1分でわかる忙しい人のための潘濬(はんしゅん)の紹介
潘濬(はんしゅん)、字は承明(しょうめい)、出身は武陵郡漢壽県、生没年(?~239年)
三国時代の呉で重職を務めた政治家であり、正直不屈の性格で知られる人物である。若くして学問を修め、宋忠に学び、山陽の王粲に認められて世に出た。
劉表により江夏太守黄祖の従事に任ぜられ、腐敗官吏を粛正して名声を得る。その後、劉備の下で荊州の治中従事を務めたが、建安二十四年(219年)に孫権が荊州を奪取すると呉に仕える。
孫権の信任を受け、輔軍中郎将・奮威将軍・太常などを歴任し、荊州の統治と五溪蛮夷の平定に尽力した。
黄龍三年(231年)には呂岱・施績らとともに五万の軍を率いて武陵の乱を鎮圧。清廉で厳正な官僚として知られ、孫権にも幾度も諫言を行い、呂壹の専横を抑えるなど正義感の強い政治家であった。赤烏二年(239年)に没し、子の潘翥が爵位を継いだ。陳寿は「公清割断」と評し、陸凱と並ぶ呉の節義のある臣として記録されている。
潘濬を徹底解説!荊州統治と五溪平定で名を残した呉の正義官僚
若き日の学問と才能の開花
潘濬が学問にのめり込んだのは、二十歳になったころ。
後漢末の儒学者・宋忠に師事し、法理と政道を徹底的に叩き込まれた。
やがて、その才は王粲の目に止まる。
あの建安七子の一人、文学と弁舌の粋を極めた王粲が、「この若造、治国の器を備えている」と評したのだ。
この推薦一つで、潘濬の名は荊州一帯へと広がった。
人を見抜く目に定評のある人物が「将来の本命」扱いをすれば、周囲の目は手のひら返しである。
その後、劉表が目をつけ、江夏の従事に登用される。
赴任早々、沙羨県の長が賄賂まみれと聞いて、潘濬はすぐさま調査に乗り出す。
証拠を突きつけ、逃げ場を与えず処刑に踏み切った。
この一件で郡中の空気は一変し、「これはヤバいのが来た」と官吏たちは肝を冷やした。
のちに湘郷県令となり、彼の行政スタイルはさらに徹底される。
法は万人に等しく、礼は秩序の礎。富者の増長は許さず、貧者の訴えに耳を傾ける。
まるで、道徳教本をそのまま実演しているような県政で、彼の名声はまた一段上へと押し上げられた。
劉備政権下での荊州勤務
建安十三年(208年)、赤壁の戦いでの勝利を経て、劉備が荊州を掌握すると、潘濬は治中従事に任命される。
「はい、今日から君が全部やってくれ」という丸投げに近い政務総覧のポストだが、それを任されるのだから信頼は絶大だった。
当時の荊州は、戦乱の余波で行政機構が崩れかけていた。役所の帳簿は滅茶苦茶、納税記録は不明、そして官吏たちは責任の押し付け合い。
その中で潘濬は、一つ一つの案件に対処し、滞った統治を地道に立て直していく。
建安十六年(211年)、劉備が益州に侵攻することとなると、潘濬は荊州に残され、政務全般を託された。
まさに「国を空ける間の留守番」であり、潘濬一人で荊州政権の屋台骨を支えることを意味する。
武勇でもなければ名門でもないが、行政という地味な武器で、彼は劉備の背中を支えていた。
孫権への転属と荊州統治への転換
建安二十四年(219年)、関羽が討たれ、荊州の主が劉備から孫権へと入れ替った。
戦場の勝敗は一瞬だが、政治はその後が本番となる。
その中で、かつて劉備政権の屋台骨だった潘濬にも、転機が訪れる。
孫権は彼の能力を見込んで「うちで働かないか」と声をかけた。
だが潘濬は「病気で寝ています」と面会を辞退。お決まりの方便ではあるが、そこには「かつての主への義」という名の情緒も混じっていた。
ところが孫権は、彼の人柄と才能を惜しみ、自ら彼のもとを訪問し、寝床に伏す潘濬の涙を見て語りかける。
「承明(潘濬)よ、丁父も彭仲爽も捕らわれながら楚の名臣となった。志は主に尽くすものではなく、場に尽くすものだ。
卿だけが殻にこもっていては、古人に劣るということになろうぞ」
そして、自ら手巾を取り、潘濬の顔を拭った。
それはただの懐柔ではなく、器と誠意の演出だった。
潘濬はその言葉に胸を打たれ、ついに起き上がり、拝礼する。
そして彼は荊州の防衛線や軍備体制を語り尽くし、その知見は孫権に高く評価された。
結果、輔軍中郎将に任ぜられ、のちに奮威将軍へと昇進、常遷亭侯に封じられる。
さらに奮武中郎将・芮玄の死後にはその軍を継ぎ、夏口に駐屯した。
陸遜とともに武昌に拠点を構え、荊州の軍政を掌握し、呉の南方支配の骨格を築く。
彼の忠義と実務は、国が変わっても鈍らず、むしろ新たな舞台で鋭さを増していった。
武陵の叛乱鎮圧と戦略眼
荊州が呉のものとなったあと、南方の武陵で騒ぎが起こる。
従事の樊伷が五渓蛮をそそのかし、まさかの蜀帰属を画策。
これを聞いた孫権は、「さて、どれくらいの軍勢を差し向けるべきか」と潘濬に意見を求めた。
潘濬は一拍も置かずに、五千で十分ですと答える。
