1分でわかる忙しい人のための薛珝(せつく)の紹介
薛珝(せつく)、字は不詳、出身は沛郡竹邑、生没年(?~約274年)
薛珝は呉の後期に活躍した将軍であり、学者・薛綜の長子である。
永安年間(258年~264年)には五官中郎将として蜀漢に派遣され、国情の乱れを視察した。
宝鼎二年(267年)には守将作大匠に任じられ、孫和陵の建設を監督した。
建衡元年(269年)以降は威南将軍・大都督として南征軍を率い、監軍・虞汜、蒼梧太守・陶璜と共に交阯(こうし)方面へ遠征した。
建衡三年(271年)には海路から奇襲を敢行し、晋将毛炅を討ち、交州全域を平定した。南征の功を挙げたのち帰還途中で病没したが、呉末期における数少ない勝利を導いた将として知られる。
薛珝の生涯を徹底解説!交阯討伐で呉の威信を取り戻した智将の戦略と近年の墓の発見
呉に仕え、蜀使節・陵墓監督を行う
薛珝は、呉の名士・薛綜の長男である。
薛家はあの孟嘗君の末裔とされ、弟の薛瑩は孫皓政権で選曹尚書・光祿勛を歴任し、『呉書』の編纂にも関わっている。
永安年間(258年~264年)、薛珝は五官中郎将として蜀に派遣される。
もちろん観光目的ではない。外交使節の名を借りて、蜀漢という国家の余命を診断しに行ったようなものだ。そこで彼は、宦官が政治を操り、政務は形骸化、民の暮らしも瀕死状態と診て、孫休に「蜀は衰亡に向かう」と報告したという。
数年後、実際に蜀が滅びたことで、その診断が笑えないほど的中してしまう。
さらに宝鼎二年(267年)には、孫皓の命を受けて守将作大匠となり、孫和の陵墓建設を監督する。
外交官から墓監督へジョブチェンジは、柔軟性というよりカオスである。
威南将軍として南征軍を率いる
建衡元年(269年)、交阯で反乱勃発し、呉の皇帝・孫皓は、いつものように「お前行ってこい」と人選の矢を放つ。で、当たったのが薛珝である。
今度は墓監督から、威南将軍・大都督として任命され、遠征軍の総指揮官に据えられた。
監軍として虞汜、そして蒼梧太守の陶璜まで引っ張り出し、荊州から南へ進軍する。 さらに李勗(李勖)・徐存らが海路から合浦に向かうという、陸と海の二段構えである。
出発の際、通江吏の吾彦という役人がその行軍を見送り、あまりの兵力と編成の大規模さに思わず感嘆したという。
ただし、この時の進軍は李勖が通行困難であるとして、導将の馮斐(ふうひ)を殺し、徐存と共に軍を引き返している。そのため反乱軍との戦いは2年後まで持ち越されている。
分水の敗戦と陶璜の夜襲
建衡三年(271年)、ようやく南征中の呉軍は分水で晋の楊稷・董元らと激突した。
だがここで蒼梧太守・陶璜が敗れ、合浦へと退却し、思わぬ痛手を被る。
これを聞いた薛珝はカンカンに怒った。二将を失う損害に、指揮官としての理性より感情が勝ったのか、陶璜を面前で厳しく叱責したという。
陶璜は「軍が統一されず、思うように動けなかった」と釈明したが、薛珝は聞く耳を持たず、撤退まで視野に入れる事態に発展する。
しかし、ここで陶璜が董元の陣を夜襲で急襲し反撃する。財物を奪ってそのまま船で悠々帰還して面目を保った。
これには薛珝も戦果を認め、先の叱責を撤回し、陶璜を交州の前部督に任じている。
咎を赦してからの人事登用、まるで怒って褒める謎の上司みたいだが、意外と理に適っている。
その後、陶璜は「陸じゃなく、海から攻めるべき」と進言する。薛珝はこの策を採用し、陸路から海路へと作戦を転換する。
初戦の敗北を経て、呉軍は体勢を立て直した。
やはり戦場というのは、勝った者より、失敗から動いた者が強いのである。
海上奇襲と交阯陥落
建衡三年(271年)の夏、呉軍は満を持して交阯への総攻撃を開始する。
陶璜は海上から進軍、出迎えたのは晋の董元軍であった。董元の伏兵を警戒して主力の長戟兵を後方に下げるという消極策に出る。
しかし、そこへ董元は偽装退却で敵をおびき寄せ伏兵を使って攻撃させたが、万全の体制の陶璜の長戟兵がタイミングを見計らって逆襲する。まるで軍事教本にでも載せたいほどの教科書通りの勝利だった。
