1分でわかる忙しい人のための羊祜の紹介
羊祜(ようこ)、字は叔子(しゅくし)、出身は泰山郡南城、生没年(221~278年)
後漢の名臣・蔡邕を外祖父に持ち、姉は司馬師の皇后。血筋と才覚に恵まれながら、若き日には官職を辞退し、静かに時を見つめていた男。
司馬昭や司馬炎に重用され、中書侍郎・尚書左僕射・征南大将軍・太傅を歴任。荊州では武よりも徳と信義で民と敵将の心を掴み、「羊公」と慕われた。
西陵の戦いで敗れたものの、信義を通して呉の将兵を揺さぶり、呉平定の土台を築いた。死後には杜預が後を継ぎ、その戦略が実を結んで呉は滅亡。
平和と統一を求め続けた静かなる猛者、彼の知略と人間力は、数々の賛辞とともに歴史に刻まれた。
羊祜を徹底解説!荊州を和で治め、呉の民心をも奪った男の信義と静謀
泰山名門の出、若き才子としての礎
父は上党太守の羊衜、母は東漢名臣・蔡邕の娘という血統筋金入りの名門育ち。姉の羊徽瑜は司馬師の皇后となり、後の武帝・司馬炎とは堂親の関係になる。
とはいえ、ただの親戚パワー頼みではない。少年時代から博覧強記、身長176センチの体格と品の良い顔立ちもあって、評判は上々だった。
その人となりを見抜いたのが夏侯威。兄・夏侯覇が蜀に亡命していたことを理由に避けられてもおかしくない立場だったが、羊祜はまったく意に介さず。むしろ彼の娘を娶り、妻家への配慮も怠らなかったという。
その後、母と長兄を次々に亡くし、羊祜は十余年もの間、官職にも就かず隠遁生活を送る。
世の名門にありがちな「家を売ってでも仕官」スタイルとは真逆。黙して語らず、慎み深く生きるその姿が、やがて彼の真骨頂となる。
曹魏政権下の慎重な歩みと慧眼
羊祜が最初に声をかけられたのは、あの曹爽だった。
王沈とともに府に招かれたが、羊祜は静かに首を振る。「人に仕えるのは、簡単に決めることではない」と。
それを聞いた王沈はスルーして曹爽に仕え、後にその余波で失職。時が経つにつれ、彼は羊祜の判断力に舌を巻くことになる。
やがて時代は司馬昭へと移る。羊祜は中書侍郎や秘書監、さらには相国从事中郎といった中枢ポストを歴任していくが、どれも「やらされる」形であって、自らポストに飛び込むことはなかった。
五府からの召命すら辞退し続けた男が、権勢の只中にいるという奇妙な矛盾。
それは彼が「仕えるべき時」と「仕えるべき主」を見極めていた証左に他ならない。
「慎重」という言葉は、時に腰抜けの免罪符として使われる。
だが、羊祜の場合は違う。誰にも媚びず、時の流れを冷静に測りながら、必要な時にだけ一歩踏み出す。
その歩みの遅さこそが、彼の慧眼を際立たせていた。
荊州都督としての統治と信望
泰始五年(269年)、羊祜は荊州都督に任じられる。
この地は呉との最前線であり、軍政両面での統治力が求められた。
だが羊祜はあえて武を振るわず、柔らかい手で局面を掴みにかかる。
敵の駐屯する石城を、正面から攻めるのではなく、兵站の偽情報で撤退させるという策を用いた。
また、長期戦を見越して屯田を展開し、自給自足の地盤を築いていく。
その統治方針は一貫して穏やかであり、
民からの反発を抑えつつ、地元に根を張ることを最優先した。
この時点では、まだ「征伐よりも信望で動かす」という手法は、果たして通じるのか半信半疑でもあった。
西陵の敗戦と自省、その後の信義戦略
泰始八年(272年)、西陵の呉将・步蘭が城ごと晋に寝返った。
呉の懐を切り裂く好機、羊祜は即座に兵を動かし、徐胤とともに西陵へ向かった。
だが、迎え撃ったのは、呉きっての守将・陸抗。
羊祜が陸抗の背後を突こうと楊肇を迂回させた途端、その楊肇が伏兵に遭い壊滅。
西陵の步蘭は捕まり、救援も無駄に終わる。
結果、羊祜軍八万は、三万の敵に翻弄されただけで終わった。
「命令に背き、兵を無駄にし、敵に主導権を与えた」
戦後に下った弾劾文は、こう言わんばかりだった。
「かなり兵力差あったよね?勝てなかったの?」
結果、羊祜は罪を問われ、平南将軍へ左遷された。
凡庸な将ならここで終わるが、この挫折が羊祜を変えた。
それ以降、彼の行動はさらに慎重さを増し、軍事と懐柔を併せた「信義」に基づく戦略へと転じていく。
荊州の人々は彼に心を寄せ、「羊公」と呼び敬意を表するようになる。
彼の名が単なる将ではなく、徳の象徴として語られ始めたのはこの時からである。
陸抗との不戦関係と「羊陸の交」
荊州を挟んでにらみ合う晋と呉。
その最前線に立った羊祜と陸抗の間に生まれたのは、意外にも「敬意と信頼」だった。