孫権は驚き「相手を侮っているのではないか?」と聞くと潘濬は淡々とこう評した。
「樊伷は口だけで、実行力がありません。以前、宴席で昼を過ぎても食事が出ず、客が十人以上も帰ってしまった。そんな男に軍を動かす器はありません」
このあまりのロジカルすぎる人物評価に、孫権は腹を抱えて笑った。
そのまま五千の兵で出陣した潘濬は、見立て通りに叛乱を鎮圧する。
さらに零陵北部都尉・習珍が呼応し、自ら邵陵太守を名乗って反旗を翻すと、潘濬は何度も降伏を促した。
だが習珍は「我は漢に恩あり、呉の臣となる気はない」と言い残し、自ら剣を取って果てたという。
ただ鎮圧するだけでなく、敵の器量を見極め、必要以上の兵を使わずに治める。
この戦で潘濬の名は、呉政権内でも荊州の柱へと格上げされた。
太常としての五溪平定戦
孫権が帝位に就くと、潘濬は少府から太常へと昇進し、劉陽侯に封じられる。
この頃、孫権の次子の孫慮に娘を嫁がせている。
まさに出世街道を突き進む中、黄龍三年(231年)、南方の五渓でまたもや火の手が上がった。
騒ぎの元は例によって蛮族である。孫権は即座に潘濬を総大将に任じ、呂岱・施績(朱績)・呂拠ら歴戦の副将たちを従えて、五万の兵を預けた。
出発早々から、潘濬は鬼のごとく軍律を整える。
「遅刻、サボり、内輪揉め、全部アウト」
実際、兵士が気を抜けばその場で処分される有様で、士気というより緊張感がピンと張り詰めていた。
とはいえ、指揮は的確で、諸将もその采配に従って持ち場を固め、反乱勢力の包囲網を着実に狭めていく。
潘濬の統制のもとで呉軍は次第に優勢となり、捕えられた者・討たれた者は数万に及んだ。
長く悩まされてきた五渓の地はようやく静まり、潘濬の名声もぐっと跳ね上がった。
勝利に沸く中、歩隲が「諸郡から強者を募って予備兵力を」と提案する。
これに対して潘濬は「そんなことをすれば民間の豪族が勝手に私兵を持ち出し、後で国の火種になる」とバッサリ斬り捨てた。
孫権は納得してその案を取りやめたという。
この遠征をもって、荊州から南方の秩序はようやく落ち着きを取り戻す。
潘濬の采配は、ただの平定ではなく、帝国の地固めと呼ぶにふさわしい一手だった。
潘濬の性格と諫言の数々
潘濬は誰に対しても言うべきことはズバリ言い、主君だろうが名士だろうが、お構いなしだった。
たとえば孫権が雉撃ちに夢中になっていた頃のこと。
「まだ天下も片付いておりませんのに、鳥を追いかけてる暇はありません」とストレートな諫言。
さらに彼は、雉の羽で飾られた車の蓋を真っ二つに壊して見せた。
「これを楽しむ余裕など、いまの呉にはない」
このパフォーマンスに孫権も黙り、以後は狩りを控えるようになった。
同じく、豫章の中郎将・徐宗が部下の扱いにだらしないと見るや、迷わず処刑する。
相手は名望ある名士だろうが、「ダメなものはダメ」で押し通した。
この裁きに、役人たちは肝を冷やしたという。
さらに、降臣の隱蕃があちこちにいい顔をしていた頃。
潘濬はその調子のよさを警戒していたが、息子の潘翥が隱蕃と親しくしていると知ったときはさすがにキレた。
「佞臣と交わるは恥辱である」と手紙でガツンと一喝する。
世間からは「隱蕃は賢才だし、そこまで言わなくても」と冷ややかに見られたが、後に隱蕃が本当に反逆を企てて処刑されると、掌を返して「さすが潘太常」と賞賛された。
このように、主君に媚びず、子にも甘えさせず、名士にも怯まなかった。
蜀との誤解と孫権の信任
建興年間(235年頃)、蜀漢で蔣琬が大将軍に昇進すると、荊州でひと騒ぎが起きた。
というのも、蔣琬と潘濬が親戚関係にあることから、「さては潘濬、蜀と裏でつながっているのでは」という疑惑が飛び交ったのだ。
なかでも武陵太守・衛旌はこの噂を本気で信じ、「密通してます」とばかりに上奏してしまう。
だが孫権は「承明がそんな小細工を弄する器ではない。あれは国を背負う忠臣だ」と、衛旌を咎め官位を取り上げている。
当の潘濬は、言い訳も抗議もせず、ただ通常運転で政務に励み、この騒動に対して沈黙を貫いた。
その姿勢がかえって孫権の信頼を深める結果となり、以後も呉の中枢を任され続けた。
呂壱専権への抵抗と政治危機
孫権政権も末期になると、校事の呂壱が権勢を握り、空気はどこか淀みはじめる。
この男は、性格は棘のように鋭く、法を隠れ蓑にしては人を牢に放り、讒言をもって上書し、政務の空気をどす黒く染めていった。
顧雍、朱拠(朱據)といったベテランの重臣たちすらその毒牙にかかり、投獄される有り様であった。
そのあまりの理不尽さに、潘濬と陸遜は顔を見合わせ、涙を流すしかなかったという。
ただ、ただの感傷で終わる潘濬ではない。
あるとき、呂壱の取り巻きが悪事を働き、建安太守の鄭冑が法に従って取り調べたところ、不幸にも死人が出た。
