1分でわかる忙しい人のための施績(しせき)の紹介
朱績、施績(しせき)、字は公緒(こうしょ)、出身は揚州丹陽郡、?~270年
施績は呉の名将朱然の子であり、養祖父は朱治である。幼少期は朱姓を名乗っていたが、後に本来の施姓へ復した。父朱然の功績により若くして官職に就き、潘濬の五渓征伐に従い勇名を馳せた。盗賊取締りを任じられた際には、魯王孫覇の交友を断るほどの清廉な人物であった。朱然の没後、家督を継ぎ平魏将軍として王昶軍と交戦するが、諸葛融の支援が得られず敗北する。孫権の信任を受け鎮東将軍へ昇進し、のち驃騎将軍・上大将軍を歴任。晩年は魏の諸葛誕の叛乱や江夏戦に関与し、呉の防衛線を支え続けた。建衡二年(270年)に左大司馬・右軍師として没した。
本記事では施績で統一する。
施績を徹底解説!呉を支えた清廉なる名将の忠義と最後の戦い
施績(朱績)とは?家系と初出仕
施績という男の出自を語るには、どうしても朱家の影を避けて通れない。
父は朱然、養祖父は朱治で、汗と血で呉の礎を築いた筋金入りの功臣である。朱治は孫堅・孫策・孫権の三代を渡り歩き、功績を山ほど積み上げた古参である。
朱治には当時、実子がいなかったため、姉の子の施然を養子に迎え、朱然になったというわけだ。
こうして朱家の名を背負って育った施績は、最初「朱績」と名乗っていたが、後に本来の「施姓」に戻す。血と名の間を行き来するあたりに、この家の複雑な家系事情と、当時の「名門の義務感」が見えてくる。
父・朱然の功によって、施績は早くから出世コースに乗る。まず郎に任じられ、間もなく建忠都尉へ任じられる。
その後、叔父の朱才(朱治の実子)が病没すると、その兵をそのまま引き継ぐことになる。
黄龍三年(231年)、太常の潘濬が五渓の異族を討伐した際、施績は従軍している。このとき、彼の名がようやく「朱家の子」ではなく「施績」という独立した一人の将として知られるようになった。 戦場で恐れを知らず、刃を交えるたびに冷静さと胆力を失わず、ついには「勇気と胆力をもって知られる」と評された
清廉な統治と魯王孫覇との関係
五渓討伐で功を挙げた施績は、偏将軍に昇進し、営下督として盗賊の取締りを任された。
彼は公務において私情を交えず、規律一点張りの堅物であった。
世渡り下手な清廉官吏とは、まさに彼のことである。
赤烏四年(241年)、太子孫登が早世すると、孫権は第三子の孫和を太子に立てた。
そこまでは順調だったが、問題はその後である。弟の孫霸を魯王に封じたことで、呉は「二つの太陽」を抱えることになった。
魯王派には楊竺、全奇、孫奇、呉安といった連中に加え、歩隲・呂岱・全琮といった重臣までが肩入れした。
一方、太子派には陸遜、諸葛恪、顧譚、朱拠(朱據)、滕胤らが並び、「二宮の変」が開幕したわけである。
その混乱の中、施績にも魯王孫霸から声がかかった。孫霸はしばしば施績の官署を訪れ、同席して親交を結ぼうとした。普通の武将なら、ここで笑顔を振りまき、王族のご機嫌をとるだろう。
だが施績は違った。孫霸が席につくたび、静かに立ち上がって去ったのである。
公務と私交を混ぜれば火傷する、それを本能的に知っていたのだろう。
その潔癖なまでの態度ゆえに、施績は「太子派」と見られながらも、顧譚のように派閥争いに巻き込まれることはなかった。
権力の風向きが日替わりで変わる呉の政界で、彼はあえてどちらにも寄らず、法と節を味方につけて生き残った。
家督継承と平魏将軍としての奮戦
赤烏十二年(249年)、朱然が没した。
朱然は呉の重将として長年にわたり戦功を立てた人物で、孫権はわざわざ素服を着て喪に服し深く悲しんだという。
施績は当陽侯の爵位を受け継ぎ、父の後任として荊州方面の守備を任された。
赤烏十三年(250年)、魯王孫霸が薨去すると、施績はその職務を継ぎ、平魏将軍・楽郷督に任命された。朱才、朱然、孫霸と跡を継ぐのが多すぎで、忙しい毎日を過ごしていた。
そこへちょうど、魏の征南将軍・王昶が江陵に侵攻してくる。 だが、長旅と兵糧不足で力尽き、あっさり撤退していくが、これに対して施績、すかさず勝機を嗅ぎつけ、諸葛融に書状を送る。
「王昶は疲弊してるし、馬も腹ペコ。これは天が我らに勝てと言ってるようなもの。
私が前から、あなたが後ろから挟めば、これはもはや断金の義。功も名も、分かち合える」
いかにも施績らしい、バランスが取れた提案である。
