1分でわかる忙しい人のための虞汜(ぐし)の紹介
虞汜(ぐし)、字は世洪(せいこう)、出身は会稽郡余姚、生没年(218~271年)
呉の学者・政治家である虞翻の第四子として生まれた人物である。 南海郡で出生し、父の左遷により幼少期を異郡で過ごした。十六歳の若さで父を失い、故郷の余姚へ戻った。
永安元年(258年)、孫綝が孫亮を廃して孫休を迎えようとする政変の際、群臣の中で唯一正論を述べて綝を諫め、堂々と忠義を貫いた。この勇気ある発言により、孫休の信任を得て散騎中常侍に任じられた。
その後、扶嚴討伐の功績によって交州刺史・冠軍将軍・餘姚侯に封ぜられ、呉南方統治の安定に尽力した。正直で剛毅な人柄で知られ、父虞翻の学識と節義を受け継いだ名臣とされる。やがて交州で病没し、後任は陶璜が務めた。
虞汜の生涯を徹底解説!孫亮を廃した孫綝を諫めた正義の臣と交州奪還の武勲
南海に生まれ、十六歳で父虞翻を喪う
虞汜の父は虞翻で建安二十三年(218年)に南海郡で生まれた。
彼は十一人兄弟の第四子で、他に虞忠、虞聳、虞昺などが有名である。
虞汜が生まれた時、虞翻は「おまえ、正論ばっかり言いすぎなんだよ」と孫権の怒りを買い、交州に左遷されていた。
そんな不遇の任地で生まれた虞汜は、「正義とはなにか」などと考えながら、礼と経に身を委ね、知識の海を泳ぎ続けた。その後虞翻は関羽討伐で活躍しているが、また交州に左遷されている。
嘉禾二年(233年)、父・虞翻が病没し、左遷の地で最期を迎えた父の遺骨とともに、虞汜はようやく本来の郷里・会稽郡余姚へ帰還する。この時、彼は十六歳であった。
孫綝の宮中乱入を諫止した勇気ある発言
永安元年(258年)、呉の実権は重臣・孫綝の手にあった。
彼は若き皇帝・孫亮を廃し、琅邪王・孫休を新帝に立てようと動いていたが、肝心の孫休がまだ到着していないのに、すでに宮中へ入ろうとした。
その場の空気は重く、百官は皆うつむき、誰も声を発さなかった。
その沈黙を破ったのは虞汜である。
「明公は伊尹・周公のごときお方です。王が未だ至らぬうちに宮に入られれば、群臣の心は乱れ、忠義を尽くすことも、後世に名を残すこともできません」
その言葉に群臣は息を呑み、孫綝は一瞬顔をこわばらせた。
だが結局、彼は虞汜の進言を容れ、孫休が到着するまで儀式を待った。
危うい場での一言が、政変の混乱を最小限にとどめたのである。
この出来事には、父・虞翻ゆずりの真っすぐな気質がよく表れている。
曲がったことを嫌い、言うべき時には言う。
簡単そうでいて、官場ではいちばん難しいことだった。
孫休の信任を受け、中常侍として重用される
孫休が即位すると、虞汜は政変の場で見せた忠誠心が高く評価され、散騎中常侍に任じられた。
賀邵・王蕃・薛瑩といった当時の俊英たちとも肩を並べて政務にあたり、彼らとともに孫休政権の文化と行政の整備を担っていた。
慎重だが口をつぐまず、言うべき時には言う。
その姿勢は、皇帝の相談役としての信頼にもつながっていった。
交州を平定し、冠軍将軍として名を残す
建衡元年(269年)、交阯で反乱が勃発した。
呉の朝廷は南方奪還に乗り出し、虞汜には監軍の任が与えられた。
蒼梧太守の陶璜、威南将軍の薛珝、そして海路からは李勗と徐存が進軍するという陸海二方面作戦である。
しかし、李勗の軍は道が荒れて通行できず、案内役の馮斐を「道を間違えた」として斬首。
結局、彼と徐存は軍を引き返してしまい、遠征は不発に終わった。
2年後の建衡三年(271年)、ようやく再遠征が実現する。
虞汜・陶璜・薛珝らによる呉軍は交阯を制圧し、その勢いのまま九真・日南も相次いで平定。
虞汜自身も扶嚴を討ち、各地で勝利に貢献した。
この一連の南征で、長年の混乱がようやく収束し、呉の南方支配が再び確立されたのである。
この功により、虞汜は交州刺史に任命され、「冠軍将軍」の称号を授かる。
さらに故郷の名を冠した「餘姚侯」に封じられ、名実ともに南方経営の柱石となった。
ただ、まさにこれからというとき、病に倒れてしまう。
明確な没年は不詳だが、おそらく建衡三年(271年)のこととされている。
その死後、交州の統治は陶璜に引き継がれる。
政治の中枢で筋を通し、戦地でも職責を全うした男は、派手さはなくとも歴史に深い足跡を残している。
参考文献
- 三國志・呉書十二・虞翻伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 吳書二十 : 王蕃傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書二・呉主傳 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書三 : 孫皓傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 列傳第二十七 羅憲 滕脩 馬隆 胡奮 陶璜 吾彥 張光 趙誘 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻079 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:虞汜 – Wikipedia
虞汜のFAQ
虞汜の字(あざな)は?
字は世洪(せいこう)です。
虞汜はどんな人物?
義を重んじる正直な人物で、権勢を恐れず直言する勇気を持っていました。
虞汜の最後はどうなった?
交州刺史として在任中に病没し、後任は陶璜が引き継ぎました。
虞汜は誰に仕えた?
呉の孫権の後、孫亮・孫休の時代に仕えました。
虞汜にまつわるエピソードは?
孫綝の政変の際、群臣が沈黙する中で唯一正論を述べたことが最も有名な逸話です。





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