1分でわかる忙しい人のための孫登(そんとう)の紹介
孫登(そんとう)、字は子高(しこう)、出身は呉郡富春、生没年(209~241年)
孫登は三国時代の呉の皇太子で、孫権の長子である。父に先立ち三十三歳で没したため、皇位に就くことはなかったが、仁厚で慎み深く、名士と交流しながら理想的な政治を志した人物として知られる。
彼は若年のころから学問と礼法を重んじ、諸葛恪や張休ら俊才を友とした。飢饉の際には民を思い、法を整えて治安を回復させるなど、政治家としての資質を早くから示していた。
病没前に残した上疏では、寛刑軽税と人材登用を勧め、後継に弟の孫和を推すなど、国家の安定を願う誠実な心が読み取れる。孫登の死後、孫権は深く悲しみ、その言葉を読み返して涙したと伝えられる。
その人格と識見は、陳寿に「茂美の徳」と称され、後世に理想的な太子像として語り継がれている。
孫登を徹底解説!孫権の後継に最もふさわしかった皇太子、その仁政と人材登用の理想政治
孫登とは?孫権の長子として生まれ太子になる
建安十四年(209年)、孫登は孫権の長子として誕生した。
赤壁の戦いの翌年であり、父・孫権がいよいよ覇業を進めようという時期である。
魏の黄初二年(221年)、曹丕が帝位に就いて孫権を呉王に封じた際、孫登もまた東中郎将・万戸侯に任命された。
だが孫権は「こいつはまだ幼いし、体調もよろしくない」と遠慮がちに辞退していた。
これが元となり、夷陵の戦いの後、魏が大攻勢をかけてくるが、孫権はうまく退けている。
時期は不明だが、孫権は息子・孫登のために良家の令嬢を選ぼうとした。
群臣たちは芮玄の父・芮祉と兄・芮良が、三代にわたって徳・義・文・武の面で名声を得ていると称賛したため、芮玄の娘を孫登の妃として迎えることになったらしい。
諸葛恪・張休らによる学問と人格教育
孫権が呉王になった同年に正式に太子に立てられた。太子ともなれば、遊んでばかりはいられない。
孫登の教育は、父・孫権の「我が子を育てるのは、国を育てること」という基本方針のもとに始まった。「『漢書』を読ませ、今の時代の道理を学ばせよ」との命で、歴史を通じて治乱の理を理解させようとしたのである。
教育係として、まず名高い張昭が推挙されたが、老齢で政務にも忙しく、直接教えるには難があった。そこでその息子・張休が講義を受け、その内容を太子に伝える形式が採られた。
この間接講義でも、孫登は『漢書』を通じて制度と歴史を学び、政治と君臣の秩序をしっかりと身につけていく。
太傅の張温もこれに目を留め、「中庶子には徳と才のある人物を」と進言する。
そこで師傅(教育係)を選任し、優秀な人物を選抜して賓友(側近)とした。
諸葛恪、張休、顧譚、陳表らが選ばれ、詩書の講義に侍し、騎馬や射撃にも同行した。
それだけではなく、同じ車に乗り、寝るときも帳を並べるという気さくさがあった。
太子といえど威張らず、むしろ「兄貴分がひとり増えた」くらいの距離感で接したため、太子府にはいつも穏やかな空気が流れていた。
こうして太子府は、学問と礼節が自然に身につく理想の場となった。
孫登もまた、その環境で文と徳を深め、将来を期待される太子として、着実に育っていったのである。
黃武四年(225年)、周瑜の娘を妃として迎えている。
東宮の形成と「四友」の登用
黄龍元年(229年)、孫権がついに帝位に就くと、孫登は名実ともに皇太子として立てられた。
後継者の太子府も、このとき本格的に整備され、政務と学問を担う一つの官庁として機能し始めた。
もともと太子の賓友として選ばれていた若者たちは、このとき正式に要職に昇格することとなった。
諸葛瑾の子・諸葛恪、張昭の子・張休、顧雍の孫・顧譚、陳武の子・陳表の四名は、左輔都尉・右弼都尉・輔正都尉・翼正都尉にそれぞれ任命され、「東宮の四友」と称されるようになった。
父もすごけりゃ子もすごい、という感じで、これ以上ないくらいのエリート揃いである。
この四人、実力もなかなかだった。
諸葛恪は才気煥発で、ときに口がすぎるほどの直言型。張休は穏やかで礼節に優れ、顧譚は筋金入りの読書人、陳表は文武両道で根がまじめ。
「この面子なら、太子も安心して暴れ…いや、学べるだろう」と周囲は胸をなでおろした。
さらに、謝景・范慎・刁玄・羊衜らも賓客として加わり、太子府はいっきに「知の百貨店」状態に。
その陣容たるや、「東宮号称多士(東宮は多くの人材が集うと称された)」とまで詠われ、文人たちにとっても憧れの空間となった。
また、時期は不明だが、名将・周瑜の娘と婚姻を結んでいる。
