1分でわかる忙しい人のための張裔の紹介
張裔(ちょうえい)、字は君嗣(くんし)、出身は益州蜀郡成都、生没年(166~230年)
張裔は後漢末から蜀の初期にかけて活躍した政治官僚である。
若くから《公羊春秋》に通じ、史書の学識にも明るかった。
劉璋に抜擢され仕えた。張飛来襲の際には軍を率いて迎撃するが敗退した。劉備との交渉使を務め、蜀の平定に関与した。巴郡太守や司金中郎将として軍需生産を担い、のち益州太守に任命されたが、南方勢力の雍闓に拘束され呉へ送られた。
呉で数年を過ごしたのち、孫権との問答で機知を示し蜀へ帰国した。帰国後は諸葛亮の参軍と治中従事を歴任し、長史として政務を補佐した。公平な賞罰を重んじ、多くの人から敬意を受けた人物である。また友人楊恭の遺孤を養い、家を分けて共に暮らすなど義に篤く、人倫に優れた行動で知られた。
建興八年(230年)に没し、その品行と才覚は陳寿にも高く評価された。
張裔を徹底解説!蜀漢前期の政治と外交、諸葛亮政権での実務と評価
劉璋政権から劉備配下になる
張裔はもともと学識の深い男で、『公羊春秋』を学んだだけでなく、『史記』や『漢書』にも通じていた。汝南から許文休(許靖)が蜀へ入った際、彼の才知と応対の妙を見て「鍾繇に並ぶ中原の名士」と評しており、その学識と声望は並外れていた。
こうした声望を背景に、張裔は劉璋政権下で孝廉に推挙され、魚復長として一地方を治めた。のちに州に戻り従事となった彼は、帳下司馬へと転じた。
やがて建安十九年(214年)、張飛が荊州より墊江を経て益州へと侵攻してくる。その際、劉璋は張裔に兵を託し、徳陽陌にて迎撃を命じる。しかし、張裔の軍は形勢不利となり、やむなく成都へ退却するに至った。
やがて建安十九年(214年)、張飛が荊州から墊江を通って益州へと侵攻してくる。 慌てた劉璋は、張裔に兵を渡して、「徳陽陌で迎撃してこい」という無茶ぶりを命じる。しかし、相手は天下の猛将・張飛である。 案の定、戦況は傾き、張裔は形勢不利と見て「これはダメだ」と成都に撤退する。
この敗戦後、張裔は劉璋の命により劉備のもとへ使者として遣わされる。劉備は劉璋の意を汲み、蜀の民を安んじる旨を述べた。張裔が成都へ戻ったときには、城門が開かれ、ついに劉備軍が入城する運びとなったのである。
こうして劉備の配下となった張裔は、巴郡太守に任じられ、さらに司金中郎将として軍農具の製作管理を一任される。
益州太守就任と呉への送還
当時、益州郡の太守の正昂が殺されてしまい郡は荒れていた。南方では耆率の雍闓が地元の豪族として地元民の信頼を得ており、孫権とも通じていた。
そんな混乱の地に、張裔が益州太守として赴任することになった。辞令片手に颯爽と向かったものの、雍闓は「知らん」とばかりに無反応で、あろうことか「神のお告げが来た」と謎の神託を持ち出してくる。
曰く「張裔は瓠(ひさご)の壺のように、外側はつるつる、内側はざらざら。殺すほどじゃないので、呉にでも送っとけ」とのことで、張裔は縄付きで孫権のもとへ出荷される。
高級官僚がまさかの宅配便扱いである。
呉に着いた張裔は、正式な身分もないまま、ひっそりと流浪生活を開始する。なにせ孫権自身が「そんな人来てたの?」というレベルで認知されていなかったのだから仕方がない。
孫権との応対と帰還劇
建興元年(223年)、劉備が白帝城にて崩御した。これを受け、諸葛亮は鄧芝を呉へ派遣し、険悪になっていた蜀と呉の関係修復に動く。
この和平交渉に際し、蜀側から「ついでに張裔も返してくれませんか」と要望が出された。
晴れて帰還が許可されると、その前に孫権との謁見が設けられた。ここで孫権、いきなり際どい雑談を投げかけてくる。
「昔、卓家の未亡人が司馬相如のとこに駆け落ちしたって聞いたけど、それが蜀の風習なのか?」
皮肉混じりのジョークである。
ところが張裔、まったく動じず、むしろ涼しい顔で即答する。
「その卓家の寡婦は、朱買臣の妻よりもよほど賢明かと存じます」
ピシャリと返された孫権、やや目を細め張裔の切り返しを噛みしめた。
ここで一応、背景解説。朱買臣は前漢の人物で、貧しさゆえに妻に捨てられるが、のちに出世して太守となる。すると、ちゃっかり元妻が復縁を求めてくる。朱買臣はこれを「ノーセンキュー」ときっぱり拒絶。
