賀邵:暴君の孫皓を諫めて拷問死した最後の忠臣【すぐわかる要約付き】

賀邵

1分でわかる忙しい人のための賀邵(がしょう)の紹介

賀邵(がしょう)、字は興伯(こうはく)、出身は会稽山陰、生没年(227~275年)

賀邵は三国時代の呉に仕えた重臣であり、名将賀斉の孫にあたる。
若くして学問に優れ、錢塘の学者・范平に師事した。孫休の時代には中常侍に任じられ、誠実で清廉な性格から政務に信を置かれた。
孫皓の代には呉郡太守として豪族を弾劾し、のちに左典軍・中書令・太子太傅に昇進して太子孫瑾を輔佐した。
だが暴政を極める孫皓を諫めたことで憎まれ、誣告を受けて拷問の末に殺害される。
その高潔な人格は後世まで語り継がれ、陳寿は『厲志高潔、機理清要』と評している。

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賀邵を徹底解説!孫皓の暴政に抗した清廉の忠臣とその悲劇的最期

名門賀氏の後裔としての出自と学問修養

賀邵は会稽山陰に生まれた。賀氏は代々この地に根を張る名家で、祖父の賀斉は呉の宿将として山陰侯に封じられ、父の賀景もまた武官として名を成した。
こうした家柄に育った賀邵は、幼いころから学問に親しみ、姚信と共に呉郡の儒者・范平に師事して学識を深めた。経書と史書に明るく、礼節を重んじる人物として知られるようになる。

『世説新語』には、賀邵が常に襪(くつした)を履き、いかに親しい間柄であっても素足を人前に晒すことはなかったという逸話が記されている。
彼の身だしなみに対する几帳面さと、内に秘めた慎みの深さを象徴するものとして、後にもしばしば語られることとなった。

孫休期の仕官と中常侍への昇進

永安元年(258年)、孫休が即位すると、中郎に任じられていた賀邵は、王蕃・薛瑩虞汜らと共に散騎中常侍へと昇進した。
この職は皇帝の側近として政務や詔勅を扱うもので、政治の中枢に近い地位であった。
さらに、賀邵には駙馬都尉の官が加えられ、その後、地方に出て呉郡太守を務めた。

孫皓政権下での弾劾と清廉な政治姿勢

元興元年(264年)、孫皓が即位したのちも、賀邵はそのまま呉郡太守として在任していた。
ところが、赴任後しばらく政務に出てこなかったため、地元の有力豪族たちは「気の弱い飾り物」と見なし、完全に油断していた。

ある日、彼の官署の門に誰かが「会稽の鶏は鳴くことができない」と落書きを残す。
これは「会稽出身の賀邵は声も出せぬ臆病者」と言わんばかりの悪口だったが、賀邵はそれを見て、さらりと一筆加えた。
「鳴くことができなくとも、呉の子を殺す」

この返しに、門前は凍りついた。
その言葉通り賀邵がついに動いた。彼は顧氏・陸氏など有力豪族の邸宅を一軒ずつ洗い出し、官兵の私用や逃亡民の匿いを徹底調査し、すべての証拠をまとめて中央に上奏した。

この一件で多くの豪族が処分され、勢力は一気に沈黙した。江陵都督の陸抗が直々に「どうか赦してやってほしい」と嘆願しなければ、さらに波紋は広がっていたという。

この事件をきっかけに、賀邵は「口数少ないが、やるときはやる太守」として一目置かれるようになり、その清廉と剛直は都にも響いた。
のちに左典軍・中書令を経て、太子太傅として孫瑾の教育を任されるに至った。

孫皓への諫言

孫皓の治世が進むにつれ、朝廷には恐怖と沈黙が広がっていた。
王蕃は処刑され、陸凱もすでに世を去り、忠臣と呼べる者は指で数えるほどになっていた。
鳳凰元年(272年)、賀邵はただ一人、筆を執って上疏した。