諸葛恪との舌戦の逸話
太子・孫登が冗談めかして「元遜(諸葛恪)は馬の糞でも食べられる」とからかうと、諸葛恪はすぐに「では太子は鶏の卵を召し上がってはいかがでしょう」と返した。 孫権が驚いて「人に馬の糞を食えと言われて、なぜ鶏の卵で返すのだ」と尋ねると、諸葛恪は淡々「どちらも出るところは同じでございます。」と答えた。 孫権は大笑いし、場の空気は和らいだ。 人格者として知られた孫登が、軽妙な冗談で場を盛り上げた、そんな一幕であった。
武昌の留守と政務の辣腕
黄龍元年(229年)、孫権が都を建業に移すと、皇太子・孫登は武昌に留まり、政務と軍事その両方を任された。
そこには、上大将軍・陸遜が補佐役として並び、宮府と留守政務を整えていた。
加えて、是儀が太子を補佐するために派遣され、孫登は政務を行う際、必ずその意見を聞き、じっくり検討してから実行するという慎重ぶりを見せた。若き太子ながら、軽率を避け、経験ある臣下を重んじる姿が浮かび上がる。
嘉禾元年(232年)、弟・孫慮が病に伏してついに亡くなった。孫権は深く嘆き、食を減らすほどに悲しんでいた。孫登は訃報を受けると武昌から急ぎ帰還し、賴郷にて父と面会する。
父の悲嘆の様子を見ると、孫登は思わず涙をこぼしたが、諭すように言葉を添えた。「弟が病で逝ったのは天の命でございます。いま国家はまだ定まっておらず、陛下が過度に悲しめば政務に支障がございます」と。
孫権はその言葉に心を打たれ、食の量を戻したという。
その後、十日あまり滞在ののち再び西へ戻るよう父に命じられた孫登であったが、「父から長らく離れてしまった孝道が心配です。陸遜が忠勤をもって国政を支えております」と願い出、建業に留まることを許された。是儀も当然のように随行している。
嘉禾三年(234年)、孫権が魏の合肥新城へ攻め込むと、孫登は建業にて居守を命じられ、すべての留守事務を掌握した。
その年は飢饉のため穀物の収穫が乏しく盗賊の群れが出没したため、孫登は防御と統制のための科令を定め、乱を速やかに鎮めた。規則は的を射ており、効果も明らかであった。
これらの父から離れた日々を通じて、孫登は政務・軍務の現場をくまなく体験し、法令の運用や地方統治に通ずるに至った。
是儀や陸遜らと協力しながら進めたその姿は、太子としての実務能力を確かに示していた。
仁政と民への配慮と統治姿勢
孫登は武昌において、常に「民に煩いをかけまい」という思いを胸に政を執った。
狩猟に出る際にも、田畑を横切る近道は避け、わざわざ遠回りをして作物を踏まぬよう心がけた。
宿営する際も空き地を選び、民家や耕地に手を触れなかったという。
あるとき、馬で出かけていた孫登の近くに、どこからか弾丸(パチンコ玉のようなもの)が飛んできた。
従者たちは驚いて近くの男を取り押さえたが、孫登はすぐにそれを制した。
弾丸の形を照らし合わせたところ、男の持ち物とは一致せず、無実であることが判明した。
孫登は男を解放し、従者たちに「怒りより理を先にせよ」と諭した。
またある日、宮中の金製の水器が失われた。孫登はそれが身近な者の仕業と察したが、罰することなく、ただ一言叱り、静かに故郷へ帰した。
さらに周囲には「このことを漏らすな」と命じ、名誉を守ったという。
罰するよりも、恥を知って改めさせることを選んだその姿勢に、人々は孫登の寛容さと気高さを見た。
そこには細やかな配慮、冷静な判断、そして静かな温情があった。
母・徐夫人への恩義
太子・孫登は、生母の身分が低くその名もはっきりとは記されていない。
しかし、徐夫人が育ての母として彼を養育し、恩情をもって接していた。
のちに徐夫人は嫉妬により廃され、呉郡へ移されたが、孫登はその恩を深く忘れなかった。
また、歩夫人が孫登に贈り物をしたとき、彼はそれを辞さず、拝礼してとりあえず受け取った。
しかし、徐夫人からの使者が衣服を届けると、孫登は必ず身を清めてからそれを着用した。形式よりも、育ての母への情を重んじる姿勢がそこにはあった。
太子に立てられる際、孫登は「太子を立てるには、まず皇后を立てるべきです」と述べた。
孫権が「お前の母はどこにおるのか」と問うと、孫登は「呉におります」とだけ答えた。これは、徐夫人を皇后に立てるべきだという意を暗に示した発言であった。
『呉書』によれば、弟・孫和が寵愛されていたにもかかわらず、孫登は彼を兄のように敬い、太子の位を譲ろうとする心を持っていた。
このように、孫登は恩を忘れず、家族に対しても誠実であった。
