは黄皓ひとりが朝政を牛耳る構図があからさまになっていく。

同年、黄皓は黄門令から中常侍に昇進する。さらには奉車都尉も兼ねるなど、目に見える形でその権勢を高めていった。

朝廷内の人事操作と対立関係

黄皓が朝政の中枢を牛耳るようになると、その周囲では「付き合い方」ひとつで人事が決まるようになっていった。

尚書令の樊建は黄皓との関係を意図的に避けていた。
「礼儀的な付き合い」すら持たず、一定の距離を守り続けたことは、逆に評価すべき胆力だったのかもしれない。
さらに面白いのが郤正である。黄皓と同じ官庁に三十年ほど勤めながら、一度も取り立てられず、一度も咎められなかったという。
俸給は六百石のままだったが、愛されもせず、憎まれもせず、影のように生き延びた稀有な人物である。

羅憲も黄皓に取り入ろうとしなかったらしい。
案の定、黄皓はその姿勢を面白く思わず、劉禅の意向を動かして巴東太守へ栄転という名の左遷を敢行した。
右大将軍の閻宇は、体面を保ちつつも黄皓と協調して動いていたと見られる。 しかし、閻宇はただのイエスマンではなかった。 当時、魏の圧迫に備えるため呉の驃騎将軍・施績の要請で閻宇は白帝城に駐屯していた。 左遷された羅憲の能力を見抜き、自らの副手として領軍に任じている。

劉備の子の甘陵王・劉永は、黄皓をあからさまに嫌っていた。
その結果、黄皓は劉禅に讒言し、劉永は十年以上も朝見を許されないという仕打ちを受けた。
その間、彼は政治の表舞台から姿を消し、宮中の緊張感は一層深まっていく。
この長期排除こそ、黄皓が後主の意思を操れるほどの影響力を持っていた証であり、蜀の後期政権における断絶と分断の象徴でもあった。

姜維への圧迫と対立激化

景耀五年(262年)、姜維は黄皓の専横を憂い、ついに劉禅へ上奏を行った。
内容は明確で、「黄皓を誅して国政を正すべし。」
だが、返ってきたのは「黄皓は小役人にすぎぬ。気にする必要はない」という拒絶であった。
姜維は、すでに宮中で黄皓の影響力が確固たるものであることを悟ると、自分の発言が問題視されれば危険だと感じその場を辞した。

その後、劉禅は一転して黄皓を呼び出し、姜維に謝罪させたという。
だがその謝罪が、信頼を修復するものではなかったのは言うまでもない。
姜維は安全を確保するため、軍務を名目に沓中へ退き、成都との距離を取った。
対立の矛先がこれ以上鋭くなるのを避けた形ではあったが、それは同時に政権中枢からの後退でもあった。

この頃、黄皓は右大将軍の閻宇と親しく、その支援を得て姜維を排除しようと目論んでいた。
軍事の重鎮をすげ替える策動は着々と進んでおり、姜維は事実上、都へ戻ることさえかなわなくなっていく。
黄皓の影が濃くなるほどに、蜀の政は静かに病んでいった。

蜀滅亡と黄皓の最後

景耀六年(263年)、姜維は劉禅に上表を行った。
「鍾会が関中で兵を整えております。いずれこちらへ向かうとの情報があります。張翼廖化を派遣し、陽安関口と陰平橋頭を守るべきです」
ごく真っ当な防衛策である。だが、このときも黄皓は巫術に頼り、「魏軍は来ません」と断言。
劉禅はこれを信じ、姜維の提案を退けた。

その結果、朝廷の文武百官の誰ひとりとして事態を把握できず、備えは進まぬまま時が過ぎていった。
景耀六年(263年)、姜維の予想通り魏の蜀征伐が始まる。姜維が北を守るものの、山岳を抜けた魏の鄧艾の前に、蜀軍はなすすべもなく崩され成都に迫る。

ついに、劉禅は譙周の勧めに従い降伏し、蜀は滅亡する。
鄧艾は黄皓が悪の権化と聞き、殺すよう命じた。黄皓は危機を悟り、鄧艾の側近に賄賂を贈って助命を懇願する。
結果として命は助かったが、その後の消息は記録に残っていない。
かつての権臣は、歴史の舞台から音もなく姿を消していった。

黄皓の評価

諸葛瞻は敗戦のさなか、「宮中で黄皓を排除せず、外では姜維を抑えられず、前線では江油を守れなかった。自分には三つの罪があり、どの面下げて戻れるのか」と述べ、黄皓を除かなかったことを重大な過失とした。諸葛尚も「我々父子は国家から大きな恩を受けていながら、早く黄皓を斬らなかったことで国家は辱められ、人民は災いを受けた。生きていて何の意味があるのか」と嘆き、そのまま魏軍へ突入して戦死した。

『三国志』の陳寿は、黄皓が中常侍や奉車都尉へ昇進して権力を操り、最終的に国を覆す結果を招いたと記し、蜀漢滅亡の一因として厳しく批判している。
とはいえ、黄皓を重用し続けたのは他ならぬ劉禅自身である。
進言を退け、忠臣を遠ざけ、巫術に耳を傾けた時点で、すでに国の命運は定まっていたともいえるだろう。

参考文献

黄皓のFAQ

黄皓の字(あざな)は?

字は不詳です。

黄皓はどんな人物?

劉禪に寵愛され、後期蜀政権で強い影響力を持った宦官です。

黄皓の最後はどうなった?

蜀滅亡後に鄧艾へ捕らえられますが、賄賂で死を免れ、その後の行方は不明です。

黄皓は誰に仕えた?

蜀の劉禅に仕えました。

黄皓にまつわるエピソードは?

鬼巫に占わせて魏の侵攻を否定させ、軍事判断を誤らせた話が知られています。

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