張英を徹底解説!孫策に敗れ、歴史に埋もれた防衛の要
張英の登場:劉繇麾下で揚州防衛線の要に
張英(ちょうえい)、字は不明、出身不明、生没年不詳
張英の名前が登場するのは、後漢末の混乱期。
揚州刺史・劉繇の配下として、当利口(現・長江沿い)に駐屯し、袁術勢力の南進を防ぐ最前線にいた。
この“当利口防衛線”は、同僚の樊能・于糜とともに横江津と連携し、南方の要を守る重要な戦略拠点だった。
攻めてきたのは、袁術が派遣した丹楊太守の呉景、丹楊都尉の孫賁、そしておなじみの“偽刺史”恵衢らである。
張英らの防備は固く、数年にわたってこの防衛線は崩れなかった。
つまり、誰もが「劉繇軍は意外とやるじゃん」と思いはじめた頃、事件は起こる。
孫策の強襲と敗北:張英、歴史の表舞台から姿を消す
194年、孫策という“東南の彗星”が呉景軍に加勢するや否や、事態は一変した。
それまでビクともしなかった当利口の防衛線が、ものの数日で破られたのである。
張英はあえなく撃破され、劉繇も丹徒へと敗走。
張英という名前は、これ以後、史書に登場しない。
逃げ延びたのか、戦死したのか、それとも捕虜となり、別の名でどこかに仕えたのか。その運命は今となっては闇の中だ。
ただひとつ確かなのは、張英は“孫策登場前の最後の守護者”として、短くも重要な役割を果たしていたという事実である。
参考文献
- 参考URL:張英 – Wikipedia
- 陳寿《三国志》呉書第四《劉繇傳》
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