1分でわかる忙しい人のための薛瑩の紹介
薛瑩(せつえい)、字は道言(どうげん)、出身は沛郡竹邑、生没年(?~282年)
呉末期の学者・政治家・史家であり、『呉書』編纂の中心人物の一人である。父は名儒の薛綜、兄に薛珝を持つ。
若年より学問に秀で、秘府中書郎として仕えたのち、韋昭・華覈らと共に『呉書』を編纂した。孫休期には散騎中常侍として諫官を務め、公正清廉と称えられた。孫皓の時代には左執法、選曹尚書、太子少傅を歴任するが、聖谿開鑿の失敗や北伐敗戦の責任を問われて二度にわたり流罪となる。
しかし華覈の上疏により召還され、左国史として再び『呉書』を主宰した。晩年は光祿勛として朝政に参与し、法の緩和や民政の軽減を諫めるなど、温厚な儒臣として知られる。
天紀四年(280年)、呉滅亡に際しては胡沖と共に降書を起草。晋に降ったのち、武帝に孫皓滅亡の理由を問われ、「小人を近づけ、刑罰を妄加し、大臣を信じなかったため」と冷静に答えた。太康三年(282年)に没し、子の薛兼がその学統を継いだ。
薛瑩を徹底解説!『呉書』を編んだ文臣が見た孫皓の暴政と呉の滅亡
名門の家に生まれた学子
薛瑩の家は孟嘗君の末裔とされ、代々学問に通じ、儒者の家系として知られていた。父の薛綜は呉の大学者であり、経書と史学の双方に精通した人物である。兄に交州征伐で名を挙げた薛珝がいる。
その学統のもとに生まれた薛瑩は、若くして秘府中書郎に任じられ、文才と識見をもって朝廷に仕えた。
当時の呉では、儒者の登用が重んじられており、薛瑩の才は早くから注目を集めた。彼は父の名声に倣うことなく、自らの学を磨き、やがて史書編纂に携わる人材として抜擢されることになる。
孫亮時代に『呉書』編纂に参加
孫亮の時代、太史令の韋昭が『呉書』の編纂を命ぜられた。薛瑩は周昭・梁廣・華覈と共に史官に選ばれ、旧記を調べて往事を整理し、事件の前後を記した。
薛瑩は文筆にすぐれ、史料を正す姿勢で知られた。若き日の彼が史官として筆を執ったこの仕事は、のちに陳寿が『三國志』を編む際の資料の一つともなった。
孫休の元で清廉な諫臣として名を挙げる
孫休が帝位に就くと、朝廷では儒臣を重んじる風が高まった。薛瑩は賀邵・虞汜・王蕃らと共に散騎中常侍に任ぜられ、さらに附馬都尉の号を加えられた。いずれも帝の側近として諫めの職にあたる重任である。
この任命について『三國志・王蕃傳』は「時論清之」と伝える。当時の人々が彼らを清廉で正しい者と称えたことを示すものである。薛瑩もまた、直言をもって君主の誤りをただし、派閥に与せぬ姿勢で知られた。
数年後、薛瑩は病を理由に官を辞している。
孫皓の即位と聖谿開鑿計画失敗
元興元年(264年)、孫休の死後に孫皓が帝位に就いた。その中で薛瑩は左執法に任じられ、のちに選曹尚書へと昇進した。
建衡元年(269年)、孫皓が孫瑾を太子に立てると、薛瑩は太子少傅を兼任した。
建衡三年(271年)、廷臣の何定が「江と淮を運河で通じれば、国の富を増す」と進言した。孫皓はこの建議を容れ、薛瑩に命じて聖谿の開鑿を実行させた。彼は一万人の民を率いて工事にあたったが、路中に盤石が多く、掘削は思うように進まなかった。
数か月の作業ののち、ついに完成の見通しは立たず、工事は中止された。薛瑩はその責を一身に負うことはなく、ただ任務を解かれ、武昌左部督として外地の軍務を管掌するよう命じられた。
建衡三年(271年)頃、孫皓は薛綜(父)の遺した文書を惜しみ、薛瑩にその続きを書くよう命じた。薛瑩は詩を献じて応えた。
