呂凱:王伉と永昌を守り続け、諸葛亮が認めた忠義の男【すぐわかる要約付き】

呂凱

1分でわかる忙しい人のための呂凱(りょがい)の紹介

呂凱(りょがい)、字は季平(きへい)、出身は永昌不韋県、生没年(?~225年)
呉に呂岱の息子に呂凱がいるが、こちらは蜀の呂凱である。

呂凱は蜀の永昌郡に仕えた人物で、雍闓の反乱によって益州南方が混乱した時期に、郡の吏民を率いて境を固く守ったことで知られる。
彼は五官掾や功曹として地元に深く根ざし、永昌郡で強い信頼を得ていた。
劉備が永安で崩御した後、益州南部では雍闓や高定らの驕りと専横が加わり、蜀に背いて呉へ通じる動きが現れたが、呂凱は府丞の王伉とともに境を閉じて蜀の領域を守り抜いた。

雍闓から繰り返し勧誘の檄が送られてきたが、呂凱は国難と忠義を説いてこれを退けた。
建興三年(225年)に諸葛亮が南征を開始すると、すでに雍闓は高定軍に殺害されていた。諸葛亮は呂凱と王伉の忠節を評価し、呂凱を雲南太守に任じ、さらに陽遷亭侯に封じたが、その直後に反乱がおき殺害された。

呂凱の生涯を徹底解説!永昌を永年収め雍闓反乱への対応で諸葛亮に表彰される

呂凱の出自と不韋県の由来

呂凱は永昌不韋県の出身である。
不韋という名前はどこから来たのかというと、孫盛の蜀世譜によれば、秦の頃に呂不韋の一族が蜀の方へ送られ、さらに漢武帝の時代になると、西南夷の開発に合わせて呂氏が永昌へ移されたという。いろんな事情で人だけ動かされ、それがそのまま地名になったらしい。

そんな土地で育った呂凱は、永昌郡で五官掾や功曹を務め、手間の多い郡の仕事をこなし続けた。こういう経験がのちに永昌を守る場面で効いてくる。

雍闓の反乱と永昌の動揺

章武三年(223年)、永安で劉備が薨去したあと、益州南部では雍闓や高定が、自由だ、解放だと自立の動きを見せ始めた。蜀への忠節より、自分の縄張りをどう広げるかのほうが大事になったらしく、命令も素直に聞かない。領内の役人たちは、まるで突然上司が三人に増えたみたいに困惑していた。

都護の李厳はこの状況を放置できず、雍闓に六通もの書状を送りつけた。蜀に従えば安定するし、逆らえば面倒しか生まないと、丁寧を通り越して半ば説教じみた内容である。 しかし返ってきたのはたった一通であった。その中で雍闓は「天に太陽は一つ、地に王は二人いないと言うが、今は三国それぞれが皇帝を名乗っている。遠い土地の者がどこに従うべきか分からなくなるのも道理だ」と主張した。あたかも自分の迷走を正論で塗り固めるかのようで、史書はこれを礼を欠いた返答と書き残している。

その後、雍闓は蜀を離れて呉へ走り、呉は彼を永昌太守に任命した。永昌は益州の西で道も険しく、本国との往来がやたら遠い。その太守が突然呉側に変わったのだから、郡内は椅子取りゲームの椅子が急に消えたような動揺に包まれた。

呂凱・王伉の防衛と雍闓拒絶

雍闓が呉へ走ったあと、呂凱と府丞の王伉は吏民を率い、境を閉ざして雍闓の入境を拒んだ。

雍闓は怒ったのか焦ったのか、永昌に向けて檄文を繰り返し送りつけた。まるで手当たり次第にDMをばらまく怪しい業者のような勢いで、永昌の帰属を変えろと迫ったのである。

しかし呂凱はこれに堂々と返書を送り、内容を一つずつ叩き返した。
「世が乱れ、奸雄がのさばり、民は疲れ切っている。それでも皆が必死に国難へ向き合っているのに、代々漢の恩を受けてきた将軍が、正統を離れて呉へ向かうのはおかしな話だ。歴史に名が残るのは、筋を誤らなかった者だけだと昔から決まっているのに、わざわざ道を外す理由が見つからない。
舜や竇融のように流れを読み、正しい主に従った者は今でも称えられている。いま国を支えているのは先帝(劉備)の遺命を受けた諸葛亮の働きで、これを無視するのは野火と薄氷を同時に踏むようなものだ。将軍だって父祖が名を残した家なのだから、永昌のような端に固執せず、歩き直せばよいだけである。
正統を外れた主に人が集まらないのは昔からのことだし、境を越えて交わらないのが義だから永昌を閉ざしたのも当然だ。」

最後に、書状を受け取るたびに腹に据えかねて、食事も忘れたと書いている。呂凱の体調が心配になるくらい怒っていたようである。

諸葛亮南征と呂凱への表彰

建興三年(225年)、諸葛亮がいよいよ南征に乗り出し、理外はたころ、南では雍闓がすでに高定の部曲に討たれ、騒ぎの火だけがあちこち残っていた。
諸葛亮が永昌に到着すると、そこには十年以上も黙々と郡を守り続けていた呂凱と府丞の王伉の姿があった。その姿を朝廷へ伝えるため、諸葛亮は上表を行った。

その上表には「永昌の呂凱と王伉は、誰も振り返らないような辺境で十年を超えて忠義を守り、雍闓や高定が東北から迫っても義を曲げず、往来すら絶った。 その徹底ぶりに、永昌の民の気風がいかに誠実で、揺れる世でも芯を折らなかった事に深い感銘を受けた。」と諸葛亮は書いている。

こうして、節義が認められた呂凱は雲南太守に任じられ、さらに陽遷亭侯の爵位まで与えられ、王伉には永昌太守と亭侯が与えられた。

辺境で地道に積み上げた功績が、ようやく表に出た形である。長い坂道を黙って登り続けた者だけが、こうして少し報われるのだという話でもある。

呂凱の最期と子孫・評価

雲南太守に任じられて間もなく、南方で起きた反乱の波に巻き込まれ、呂凱は命を落とした。長い年月をかけて守り抜いてきた忠節は、あまりに突然の形で途切れたが、その積み重ねが消えることはなかった。

その後は子の呂祥が陽遷亭侯を継ぎ、晋の時代には南夷校尉となった。さらに呂祥の子と孫も永昌太守を務め、代々南方を治めていったと記録されている。家としての責任を、少しずつ受け継いだというわけである。

『三国志』の陳寿は、呂凱を「乱世でも忠義を守り、節を曲げなかった」と評した。

呂凱は荒れた時代でも信じるものを手放さなかった人物として、その名は後まで残ることになった

参考文献

呂凱のFAQ

呂凱の字(あざな)は?

字は季平(きへい)です。

呂凱はどんな人物?

永昌郡で民から強い信頼を受け、雍闓らの反乱に対して境を守って忠節を示した人物です。

呂凱の最後はどうなった?

雲南太守・陽遷亭侯に封じられた直後、反乱により殺害されました。

呂凱は誰に仕えた?

蜀の劉備、劉禅に仕え、諸葛亮の南征期に評価を受けました。

呂凱にまつわるエピソードは?

雍闓からの勧誘の檄に対して長文の返檄を送り、国難と忠義を説いて拒絶した出来事が有名です。

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