戦後、陶璜は得た錦物数千匹を交州の豪族・梁奇に贈る。
軍功で得た物資を即座に現地懐柔に使い、恩に感じた梁奇は、兵一万を率いて呉軍に合流した。これにより、薛珝の軍は倍の兵力を手に入れる。
さらに陶璜は、董元軍の中核にいた猛将・解系を心理戦で潰しにかかる。
弟の解象に書簡を持たせ、敵側に送り込み、解象を自軍の車に乗せて行軍させた。
この様子を見た董元らは「解系の弟が敵にいるなら、兄の忠義も怪しい」と早合点し、あろうことか解系を殺害してしまう。
内側から崩された董元軍は混乱し、薛珝と陶璜は交阯を攻略した。さらに晋の将・毛炅を討ち、楊稷・孟幹・爨能・李松らを捕らえた。
一度の敗戦から立ち直った呉軍は、ついに交州の中核を制圧し、南方戦線の主導権を握る。
この一連の作戦において、陶璜の奇策が光ったのは事実だが、それを全軍規模で機能させたのは薛珝の統率力に他ならない。
策略と統率力の融合、それがこの勝利の正体だった。
南方平定と薛珝の死
同年、交阯を陥落させた呉軍はその勢いのまま、九真・日南の両郡も次々に降服させた。この一連の南征によって、呉は交州全域を再掌握し、長く続いた南方の反乱は、ついに完全終結を迎える。
この戦果は、呉の末期において最大級の軍功とされ、歴史のラストスパートを飾るにふさわしい戦果だった。
戦後、監軍として同行していた虞汜は、その功により交州刺史・冠軍将軍となり、餘姚侯に封ぜられる。だが、栄光の直後に病に倒れ、交州刺史の任は陶璜へと引き継がれた。
このあたり、英雄譚にありがちな「功を成し遂げた者に限って命が短い」パターンが容赦なく襲いかかっている。
そして、総指揮を執った薛珝もまた、凱旋途上で病に倒れ、鳳凰三年(274年)に没した。
華々しい突破役でもなければ、名将として讃えられるわけでもない。だが、全体をまとめ、戦を進める役がいなければ軍は動かない。薛珝は、そういう立場を最後まで引き受けた。
2024年、南京市江寧区にて薛珝の墓とみられる墳墓が発見されている。
墓中から出土した青瓷魂瓶には、確かに「鳳凰三年(274年)」の文字が記されており、長らく271年没となっていたが、274年に改められた。
時を越えてなお、歴史は誰かが思い出すたびにもう一度、声を持ったのだった。
参考文献
- 三國志 : 呉書八 : 薛綜傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書三 : 孫皓傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十四 : 孫和傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 列傳第二十七 陶璜 吾彥 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻079 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:薛珝 – Wikipedia
薛珝のFAQ
薛珝の字(あざな)は?
薛珝の字は史料に記されておらず不明です。
薛珝はどんな人物?
薛珝は学者の家に生まれ、冷静な判断と指揮能力を持つ将でした。蜀の滅亡を予見するなど政治的洞察力も優れていました。
薛珝の最後はどうなった?
交阯を平定したのち帰還途中で病没しました。没年は明確でないが、おおむね天紀年間(約274年)頃とされています。
薛珝は誰に仕えた?
薛珝は呉の皇帝・孫皓に仕え、守将作大匠や威南将軍・大都督などを歴任しました。
薛珝にまつわるエピソードは?
分水で敗れた陶璜を咎めたものの、陶璜が夜襲で功を挙げたため赦し、彼の海路奇襲策を採用しました。この判断が交阯平定につながったとされます。




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