これを逆恨みした呂壱は、鄭冑を讒言で貶めようとしたが、潘濬と陳表が火の玉のような勢いで弁護し、鄭冑を救い出した。
さらに、黄門侍郎の謝厷が呂壱に「顧雍の後任は潘濬になるだろう。彼はあなたを憎み、会えば真っ先に討ってくるぞ」と聞き、怯えはじめたという逸話も残る。
名前だけで呂壱の心胆を凍らせる恐るべし道徳の圧力であった。
ついに潘濬は、一計を案じて宴席に呂壱を招き、その場で斬る計画を立てた。
しかし、どこからか話が漏れたか、呂壱は「今日は腹の調子が悪いので」と参加を回避する。
狙いは外れたが、潘濬はめげずに上奏を繰り返し、その奸計を徹底的に暴き立てた。
長い粘りの末、ついに呂壱はその座を追われ、誅殺された。
かくして、呉政権を蝕んでいた一つの病巣は取り除かれたのである。
晩年の清廉と死去
歳を重ねても、潘濬の眉間のしわは深くなる一方だった。
あるとき、重安県長の舒燮が罪を犯し投獄された。
この舒燮、かつて潘濬と確執があったようで、彼は迷うことなく「斬っておけ」と主張する。
まわりの官僚たちは「それはさすがに」と止めたが、いつものように耳は貸さない。
そこで現れたのが、孫権の従兄弟・孫鄰である。
彼は「舒燮の一族、舒邵兄弟は義を重んじた名家。中原の者たちが彼の消息を聞いたとき、『潘濬が殺した』などと言われたら、呉の顔に泥を塗ることになる」と諫めた。
この一言が、ようやく潘濬の硬い眉をほぐし、彼は深く息を吐き、死刑を取りやめた。
最後まで、筋を通すことと引き際の判断の両方を失わなかったのである。
赤烏二年(239年)、潘濬はその生涯に幕を下ろす。
法と節を貫いた生涯は、決して華やかではないが、誰よりもまっすぐであった。
彼の死後は、息子の潘翥が家を継ぎ、呉に名を残した。
評価と後世の称賛
潘濬の評価は、時代と視点によって大きく分かれる。
『三國志』の陳寿は「潘濬は公正明断、陸凱は忠実剛直。共に節義の士なり」と称賛している。
歩隲もまた、彼を顧雍・陸遜と並び「国家の柱石たる臣である」と高く評価し、陸機は顧雍・呂範・呂岱と並べ政務を支えた重要人物として名を挙げている。
しかし一方、蜀の楊戲は『季漢輔臣贊』において、潘濬を糜芳・士仁・郝普と並べて「奔臣」と断じている。
かつて劉備に仕えた身でありながら、孫権に帰順したことは「主を背いた行為」として非難の対象となった。
その筆は容赦なく、「人の道を絶ち、二国の笑い者となった」と切り捨てている。
この評価の落差は、潘濬という人物の多面性を物語っている。
彼が実務と信念の両輪で国家に尽くしたことは確かである一方、主君を替えたという事実が、時にその節義すら疑われることもあった。
呉にとっては信義の柱、蜀にとっては忘恩の臣。その功罪は、立つ場所によって映し方が変わるのである。
参考文献
- 三國志 : 呉書十六 : 潘濬傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十五 : 呂岱傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十五 : 鍾離牧傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二 : 吳主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十一 : 朱然傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書七 : 步隲傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書十五 : 楊戲傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻074 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:潘濬 – Wikipedia
潘濬のFAQ
潘濬の字(あざな)は?
字は承明(しょうめい)です。
潘濬はどんな人物?
正直で剛毅な性格の官僚です。権勢に屈せず、法と秩序を守り抜く姿勢で知られました。
潘濬の最後はどうなった?
赤烏二年(239年)に亡くなり、息子の潘翥が爵位を継ぎました。
潘濬は誰に仕えた?
初めは劉表・劉備に仕えましたが、のちに孫権に仕え、呉の重臣となりました。
潘濬にまつわるエピソードは?
孫権が雉を好んで射た際、潘濬は自ら車蓋を壊して諫めた逸話が伝わります。また、呂壹の専横に立ち向かい、最終的に誅殺に導いたことでも知られます。




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