薛瑩は、先祖が漢に仕え、代々官職に就いてきたこと、父・薛綜が乱世に遭い、国が滅びた中で蜀に流れ着いたことを述べる。大皇(孫権)が基を開き、恩を施したことで、父は合浦太守となり、中央に召されて高位に就いた。
自分は才能に乏しく、農耕を志していたが、聖朝の仁徳により父の功績が追録され、自分も栄誉を受けた。南征の命を受け、軍を率いたが、自分は愚かで先人に及ばない。亡き父を思い、恥じ入りながらも忠誠を誓う内容である。
晋への遠征と流罪
鳳凰二年(273年)、孫皓は国の衰えを取り戻そうと、晋への大遠征を命じた。魯淑が弋陽を攻め、薛瑩は新息を攻撃する。十万の大軍と聞けば壮観だが、実情は「士気ゼロの張り子の虎」であった。
晋の王渾はこの様子を見抜き、正面からは動かず兵を温存。やがて呉軍が油断した隙に、密かに淮水を渡って側面を突いた。結果は言うまでもなく、呉軍は崩れ、弋陽も新息も総崩れとなる。
もはや戦いというより、集団迷走だった。
敗戦の結果もあったかもしれないが、孫皓は突如として過去の「聖谿の開鑿の失敗」を蒸し返した。建議者の何定はすでに処刑されていたため、矛先は薛瑩に向けられて、獄に下された。大司農の楼玄も別件であるが、同時に流罪となった。
陸抗が二人のために上疏し、「彼らは忠実な儒臣であり、罰するより用いるべき」と訴えたが、孫皓の耳はふさがっていた。結局、薛瑩は広州へ流罪となった。
韋昭の死と『呉書』の主宰
鳳凰二年(273年)、呉書を共に編纂した韋昭が帝の暴政を諫めた事により、孫皓の逆鱗に触れて誅殺された。学者官僚たちは、この冷ややかな現実に凍りついた。
右国史の華覈は涙ながらに上疏し、「少帝(孫亮)の頃、韋昭・周昭・薛瑩・梁廣・自分の五人で歴史を整えたが、今や昭と廣は亡く、瑩は流罪にある。完成間近の書が奏上できぬ。文章の才は薛瑩が随一、彼を戻すべきだ」と訴えた。
孫皓もさすがに呉書の完成は見たかったのか、華覈の言を容れて薛瑩を召還し、左国史として『呉書』の再編纂を命じた。
こうして薛瑩は流罪の地から戻り、再び筆を執る。仲間たちが命や自由を失ったあと、なお原稿と向き合い続けたその姿は、まるで一人残された灯火のようでもあった。書を完成させることが彼の生き残りに課された使命だった。
二度目の流罪から光祿勛へ
『呉書』の編纂を再び主宰していた薛瑩であったが、やがて思いがけぬ事件に巻き込まれた。選曹尚書の繆禕は薛瑩と同郡の出身で、職務において信念を曲げない人物であった。その剛直さを妬む者が多く、やがて讒言によって衡陽太守に左遷される。
繆禕は任地に赴く前に薛瑩のもとを訪ね、辞意を述べて去った。ところがその訪問が密告され、「禕は罪を恐れず、しばしば賓客を集めて薛瑩のもとに会した」との讒が上がった。孫皓はこれを信じ、繆禕を獄に下し、さらに薛瑩をも連座させて再び広州へ流した。
二度目の流罪の後、薛瑩はふたたび召されて中央に復職した。
当時の法政は錯雑で、刑罰は重く、徭役も過酷であった。薛瑩はしばしば上疏して「刑を緩め、役を減じ、百姓を養うべし」と訴えた。その意見のいくつかは孫皓に採用され、民政の一部に反映されたという。 やがて彼は光祿勛に昇り、九卿の列に加わった。
呉滅亡前夜の建策
天紀四年(280年)、晋の大軍が長江を越え、建業に迫った。国の命運は風前の灯。宮中は混乱し、誰もが先を語れずにいた。酒で現実逃避する者、沈黙で己を守る者、その中でまだ筆を執る者がいた。
光祿勳の薛瑩と中書令の胡沖である。二人は最後の賭けとして、孫皓に「三方向の将軍、王濬・司馬伷・王渾へそれぞれ降書を送り、内部から晋軍の足並みを乱すべし」と建策した。その降文を起草したのが、薛瑩だった。
