馬忠:生涯を南中平定に費やした越嶲再建の名将【すぐわかる要約付き】

馬忠_蜀

1分でわかる忙しい人のための馬忠(ばちゅう)の紹介

馬忠(ばちゅう)、字は徳信(とくしん)、出身は巴西閬中、生没年(?~249年)

馬忠は蜀に仕えた武将であり、南中統治と諸葛亮の軍事行動を支えた重要人物である。

若い頃は狐篤という名を名乗っていたが、後に本姓である馬姓へ戻し、名を忠と改めた。建安末に孝廉へ推挙され、漢昌長となったことで中央政治へ歩みを進めた。
劉備が夷陵の戦いで敗北した際、巴西太守閻芝が徴兵した五千人を永安へ輸送する任務を担い、この時に劉備から高い評価を受けた。

建興元年(223年)には諸葛亮の門下督となり、南征で牂牁太守を務めて南中の安定に貢献した。
その後も参軍、州治中従事として諸葛亮の北伐を支え、汶山の羌討伐にも参加した。

建興十一年(233年)の南夷反乱では叛乱首領の劉冑を斬って平定し、奮威将軍・博陽亭侯に昇進。さらに建寧郡や越嶲郡の統治再建を進め、安南将軍・彭鄉亭侯へ進んだ。延熙年間には蒋琬や費禕ら上層部を補佐し、鎮南大将軍にまで昇った。
温厚で度量が大きく、威と恩を兼ね備えた人物として知られ、蛮夷からも畏れ敬われた。

延熙十二年(249年)に没した。

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馬忠の生涯を徹底解説!諸葛亮に従い南中を攻め、統治から越嶲再建を行った鎮南大将軍

馬忠の出自と初任官

呉の馬忠という同名の人物がいるが当然別人である。

馬忠は、最初「馬」姓を名乗れなかった。 母方の家で育てられることになり、姓も「狐」に、名は「篤」とされていた。ところが、成長するやいなや、さっさと姓を馬に戻し、名前も忠と変えて、改めて「馬忠」として再スタートを切った。

その後、地元の郡吏として働き始める。建安の末期(196年から220年)には「孝廉」として推薦される。これは一種のエリート枠で、地元からの推しメン選抜みたいなものだ。
その推薦のおかげで、今度は漢昌長に任命される。
ここで彼は経験値を積み、後のキャリアに繋がっていく。

夷陵の敗戦後の抜擢

章武二年(222年)、劉備は夷陵(猇亭)で陸遜と朱然を相手に壊滅し敗走する。

永安まで逃げ帰った劉備にとって、軍の再建は喫緊の課題だった。
「人手が足りない、兵が足りない、そもそも希望が足りない」三重苦の中、現場で頑張っていたのが巴西太守の閻芝だった。
彼は諸県からかき集めた五千の兵士を、送り込むことにした。
その護送を馬忠が担当し、永安に到着後、劉備と馬忠は面会する。

この会談で、劉備は妙に気に入ってしまったようで、「黄権は失ったが、狐篤を得た。賢才は尽きぬな」と、尚書令の劉巴に対して語った。「狐篤」とは、馬忠がかつて名乗っていた仮名である。
つまり劉備は、過去の経歴まできっちり把握したうえで、その人間性を評価していた。

戦場ではボロ負けしても、劉備の人材スカウトの眼力だけは失っていなかった。

諸葛亮の南征と馬忠の統治

建興元年(223年)、ついに劉備が旅立ち、後を継いだのが若き劉禅であった。そんな彼を補佐することになったのが、丞相・諸葛亮である。
このとき劉禅は、諸葛亮に「開府」を許可し、政権運営を任され、実務の手綱を握る門下督に馬忠が任命された。

ところが、建興三年(225年)になると、南中が荒れ始める。
雍闓と高定が暴れる中で、それに乗じ益州・永昌・牂牁・越巂といった南方の4郡が同時多発で大荒れした。
この事態に諸葛亮は南征を決行する。
彼は三方面に軍を分け、自らは越巂ルートへ。李恢は益州方面、そして馬忠には牂牁ルートを任せ、牂牁太守の肩書きまでつけて南方鎮定の一翼を担わせた。

同年牂牁郡では、郡丞・朱襃も反乱を起こす。
だが馬忠は冷静かつ着実に鎮圧を遂行し、混乱した郡内の秩序を回復した。反乱ののちには住民の動揺を鎮めるために慰撫を行い、統治の安定に努めた。
「戦って終わりじゃない、そこからが本番」という堅実なスタイルが、実に彼らしい。

ちなみに諸葛亮は、外部からの官吏が定着しにくいという現実的な理由から、地元の有力者を起用する政策を導入していた。
まるで田舎の町議会に都会エリートが溶け込めないのと同じ構造で、この地に馴染んだ顔を前面に出すことで、治安も徐々に安定していった。
結果として、南中は平穏を取り戻し、現地調達で軍資金もまかなえるようになる。