対して卓文君は、無名時代の司馬相如の才を見抜き、自ら駆け落ちした女性である。張裔の言わんとしたのは、「見る目がある女は卓文君。損得で動く女は朱買臣の元妻」つまり、比べるまでもない。
孫権、負けじと畳みかける。「まあ、蜀に戻ったらそれなりに出世もするだろう。そのとき、わしにはどう恩を返す?」
ここでも張裔は迷いなく答える。「私は罪を負って帰る身。処分は国に委ねます。もし命が助かれば、五十八歳までの人生は父母の賜物、それ以降は大王(=孫権)からいただいた命として、深く感謝申し上げます」
完全に模範解答である。
この応答に、さすがの孫権もほほ笑みを浮かべ、「こやつ、ただ者ではないな」と内心感服した様子を見せた。
張裔は呉の宮廷を後にするが、その内心は荒れていた。「やっぱりあそこで、もっと阿呆のふりをしておけばよかったか……」
孫権の目を完全には欺けなかったことを悔やみ、帰路の船では「倍速モード」で出航する。
この焦りが功を奏し、孫権が追手を出したときには、すでに張裔の船は永安の国境を越えて数十里も入った地点に達しており、追手は追いつくことができなかった。
蜀での諸葛亮政権補佐と長史職務の実務
張裔が蜀へ帰還すると、諸葛亮から参軍に任命され、さらに府の実務をまるごと任される。おまけに益州の治中従事まで兼務させられる。
建興五年(227年)、諸葛亮が漢中に駐屯すると、張裔は都に残って射声校尉・留府長史となる。 彼は諸葛亮の行政姿勢について、こう語っている。
「賞は遠くの者にも届き、罰は身内にも容赦なし。功績なき者に爵は与えられず、勢いある者でも罪から逃れられぬ。だから皆が本気で死に物狂いに働くのだ」
これは「ブラックだけど納得できる職場」とでも言いたげである。
建興七年(229年)、張裔は北へ向かい、漢中にいる諸葛亮のもとを訪ねる。道中、彼を見送った人々は数百人、車馬が道路を埋め尽くしたとある。
だが、張裔はその裏側の苦労を友人に書簡を送り「朝から晩まで客の応対で休むヒマもない。皆は肩書きの「丞相府の長史」をありがたがってくれるけど、人疲れて死にそう」と述べている。
要するにグチである。
張裔の話しぶりは速く鋭かった。この手紙も張裔特有の早口&鋭いツッコミ調で書かれていたらしく、まさに彼らしい一通であった。
ただし裴松之はこれを冷静に見て、「いやいや、手紙は後から直せるから即興の口調とは別でしょ」とやや辛口のコメントを残している。
張裔の評価
張裔は若いころ、犍為出身の楊恭と深い親交があった。楊恭が早くに亡くなると、張裔は遺された幼い子を引き取り、家を分けてともに生活し、楊恭の母を実母のように敬って支え続けた。
後にその子が成人すると、張裔は彼のために妻を迎えさせ、田地や宅地を用意し、財産を整えて一つの家として独立させた。また、旧友の家族や困窮した一族を助けることにも尽力し、その行動は義に厚いものとして広く知られた。
晩年の張裔は、輔漢将軍に任じられたうえで、長史の職務も引き続き務めた。建興八年(230年)にこの世を去り、子の張毣がそのあとを継いだ。張毣は三郡の太守や監軍を歴任し、その子・張郁は太子中庶子の官に就いている。
『三国志』の著者・陳寿は、張裔を霍峻や王連らと並び称し、応対にすぐれ、行動が機敏な人物であったと評価している。
参考文献
- 三國志 : 蜀書十一 : 張裔傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書十五 : 鄧芝傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻071 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:張裔 – Wikipedia
張裔のFAQ
張裔の字(あざな)は?
張裔の字は君嗣(くんし)です。
張裔はどんな人物?
学識が深く、政務能力に優れ、諸葛亮からも信頼された人物です。
張裔の最後はどうなった?
建興八年(230年)に亡くなりました。
張裔は誰に仕えた?
張裔は劉璋に登用され、のちに蜀の劉備と丞相諸葛亮に仕えました。
張裔にまつわるエピソードは?
孫権との問答で機知を示した逸話があります。





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