戦場にあっても、ふたりは互いに書簡を送り合い、体調を気遣うようなやり取りさえ交わしていた。
陸抗が重病になると、羊祜はすぐに良薬を贈る。
陸抗は「羊祜が毒を盛るはずがない」と言って、そのまま服用したという。
さらには、陸抗が酒を送れば羊祜も素直に受け取る。
もはや前線というより、文通の舞台のような状態だった。
この間、荊州では戦火が一切起きず、ふたりの関係は「羊陸の交」と呼ばれて後に伝わる。
「敵将に薬を送る」と聞けば、芝居がかった友情物語かと思う。
だがそこにあったのは、計算ではなく、ごく静かに積み重ねられた信の重さだった。
呉征伐構想と王濬の抜擢:策の布石
征南大将軍に任じられた羊祜は、属官の任命すら病に伏すまで引き延ばした。
慎重というより、もう腰が重いにもほどがある。
だが、この男のやる気スイッチは一度入ると鋭い。
呉の地で子供が歌う童謡に、軍略の神髄を見出す。
「阿童よ、刀くわえて江を渡れ。陸の獣より水の龍が怖い」
意味不明の歌にピンときたのが、あの王濬(幼名:阿童)だったのが運の尽き。
羊祜は王濬を益州に留め置き、内密に軍船を造らせ始める。
武帝もうなずき、王濬は「龍驤将軍」に就任する。
名前も役職も水攻め専用。誰が見ても察しがつく布陣だった。
軍備が整った羊祜は武帝にこう上奏する。
「孫皓の暴政に民心は離れています。今こそ一気に呉を討つべきです」
武帝も大いに賛同した、・・・まではよかった。
その頃、晋は秦涼でボロ負けしており、宮廷では「今は時期尚早」の大合唱。
策はまた棚に戻され、羊祜の地道な準備だけが、黙って未来の地図を描き続けていた。
壯志未酬:病床からの最期の進言
278年、羊祜は病に倒れた。
それでも呉征伐を訴えるべく、洛陽へ赴き上奏する。
「孫皓が死ねば、呉に新たな明君が立つ。今を逃せば、後はない」
軍備を整えたうえでの、この最後の訴えだった。
司馬炎は中書令・張華を派遣し、羊祜の進言を聞かせた。
羊祜は、後継に杜預を推し、自らの死が近いことを悟っていた。
同年十二月、羊祜は五十八歳で没す。
朝廷は太傅を追贈し、荊州では市が止まり、呉の兵ですらその死を悼んだ。
彼を慕った襄陽の民は、岘山に廟を建て「羊公碑」を立てる。
後に訪れた者が皆涙したことから、その碑は「堕涙碑」と呼ばれるようになる。
二年後、杜預が西陵を急襲して呉を平定。
晋の群臣が武帝を祝うと、武帝は杯を掲げて涙をこぼした。
「これは羊太傅の功である」
そして使者を遣わし、廟に策文を奉じ、ようやく呉征伐の成功を彼に報告したのだった。
不戦の英雄、その死後に語られる羊祜
羊祜という人物を一言で表すのは難しい。
だが、あえて選ぶなら「潔癖な官僚主義者」だろう。
推挙しても名を伏せ、草稿はその場で焼却、善行すら履歴書に書かない。
忠義にもほどがある、という話だ。
王戎・王衍とは犬猿の仲だった。
軍法で斬りかけたとか、悪風をまき散らすなとか、その喧嘩は陰湿というより、ガチだった。
一方で傅玄とは喪礼の在り方をめぐって議論。
「三年喪を復活させるべき」と古礼を説く羊祜に、傅玄は「いや、それ、今やると逆効果」と返す。
結果、羊祜は静かに撤回する。潔癖だが、頭は固くない。
そんな彼の姿勢は、死してから評価される。
晋書には「恩信」で百万人が帰服したとあり、司馬炎も「羊太傅の功績」と涙を流した。
形式を嫌い、名誉に無頓着だった男が、死後に祭られ、石碑に讃えられた。
また、唐代には武廟六十四将に数えられている。
「不戦の英雄」として後世に語られるのは、戦わずして心を掴んだ力が、何より強かったからかもしれない。
参考文献
- 参考URL:羊祜 – Wikipedia
- 晋書 羊祜伝
- 資治通鑑
- 太平御覧
- 晉陽秋
FAQ
羊陸の交わりとは?
晋の将軍羊祜と呉の将軍陸抗が、国境を挟んで敵対しながらも、互いの才覚を認め合い、私的な友情を育んだことを指す言葉です。
羊祜と陸抗の認め合った関係は?
陸抗が病に伏した際、羊祜は薬を贈り、陸抗は敵にもかかわらず、薬を飲みました。
陸抗は、そのお礼として羊祜に酒を贈りました。毒見をせずにその酒を飲み干しました。
羊祜は誰に仕えた?
司馬昭、司馬炎に使えました。
羊祜の最後はどうなった?
278年、病没します。
羊祜はどんな人物だった?
魏から西晋にかけて活躍した武将・政治家で、清廉潔白で徳のある人柄から敵国の将軍である陸抗からも尊敬された人物です。
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