鄧当:孫策麾下の古参の勇将で呂蒙の出発点となった義兄

一般武官2

鄧当とは?孫策に仕え、義理の弟の呂蒙を導いた江東の勇将

孫策に仕えた勇将・鄧当の山越討伐

鄧当(とうとう)、字は不詳、出身は不詳、生没年(?~?) 鄧當と書くが、鄧当で統一する。 鄧当は後漢末期、孫策麾下の古参の勇将で呉の名将・呂蒙の義兄として知られる人物である。
初平四年~興平元年頃(193~194年)、江東では山越族がたびたび反乱を起こし、孫策は各地に将を派遣して鎮圧にあたらせていた。
その中にいたのが鄧当で、江東の地を踏みしめ、汗と血を流して平定に尽くしていた。

そんな鄧当のもとへ、ある日、血気盛んな少年の呂蒙が転がり込んでくる。 その後、十五、六歳の少年であったが、鄧当の軍にこっそり加わり、賊討伐に同行した。
当然、鄧当は腰を抜かし、「何考えてんだ! 子どもが戦場に来るな!」と叱りつけるが、呂蒙は顔色ひとつ変えない。結局、鄧当はこの件を呂蒙の母に報告することに。

激怒した母は罰を与えようとするが、ここで呂蒙が放ったのがこの一言。
「貧乏のままじゃ終われません。『虎穴に入らずんば虎児を得ず』命がけで挑まなきゃ、富も名も手に入らないでしょう?」
これには母もグゥの音も出ず。呂蒙の覚悟に根負けして、しぶしぶ黙認するしかなかった。
そして鄧当も、この「とんでもない弟」を、仕方なく戦場に連れていくことになる。

呂蒙の暴走と鄧当の死後の継承

とはいえ、呂蒙の暴走はまだまだ序章。
ある日、鄧当の部下が「こんなガキが軍にいるとか冗談だろ?」と呂蒙を侮辱する。 呂蒙はブチギレて、刀を抜いてズバンと斬ってしまい、討伐軍から犯罪者にジョブチェンジした。

慌てた呂蒙は逃亡し、同郷の鄭長の家に身を隠したが、後に自ら校尉・袁雄のもとへ出頭する。 しかし、袁雄は呂蒙を見てすぐに引き渡さず、機を見て上申したことで、孫策と直接面会する。 孫策は呂蒙を見て、罪を赦されるどころか、肝の据わった若者として近臣に取り立てる。
さすが見る目のある男、孫策は器がデカい。

数年後、鄧当が病に倒れると、張昭の推薦で呂蒙がその軍を引き継ぐことになる。
別部司馬として初めて正式な軍務に就いた。 江東の無名の少年が名将となる最初の扉を開いたのは、戦場の兄貴・鄧当だったのである。

そして、世間はこう言った。 「呂蒙は、兄貴に恵まれたな。」

参考文献

鄧当のFAQ

鄧当の字(あざな)は?

鄧当の字(あざな)は史書には伝わっていません。

鄧当はどんな人物?

鄧当は孫策に仕え、山越討伐に功を挙げた武将です。勇敢で忠義に厚く、呂蒙の成長を支えた人物として知られます。

鄧当の最後はどうなった?

鄧当は在職中に病没しました。その死後、呂蒙が張昭の推薦で鄧当の軍を引き継ぎました。

鄧当は誰に仕えた?

鄧当は後漢末期の孫策に仕えていました。

鄧当にまつわるエピソードは?

若き呂蒙が密かに鄧当の軍に従軍し、それを叱責したが止められず、最終的に呂蒙が孫策に才能を見出されたという逸話が有名です。

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