母に対しては孝を尽くし、弟に対しては謙譲をもって接したその姿勢が、多くの士人の敬意を集めたのである。
臨終の上疏に示した哲学
赤烏四年(241年)、太子・孫登は重病に襲われ、その死期を悟った。
彼は父・孫権へ一通の上疏を奉じて自らを「不徳」と称し、病を天命として受け入れ、死を惜しむことなく、ただ国と父を思う心を記した。
「天下はいまだ定まらず、戦乱の影が絶えません。陛下におかれては、私情を去り、黄老の術を修め、精神を養い、思慮を深めて無窮の基を定め給え」と、政における節度と養生の必要を諫めた。
後継をめぐっては、皇子・孫和こそ仁孝聡明、清らかな徳行を備えており、速やかに立てて民望をつなぐべきだと進言した。
さらに、「太子府の人材を列挙する」節では、諸葛恪を「才略に富む者」と評し、張休・顧譚・謝景らを「聡敏にして断を下す力あり」、范慎・華融を「剛直にして節を重んずる」、羊衜を「弁に巧く応対に長じ」、刁玄を「志高く真を踏む」、裴欽を「博識にして文才豊か」、蔣脩・虞翻を「節義明らかなる者」として挙げた。
さらに上大将軍・陸遜を「忠勤の臣」、諸葛瑾・歩隲・朱然・全琮・朱拠(朱據)・呂岱・吾粲・闞澤・厳畯・張承・孫怡らを並べ、これらを用いて「法を整え、煩政を除き、士馬を養い、百姓を撫循すれば、数年のうちに戦わずして天下安からん」と論じた。
文の末で孫登は「鳥の将に死せんとしてその鳴くや哀し、人の将に死せんとしてその言や善し」と述べ、自らの言が忠誠から出た真心の進言であることを示し、「陛下がこの言を心に留めてくだされば、臣は死してなお生けるも同じです」と結んだ。孫権はこの上疏を読み、深く悲しんで涙を流したと伝えられる。
この上疏を読み、孫権は深く悲しんで涙を流したと伝えられる。
孫登は三十三歳にして薨去し、句容にて葬られ、園邑を置き三年守られた後、蔣陵へ改葬された。
その功績を讃えられ、「宣太子」の諡を贈られた。
孫登の死後と後世の評価
孫登の薨去は、彼をよく知る者たちにとって深い衝撃であった。とくに豫章太守の謝景は悲しみに耐えられず、職を放り出して奔走し、自ら詔表を奉じて罪を謝した。
これに対し孫権は、「君は太子に仕えた者である。他の吏とは違う」と述べ、咎めるどころか慰労の使者を遣わして職に復させた。
この一件は、孫登がどれほど深い人望を集めていたかを示す象徴となった。
孫登には三人の子がいたが、長子・次子は若くして世を去り、三子の孫英が呉侯に封ぜられた。
五鳳元年(254年)、孫英は大将軍・孫峻の専横を憎み、誅殺を試みるも、計画が露見。自ら命を絶ち、国は除かれた。
『呉歴』には、孫和が無実の罪で殺された際、民が憤り、前司馬・桓慮が将吏を集めて孫峻を討ち、孫英を擁立しようとしたが、発覚して全員処刑されたという。孫英はこの謀議を知らなかったと伝えられている。
『三國志』の著者・陳寿は、孫登について「その志と心は、十分に立派で、美しい徳と呼ぶに値する」と評している。
その夭折は、ただ惜しまれるだけでなく、呉にとって重大な損失であった。
彼の死の後、孫和と孫霸の二宮争いが勃発し、呉の後継問題は混迷を深めることとなった。
もし孫登が生きていれば、呉の歴史は、まるで違った姿をしていたかもしれない。
参考文献
- 三國志 : 呉書十四 : 孫登傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二 : 呉主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十六 : 潘濬傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十七 : 是儀傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:孫登 – Wikipedia
孫登のFAQ
孫登の字(あざな)は?
字は子高(しこう)です。
孫登はどんな人物?
仁厚で慎重な性格で、士人と広く交わり、常に民を思う太子でした。
孫登の最後はどうなった?
赤烏四年(241年)に病没し、諡号は宣太子とされました。
孫登は誰に仕えた?
呉の初代皇帝孫権に仕え、皇太子として政治と軍事を補佐しました。
孫登にまつわるエピソードは?
孫権が魏の合肥新城へ攻め込む中、孫登は建業にて統制して、乱を速やかに鎮めました。






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