諸葛融は「いいね」と表面上は同意したものの、いざとなると全く動かない。
施績は単独で進軍するが、江陵の南三十里を進み、紀南にて敵先鋒を破るも、援軍が来ないので孤立してしまう。
体勢を立て直した王昶に反撃され施績軍は敗走し、部将の鍾離茂と許旻が戦死する。
せっかくの勝機が、相棒の留守でふいになったのである。
孫権は施績の奮戦ぶりを高く評価し褒めたが、諸葛融に対しては「なんでお前、来なかった」と激怒する。
とはいえ、その諸葛融の兄はあの諸葛恪である。
当時、朝廷内で呉のボスみたいな存在だったため、叱責以上の処分はできなかった。
この件以来、施績と諸葛兄弟の間には、深い溝ができた。
もともとウマが合わなかった両者に、疑念と遺恨が積み重なり、後の衝突の伏線となる。
諸葛恪との確執と鎮東将軍への昇進
建興元年(252年)、孫権が崩じて孫亮が即位すると、施績は鎮東将軍に任じられた。
しかし政権の実権を握ったのは諸葛恪であり、かつての確執が雪解けすることはなかった。
翌年、諸葛恪は合肥新城への出兵にあたって施績にも協力を求めたものの、彼を半州に留めたまま、施績の職務を弟の諸葛融に兼任させるという不可解な処置を取った。
それは表向きには共同作戦のように見せながら、実際には「お前は動かなくていい」と言われたも同然であり、施績にとっては明白な侮辱であった。
結果として、諸葛恪はその合肥新城の戦で魏軍に大敗し、戦後は朝廷内でも孤立する。
やがて孫峻が政変を決行し、諸葛恪は捕えられて処刑された。
名門・諸葛家を背負いながらの失脚劇は、権力の終わりがいかに呆気ないかを示していた。
施績はその後、孫峻の命を受けて討伐軍の一員となり、無難督・施寬の指揮のもと、孫壹・全熈らとともに諸葛融の追討に参加する。
かつて自らの任務を奪い、父の威を借りて重用されたその人物は、軍勢の接近を聞くと恐れをなして自決し、諸葛融の三人の息子たちも逃れることはできず、処刑された。
討伐を終えた施績は楽郷に帰還し、假節を授けられたうえで引き続き荊州方面の防衛を任されることとなった。
栄達を誇ることもなく、恨みを言葉にすることもなく、ただ粛々と命に従い、荊州方面の防衛を引き続き担当した。
改姓と驃騎将軍への任命
五鳳年間(254〜256年)、施績はそれまで名乗っていた朱姓を捨て、生来の施姓へと戻した。
これは父・朱然の喪が明けた後に改めて願い出たもので、生前の朱然も同じ申請をしていたが、そのときは孫権に却下されていた。
だが政権が移り変わり、風向きが変わったこの時期、施績の申し出はついに認められることとなった。
名を正すという行為には、単なる字面以上の意味がある。彼にとってそれは、父の役目を継ぐ時代から、自身の意志で立つ段階への静かな節目でもあった。
太平二年(257年)、施績は驃騎将軍に任じられた。
だが名誉の昇進とは裏腹に、朝廷では孫綝が権力を握り、国内の空気は重く沈んでいた。
疑心と監視が日常となり、重臣たちは言葉より先に互いの表情を読むようになっていた。
施績はこうした状況を深く憂慮していた。
もし呉が内側から崩れれば、その隙を魏が突いて南下することは明らかだったからである。
そこで彼は密かに蜀漢へ書を送り、両国の連携維持を求めた。
書簡の中には、呉の政変による弱体化が魏の好機となる懸念が率直に記されていた。
蜀はこれを重く受け止め、右将軍・閻宇に兵五千を預けて白帝城に駐屯させ、施績からの続報を待たせた。
諸葛誕の乱と江陵防衛
太平二年(257年)、魏の征東大将軍・諸葛誕が寿春で挙兵し、呉に援軍を要請してきた。
呉としては魏を削る好機ではあったが、それとほぼ同時に、魏の驃騎将軍・王昶が夾石を拠点に江陵方面へ兵を進めてきた。
施績と全熙はただちに江陵の防衛にあたり、城を固めて王昶の圧力を抑え込む。
その結果、寿春へ行く予定だった援軍は「急用でどうしても行けません」ということになり、呉は諸葛誕を充分には支援できず、乱は最終的に魏によって鎮圧された。 しかし、江陵を守り抜いたことは戦局全体から見て決して小さくない成果だった。
しかし、施績の働きは軍事だけにとどまらなかった。
かねてより蜀との連携を保つために送っていた密書は継続され、蜀軍は白帝城に兵を駐屯させたまま西方の抑えに留まっていた。
施績の冷静な対応があったからこそ、呉の西部戦線は崩れることなく維持されたのである。
前線で剣を振るうより、後方で地盤を崩さぬことの方がよほど難しい。