その策は現実の流れを止めるには遅く、晋軍は整然と長江を渡り、呉はなすすべなく崩れた。薛瑩の降書は無力だったが、混乱の渦中で唯一、筋の通った提案でもあった。
国家が沈むとき、多くは狂気か沈黙に包まれる。だが、その中で一人、冷静に策を立て、筆を置いた者がいた。薛瑩の建策は、滅びゆく国に残された、最後の理性の痕跡だった。
晋降伏後と晩年
呉が滅んだあと、薛瑩は孫皓とともに晋に降り、洛陽へ送られた。司馬炎は彼を召し出し、散騎常侍に任じた。学者としての筆力は、敵味方を問わず通用したらしい。
ある日、武帝が穏やかに尋ねた。「孫皓はなぜ国を失ったのか?」 これに対し、薛瑩は少しもためらわず答えた。 「小人を重んじ、刑罰を乱し、大臣を信じず、臣下はみな身の保全ばかりに腐心しました。それが滅亡の原因です。」
見事な分析に晋の皇帝も、元呉臣のこの率直さに免じて、以後は干渉せず、薛瑩には平穏な余生が与えられた。
死去と評価
太康三年(282年)、薛瑩は洛陽で没した。呉の末期から晋の初年、戦乱と政変の波間を生き抜いた人物である。筆と理屈を武器に、戦場なき戦いを繰り返した人生だった。
陸凱は彼を「社稷の楨幹、国家の良輔」と称え、陸抗も「父の道を継ぎ、名行を守った者」と讃えた。筆だけで信を勝ち取る人間など、そうそういるものではない。
同僚の華覈は「文章の妙を得て、同僚中の冠首」と絶賛。華麗なだけでなく、史書にふさわしい厳格さを備えた文体であったという。
ただし、『三國志』の陳寿は少し冷ややかで、薛瑩の才能を認めつつも、「暴君のもとで何度も高位に就いたのは、君子としてどうなのか」と疑問を呈している。才ある者が生き延びれば「節を屈した」と言われ、死を選べば「融通が利かぬ」と評される。どちらに転んでも批判はついて回るのが、儒者という存在の哀しさである。
彼の死後、息子の薛兼もまた晋朝で太常に昇り、学統は続いた。国は滅びても、筆の系譜は残った。
参考文献
- 三國志 : 呉書八 : 薛綜(附子瑩)傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 吳書三 : 孫皓傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二十 : 華覈傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二十 : 韋曜傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書七 : 步隲傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻081 – 维基文库,自由的图书馆
- 晋書 : 列傳第十二 王渾 王濬 唐彬 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:薛瑩 – Wikipedia
薛瑩のFAQ
薛瑩の字(あざな)は?
字は道言(どうげん)です。
薛瑩はどんな人物?
学問に秀でた文人でありながら、諫言を恐れぬ正直な官僚でした。暴政のもとでも理を曲げませんでした。
薛瑩の最後はどうなった?
晋に降伏した後、太康三年(282年)に洛陽で没しました。
薛瑩は誰に仕えた?
呉の孫亮・孫休・孫皓の三代に仕え、呉滅亡後は晋の武帝に仕えました。
薛瑩にまつわるエピソードは?
韋昭誅殺後、華覈が「薛瑩を召還すべし」と上疏し、彼が再び史官に戻って『呉書』を完成させたことが有名です。







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