北伐支援と羌討伐

建興八年(230年)、馬忠は召されて丞相参軍となった。
副長史の蒋琬が留府事を担っていた時期で、馬忠はこれに加わって政務に参加し、さらに州治中従事も兼ねて中央の業務に広く関わるようになる。

建興九年(231年)、諸葛亮が祁山へ北伐を開始すると、馬忠は現地に赴いて軍務の処理に加わった。

その後、蜀軍が帰還したのも束の間、今度は汶山郡で羌族の反乱が発生する。
馬忠は張嶷らとともに討伐にあたり、郡内の動乱を収めている。

南夷反乱の平定

建興十一年(233年)、またしても南方が騒がしくなる。
反乱を起こしたのは、南夷の豪帥・劉冑で、諸郡が巻き込まれ、南中全体が不穏な空気に包まれた。
当時、庲降都督の張翼が現地にいたが、彼では抑えきれないと判断した朝廷は張翼を呼び戻し、その後任に馬忠を任命した。

現地に着任した馬忠は、即座に反乱鎮圧に着手し、劉冑を討伐し騒乱の収束に成功した。
この戦功により、彼は監軍奮威将軍を加任され、博陽亭侯にも封じられる。
かつて建寧郡では太守正昂が殺され、張裔が呉に送られるなど、不安定な事件が続いていたが、馬忠はその地の庲降都督として治所を味県に移し、夷人と民の間を取り持ちながら統治にあたった。

建寧と越嶲の再建

南夷反乱の鎮圧後も、南方が「はい、おしまい」で済むわけがない。
馬忠はそのまま南部の再建へと駆り出され、次なる課題は建寧と越嶲の立て直しだった。

建寧郡といえば、太守の正昂が殺され、張裔が夷人に縛られて呉へ送られるという、なかなかシャレにならない事件の現場。
その後も不安定な情勢が続き、庲降都督は安全を取って平夷県に駐在するのが慣例だった。
だが馬忠は「安定化には現場に近づくしかない」とあえて治所を味県に移し、自ら夷人と民の間に身を置くという選択をする。

一方で、越嶲郡はというと、長年「地図では蜀」というだけの形骸地帯だった。
そこを馬忠は張嶷と連携して再建し、旧郡の支配を回復させた。
見かけ倒しの統治ではなく、実のある支配網を南方に広げた功績は大きく、結果として彼は安南将軍に任じられ、封爵も彭鄉亭侯へと進められる。

晩年の官歴と死後の評価

延熙五年(242年)、馬忠は長らく務めた南方から一時帰還し、朝廷の詔を携えて漢中へ向かった。そこには大司馬・蔣琬が駐屯しており、詔の内容は馬忠を鎮南大将軍に任じるというものであった。

延熙七年(244年)、大将軍の費禕が北方で魏軍に備えて出陣すると、馬忠は成都に留まり、尚書事の処理を任される。一時的に中枢の文官業務を任される形だが、費禕の帰還後は再び南方へ戻り、変わらず現地の統治にあたった。

延熙十二年(249年)、馬忠はその生涯を終える。
その子・馬脩が爵位を継ぎ、また弟の馬恢、その子である馬義は、のちに晋の建寧太守となった。
一家で南方に縁のある役職を代々務めていたことになる。

人柄については、「寛大で度量があり、よく笑う」「怒りを顔に出さず」「判断は的確」「威と恩を兼ね備えていた」と記される。
このため夷人たちは彼を畏れ、かつ慕い、死を悼む民が多く自発的に喪に服し、廟まで建てて祀ったという。

張表は清廉で名士として知られ、閻宇も才幹と功績で定評があったが、彼らは馬忠の後任として次々に赴任したが、いずれも馬忠の威厳や功績には及ばなかった。

『三国志』の陳寿は、「おだやかで人をまとめながらも、意志と実行力を備えた人物」として評価している。

参考文献

馬忠のFAQ

馬忠の字(あざな)は?

字は徳信(とくしん)です。

馬忠はどんな人物?

温厚で度量があり、怒りを顔に出さず、威と恩を使い分けられる人物でした。南方の民から畏れられ愛されたと記録されています。

馬忠の最後はどうなった?

延熙十二年(249年)に南方で死去しました。死後には蛮夷の民が自発的に葬儀へ参じ、廟を建てて祀ったと伝わります。

馬忠は誰に仕えた?

蜀の劉備、劉禅に仕えました。

馬忠にまつわるエピソードは?

夷陵敗戦後に劉備と会見し、「黄権は失ったが、狐篤を得た。」と高く評価された話が有名です。

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