施績は派手に攻め込むことより、誰にも崩されない場所を守り通すことを選んだ。
その選択が、魏の侵入を一度も許さなかったのである。
巴丘から西陵の防衛と蜀への救援
永安元年(258年)、施績は上大将軍・都護督に昇進し、巴丘から西陵に至る防衛線の全権を委ねられた。
荊州といえば、魏・蜀・呉の三つ巴が肩を突き合わせる最前線である。 そんな地を任された施績は、軍の屋台骨となり、抜け目なく防衛線を張り続けた。
元興元年(264年)、魏がついに蜀へと牙をむいた。
呉では大将軍・丁奉が寿春へ向けて兵を動かし、将軍・留平が施績のもとに派遣されて軍議を交わす。さらに丁封や孫異らも漢水流域へ進軍し、蜀の救援に踏み出した。
だが、事態は彼らの想定よりも速かった。
まもなく蜀主・劉禅降伏の報が届き、「もう終わってます」であった。
戦場というのはときに、千人の決意を一通の報で無力化する。
その年の末、施績は左大司馬に任命され、呉の西部防衛を統べる立場となる。
蜀の滅亡により、呉は背を預ける盟友を失い、魏との国境を単騎で守らねばならなくなった。
それでも彼のもとで荊州の防衛線は崩れず、国境線は一歩たりとも譲られなかった。
援軍が遅れたとか、蜀が早すぎたとか、外から見れば不満もあろうが、施績は目の前の持ち場を投げなかった。
孤立無援でも、泥まみれでも、守るべき場所を黙って守り続ける。
たとえその背後に、もう誰も立っていなかったとしても。
最後の戦いと死
建衡元年(268年)、呉主・孫皓は自ら東関へ出征し、各将に進軍を命じた。
施績は江夏へ、右丞相の万彧は襄陽へと向かった。
これに対し、晋は太尉・義陽王司馬望が龍陂に駐屯して防衛の総元締めとなり、荊州刺史・胡烈が前線に出て応戦した。 ろくな戦歴もないのに万彧はあっさり撃破され、施績もろくに戦果を上げられないまま江夏から引き上げる羽目になった。
建衡二年(270年)四月、彼は左大司馬・右軍師としてなおも戦線に在り、そのまま前線で命を終えた。ついに家族の待つ故郷へは戻らず、武将として土に還ったのである。
その死後、軍務は陸抗へ引き継がれ、信陵・西陵・公安など呉西部の防衛線は再整備された。
だが、粛然と持ち場を守り続けた施績の背中を埋めるには、やはり時間がかかった。
『三國志』の陳寿は評で呉の武人系譜を三段に整理している。
朱治・呂範を創業期の旧臣、朱然・朱桓を勇烈で名を馳せた中期の将とし、さらに呂拠(呂據)・朱異・施績をその後継世代に位置づけた。彼らはいずれも将軍としての才能があり、「父祖の事業を見事に受け継いだ」と評された。
中でも施績は、同世代の呂拠・朱異が政変で命を落とした中にあって、唯一安穏に生を終えた武将であった。陳寿はそれを「時運の違い」と述べ、施績を呉末期の良将として描いている。
参考文献
- 三國志 : 吳書十一 : 朱然傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 吳書三三 : 孫休傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二十七 : 王昶傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 帝紀第三 世祖武帝 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻078 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻079 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:施績 – Wikipedia
施績のFAQ
施績の字(あざな)は?
字は公緒(こうしょ)です。
施績はどんな人物?
施績は清廉で公正な将として知られ、権勢に屈せず職務に忠実でした。
施績の最後はどうなった?
建衡二年(270年)に左大司馬・右軍師として没しました。
施績は誰に仕えた?
呉の孫権、孫亮、孫休、孫皓の四代に仕えました。
施績にまつわるエピソードは?
魯王・孫霸が彼と親交を結ぼうとした際、施績は権力に与せず断った逸話が伝わります。






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