その内容は痛烈で、孫皓の政治の過ちを一つひとつ指摘するものであった。

  • 古の聖王は賢臣を任せて天下を治めたが、今の呉は佞臣ばかりが権を握り、忠臣は潰され、政は腐っている。
  • 孫皓は奥の宮で甘言だけを聞き、天下は安泰と思い込み、現実の荒廃を見ようとしない。
  • 王蕃を酒の罪で殺し、葛奚を毒したせいで、忠義の士は口を閉ざし、諂う者だけが生き残った。
  • 何定のような小人を重用し、民を酷使して無益な事業を繰り返した結果、兵も民も疲弊し、天は怒り地は揺れた。
  • 天変は小人の専権のしるしであり、昔の王のように徳を修めて佞臣を退け、俊才を登用せねば国は救えない。
  • 民を草のように扱い、法を厳しく賦を重くしたため、百姓は飢え、兵は裸足で戦い、後宮だけが満ち足りている。
  • 北の晋は呉を狙っているのに、長江を頼みにしている。徳を修め民を養わねば、蜀のように一瞬で崩れる。
  • 民を赤子のように見るとき国は興る。だが今の呉は民を草として踏みつけ、天も地も見放そうとしている。

これだけ書けば、怒らせるに決まっているが、その筆はまっすぐに政の膿を刺し、誰もが避けた禁忌を文字にした。
当然、孫皓は激怒し、賀邵への風当たりは強まる。

だが、みな沈黙を選ぶ中で、最後まで声を上げたことが、賀邵という人間の値打ちだった。

悲劇的な最期

清廉な者ほど、濁った宮廷では煙たがられる。
賀邵の正直さは、やがて権を握る近臣たちの恐れと嫉妬を呼んだ。
彼らは口を揃えて「賀邵と楼玄が政を批判している」と讒言を仕立て、二人は宮中に召し出される。
取り調べの結果、楼玄は広州へ左遷され、賀邵は明確な罪には問われなかったが、降格を経て職を戻された。
だが、孫皓の胸の中に残った疑念の棘は抜けず、彼の立場は薄氷の上を歩くようなものとなった。

その後、賀邵は中風を患い、言葉を失い、やむなく職を辞した。
だが、孫皓はそれすらも仮病と疑い、彼を捕らえて酒庫へと押し込めた。
酒の匂いが染みつく暗がりで、千度にも及ぶ拷問が繰り返された。
それでも賀邵は、ついに一言も漏らさなかった。

天冊元年(275年)、拷問の末に命を奪われる。享年四十九。
家族は臨海へ流され、楼玄の一族もまた同じ運命にあった。
『世説新語』には、孫皓は焼けた鋸でその首を挽かせたとあり、その最期は極めて苛烈なものであった。

子の賀循は晋の時代に太史・太常卿にまで昇進し、死後は司空を追贈されて、血脈をつないでいる。

高潔な人格と後世の評価

賀邵は生涯を通じて清廉で節度を保ち、公務においては常に正義を重んじた。
身なりや暮らしぶりも整っており、誰と会うときも礼を欠かなかったと伝えられている。

同じ時代の重臣・陸凱は、賀邵を楼玄・張悌・薛瑩らとともに挙げ、「皆が国家を支える柱石であり、社稷の良輔である」と称えた。
『三国志』の陳寿も、「賀邵は志を厳しく保ち、節操は高潔であり、思考は明晰で、話すことも的確であった」と記している。
また、胡沖は「楼玄・賀邵・王蕃の三人はいずれも清らかで優れた人物だ」と述べ、
陸機も『辨亡論』の中で、賀邵を名臣の一人としてあげている。

こうした記録にある「清廉」「思慮深い」という言葉は、賀邵の生き方を語るには軽すぎる。
彼は正義を語ることで命を削ると知りながら、それでも筆を止めなかった。
怒りを買うとわかっていて、諫めて最後には言葉そのものを奪われて死んだ。

賀邵は「正しさは報われずとも、沈黙よりまし」という生き方で、それを証明した。

参考文献

賀邵のFAQ

賀邵の字(あざな)は?

賀邵の字は興伯(こうはく)です。

賀邵はどんな人物?

賀邵は三国時代の呉に仕えた重臣で、正義感が強く、清廉な政治を行った人物です。

賀邵の最後はどうなった?

天冊元年(275年)、孫皓に仮病を疑われ、拷問の末に殺害されました。享年四十九歳でした。

賀邵は誰に仕えた?

賀邵は呉の孫休と孫皓に仕えました。孫皓の時代には中書令・太子太傅を務めました。

賀邵にまつわるエピソードは?

賀邵は呉郡太守として在任中、顧氏と陸氏の豪族を奏上して弾劾し、権勢家に屈しなかったことで知られています。

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