【1分でわかる】王沈の生涯:司馬昭に忠義を尽くした文臣か、裏切り者か【徹底解説】

一般文官

1分でわかる忙しい人のための王沈の紹介

王沈(おうちん)、字は處道(しょどう)、出身は太原郡晋陽県、生没年(3世紀~266年)
若くして文章の才能を認められ、大将軍曹爽に仕えるも、主の失脚により一時免職。その後復帰し、秘書監や散騎常侍などを歴任し、『魏書』の編纂にも関わるなど文筆官僚として名を馳せた。
だが彼の名が歴史に刻まれるのは、魏帝曹髦の討司馬昭計画を密告した裏切りの行動。結果的に曹髦は殺され、王沈は功績として侯に封じられるが、世人からは「主に不忠」と糾弾される。
晋朝成立後も重用され博陵県公となり、泰始二年(266年)に没。文人としても政治家としても栄達したが、最後まで評価は二分された。

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王沈を徹底解説!裏切りと栄達の二律背反

投機と忠誠のはざまで:若き日の王沈と曹爽との関係

父を早くに亡くし、叔父・王昶に育てられた王沈。恵まれた家庭環境とは言えないが、文章の才能を武器に出世街道を歩み始める。
大将軍・曹爽の目に留まり、掾に抜擢される。まるで就活で最終面接に受かった新卒のような喜びだったろう。
調子に乗って羊祜をスカウトしたが、彼には「そんな簡単に人に仕えるとか軽すぎ」と諭され、悪徳ブラック企業の勧誘みたいな扱いを受けて撃沈。
数年後、曹爽が粛清されると、王沈も元部下として連座。人生ゲームで言えば「1ターン休み」的な脱落劇である。

転んでもタダでは起きない:再起と学者としての王沈

とはいえ、王沈は倒れてもただでは起きない男。治書侍御史から復帰し、秘書監へ、さらには散騎常侍・侍中と着実に昇進。
職務は文献と書類管理、いわば「国立中央図書館」の館長みたいな役回りだが、政治の中心にも手を伸ばしていたあたり只者ではない。
荀顗・阮籍と共に『魏書』を編纂したが、内容は「司馬氏に都合が良すぎて逆に不自然」と後に酷評される。
それでも帝・曹髦からは“文籍先生”と呼ばれ、地味だが信頼される存在。例えるなら、全校生徒に信頼されてる教頭先生。

裏切り者の烙印:曹髦討伐計画の密告とその代償

甘露十年(260年)、帝・曹髦が「司馬昭ぶっ潰す」と密かに決意し、王経、王業、王沈と極秘会議を開く。
だがその数日後、王沈と王業の“通報コンビ”が司馬昭に密告する。
この密告により曹髦は討たれ、王沈は「よくやった」とばかりに安平侯に封じられ、二千戸の領地ボーナスまでゲット。
だが、世間の反応は冷ややかで「不忠者」「裏切り者」と罵声を浴びる日々となる。

司馬政権下での生き残り術:晋における王沈の晩年

晋朝成立後、王沈は尚書に任じられ、博陵県公にまで昇進する。結果だけ見れば勝ち組の人生である。
晋武帝・司馬炎は王沈に政務全般を任せようとしていたが、そんな矢先に彼は没する。まるで最終回直前に主人公が退場するドラマのような展開。
死後は「元」の諡を贈られ、郡公に追封される。著作『王処道集』は全5巻だったが、現存は『全晋文』に収録された14編のみ。
生前の活躍とは裏腹に、後世への遺産は思いのほか少なかった。

政争と文学の狭間で:王沈をどう評価するか

王沈の人生には、失業・出世・文学・裏切り・栄達という政治ドラマが凝縮されている。
その処世術は「したたか」というより「したたかすぎる」レベルで、現代企業でも通用しそうな社内政治の達人ぶりを発揮した。
とはいえ、「忠義を捨てて栄達を選んだ」と批判されるのも事実。だが、混乱の時代を乗り切るには、それも一つの生存戦略だったのかもしれない。
息子・王濬は父と異なり、武の道で名を上げた。おそらく文人としての父に対する反発心もあったのだろう。
王沈は、風に流された男か、それとも風を読む力を持った男か。評価は読み手に委ねられている。

参考文献

FAQ

王沈の字(あざな)は?

王沈の字は處道(しょどう)です。

王沈はどんな人物?

王沈は魏から晋にかけて仕えた政治家で、文章に優れ典籍の編纂にも関わった人物です。ただし権力に迎合する一面もあり、その行動は世評の非難を受けました。

王沈の最後はどうなった?

西暦266年に亡くなり、諡号は「元」とされました。

王沈は誰に仕えた?

主に曹魏の曹爽や曹髦、のちに司馬氏を中心とした晋に仕えました。

王沈にまつわるエピソードは?

曹髦が司馬昭を討とうとした際、これを密告して曹髦が殺される原因を作り、その功で封爵を受けた逸話で知られています。

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