岑昏:孫皓に重用された佞臣で晋の呉侵攻で群臣に討たれた最期

岑昏

岑昏(しんこん)とは?孫皓に重用された呉の佞臣の栄華と滅亡

孫皓に取り入り衛尉に昇進

岑昏(しんこん)、字は不詳、出身は南陽郡棘陽県、生没年(?~280年)

彼は孫皓に取り入って重用され、宮中の警備や儀礼をつかさどる九卿のひとつ、衛尉に任じられた。
それまで目立たぬ存在だった岑昏は、このポジションを足がかりに一気に権力を手にし、孫皓の側近として振る舞うようになる。

ただしその政治姿勢は、端的に言えば「迎合と追従」だった。
奢侈を好み、猜疑心の強い孫皓に合わせるように、土木事業を乱発。宮殿の増築や派手な造営に熱中し、その負担はすべて民衆へと回された。

こうした点から、岑昏は佞臣として非難されることが多い。
だが完全な冷血漢というわけでもなかったようで、かつての名臣・張紘の孫にあたる中書令・張尚が孫皓の怒りを買って拘束されたとき、岑昏は百人を超える公卿を率いて命乞いを行っている。
孫皓はこれを聞き入れ、張尚は無事釈放された。

つまり岑昏は、権力に取り入る計算高さと、時に人情を見せるしたたかさを併せ持った人物だったと言える。

晋の侵攻と最期:群臣に討たれた佞臣の末路

天紀四年(280年)、晋の大軍が呉を攻め、情勢はあっという間に傾いていく。
長江を越えてなだれ込む晋軍の前に、呉の防衛線は踏ん張る間もなく崩壊した。

国が揺らげば、宮中も揺れる。
日頃から鬱積していた不満が限界を超え、ついに三月丙寅の日、殿中の近臣数百人が孫皓の前にひれ伏して叫んだ。「岑昏を処刑せよ」と。

『三國志』によれば、孫皓はこの突き上げに動揺しつつも、その要求を認めたとされる。
『晋紀』にはもっと生々しい描写があり、「北から敵が迫っているのに、軍が動かぬのは岑昏のせいだ」と責め立てられた孫皓が、「ならば彼を犠牲にして、民の怒りを鎮めよう」と応じたという。
その一言が合図となり、群臣たちは一斉に岑昏を捕えた。

孫皓はその後、気が変わったのか処刑を取り消すよう命じた。
だが時すでに遅く、使者が到着する前に岑昏は殺されていた。

こうして、かつて衛尉として権勢をふるった佞臣は、混乱の中で自らの終幕を迎えることとなった。
国の命運は変わらなかったが、せめてこの粛清劇が、民衆の苛立ちに少しだけ水をかけたかもしれない。

参考文献

岑昏のFAQ

岑昏の字(あざな)は?

字は不明です

岑昏はどんな人物?

孫皓に重用された佞臣です。主君に迎合して土木事業を乱発し、国政を乱しました。

岑昏の最後はどうなった?

天紀四年(280年)、晋の侵攻が迫る中、群臣に処刑を求められ、孫皓の許可を得て殺害されました。

岑昏は誰に仕えた?

呉の最後の皇帝・孫皓に仕えました。

岑昏にまつわるエピソードは?

中書令の張尚が孫皓の怒りを買って拘束されたとき、岑昏は公卿百余人を率いて助命を嘆願し、張尚を救いました。

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