張特:諸葛恪から合肥新城を死守した魏の将【すぐわかる要約付き】

一般武将4

張特とは?諸葛恪から合肥新城を守り抜いた魏の知勇兼備の将

毌丘倹麾下で合肥新城を守る

張特は涿郡の生まれで、字を子産(しさん)という。
彼は鎮東将軍・諸葛誕の麾下で牙門将を務めていたが、残念ながらその上司からの評価は微妙だった。「あいつ、ちょっと足りねぇな」と思われていたらしく、軍務の第一線から外そうという動きもあった。

ところが、時が動く。
嘉平4年(252年)、司馬師率いる魏軍が東興の戦いで呉軍に敗れ、諸葛誕は鎮南将軍・都督豫州諸軍事として任地を変更される。
後任には毌丘倹が着任し、張特は突如として合肥新城の守備を任された。 そこは魏と呉の境界という絶対に揉める場所で、いわば「誰かが責任を取らされる前提」で置かれる駒のようなものだった。

とはいえ、実際のところ、十年以上呉軍の侵攻はなかった。
緊張の最前線に置かれたはずが、気がつけば誰も来ない暇な砦の管理人の仕事で、張特としても「これ、案外ぬるい仕事かもな」と思っていたかもしれない。
だが、それが落とし穴だった。
この任命こそが、彼の名を歴史に刻み込む伏線だったのである。

合肥新城の籠城戦と張特の智勇

嘉平五年(253年)、呉の太傅・諸葛恪が大軍を率いて合肥新城を包囲した。

このとき城を守っていたのが魏の将軍・張特である。配下には楽方らがいたが、城内の兵は三千余であった。

しかもその三千も、時が経つごとに削れていく。
病に倒れた者、矢に倒れた者、気力に負けた者、残った兵士は半分を下回り、もはや深夜のファミレスの客よりも少なかった。

諸葛恪は土山を築き、総攻撃の構えを見せるが、それでも張特は踏ん張った。
そして、彼は一つの賭けに出る、呉軍に「降伏する」と偽りの使者を送ったのである。
「魏の法では、百日間援軍が来なければ降伏しても家門は罪に問われぬ。すでに九十余日を経た。明日、降伏するつもりである。名簿と印綬を用意しよう」
印綬まで投げ渡し、念の入った演技だったが、呉軍は完全には信用せず、印綬は受け取らなかった。ただし、様子を見るために一時的に攻撃を止めた。

張特にとっては、これこそが狙いだった。その夜、城中の家屋を解体し、木材をかき集め、二重の柵を築き上げた。
明けて翌朝、城壁に立った張特はこう宣言した。
「我は戦って死ぬのみ」
降伏の約束など、ハナからする気はなかったのだ。

諸葛恪は裏切りに怒り、総攻撃を仕掛けたが、呉軍の陣中では疫病が広がり、酷暑と疲労で兵の大半が倒れ始める。
そんな中、魏の援軍が迫っているとの報が入ると、諸葛恪はついに包囲を解き、撤退した。

張特は戦後、雑号将軍に任ぜられ、列侯に封じられ、さらに安豊太守へと昇進する。
張特の登場はこれで終わりだが、この合肥新城の戦いは、魏の防衛戦の見本として、後世に語り継がれることとなった。

参考文献

張特のFAQ

張特の字(あざな)は?

字は子産(しさん)です。

張特はどんな人物?

諸葛誕はあまり有能と見なさしていませんでしたが、知略と勇気を兼ね備えた人物です。合肥新城をわずかな兵で守り抜き、敵軍を退けました。

張特の最後はどうなった?

戦後に雑号将軍として列侯に封じられましたが、その後は不明です。

張特は誰に仕えた?

魏の三代皇帝・曹芳の下で、鎮東将軍の諸葛誕および後任の毌丘儉に直属して仕えました。

張特にまつわるエピソードは?

降伏を装い敵を欺いて城を守り抜いたことが有名です。印綬を投げて信を示すふりをし、夜に二重柵を築いて徹底抗戦しました。

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました