王伉:呂凱と永昌を守り続け、諸葛亮が認めた忠義の男

一般文官2

王伉(おうこう)とは?永昌を永年収め雍闓反乱への対応で諸葛亮に表彰される

呂凱・王伉の防衛と雍闓拒絶

王伉(おうこう)、字は不明、出身不明、生没年(?~?)

王伉は永昌という地の府丞を務めていた。永昌といえば益州の西、山と谷に囲まれた陸の孤島で、道は細く、季節が一つ荒れれば往来は途切れるという、旅人泣かせの地である。

章武年(223年)、劉備が永安で薨じた後、雍闓が呉に走り、呉から永昌太守を任じられたとき、王伉と呂凱は境を閉ざし、入境を拒んだ。 雍闓は檄文を何度も送り「こっちにつけ」とせっついたが、二人は義を理由に突っぱねた。

諸葛亮南征と呂凱への表彰

建興三年(225年)、諸葛亮は南征を開始し、南方で続いていた反乱勢力の平定に向かった。
この時には、雍闓はすでに高定の部曲によって殺害されており、南部はなお不穏な状況にあった。
諸葛亮が永昌に至ると、そこで呂凱と府丞の王伉が長年にわたり郡を守り続けてきたことを朝廷に報告するため、上表を行った。

諸葛亮の上表は、おおよそ次のような趣旨であった。
「永昌郡の吏である呂凱と府丞の王伉らは、遠い辺境の地にあって十年以上も忠義を守り続けてきた。
雍闓と高定が東北から迫っていたが、呂凱たちは義を守り、決して彼らと往来しなかった。
永昌の人々の気風がこれほど誠実でまっすぐであったことに深い感銘を受けた。」
諸葛亮はこのように述べ、呂凱と王伉の節義と、永昌の民の気風を高く評価したのである。

こうして、節義が認められた呂凱は雲南太守に任じられ、陽遷亭侯に封じられ、王伉には永昌太守と亭侯の爵位が与えられた。 正史はそこで王伉の記述を終えているが、呂凱はその後すぐに反乱に巻き込まれ死亡している。

参考文献

王伉のFAQ

王伉の字(あざな)は?

王伉の字は記録に残っていません。

王伉はどんな人物?

王伉は永昌で郡民を率い、外部勢力に屈しなかった忠義の強い人物として記録されています。

王伉の最後はどうなった?

正史には王伉の最期に関する記述は残されていません。

王伉は誰に仕えた?

蜀の劉備・劉禅に仕え、呂凱と共に永昌を守り抜きました。

王伉にまつわるエピソードは?

雍闓が呉へ通じて永昌に侵入しようとした際、呂凱と共に郡境を閉じてこれを拒んでいます。

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