1分でわかる忙しい人のための蔣欽(しょうきん)の紹介
蔣欽(しょうきん)、字は公奕(こうえき)、出身は揚州九江寿春、 生没年(?~219年)
後漢末期に活躍した呉の将軍であり、孫策・孫権の両代に仕えた名将である。
興平二年(195年)に孫策へ従い、丹楊・呉郡・会稽・豫章の四郡を平定して江東制覇に貢献した。 戦場では勇猛で知られ、建安二十年(215年)の合肥の戦いでは張遼の七千騎に襲われた孫権を救い、その功を称えられた。
また、孫権に学問を勧められてからは、呂蒙と共に「富貴にありながら折節に学び、義を重んずる国士である」と称されるほど読書に励み、智勇兼備の将として知られた。
建安二十四年(219年)に呂蒙と共に関羽を討伐後の凱旋中に病没する。孫権は素服を着て哀悼し、家族に厚い恩賞を与えた。節約を重んじ質素を貫いた忠臣として、後世まで名を残している。
蔣欽を徹底解説!孫策・孫権を支えた智勇の虎臣の生涯
若き日に孫策へ仕え江東制覇を助ける
興平二年(195年)、若き蔣欽は同郷の周泰と肩を並べて江東へ赴き孫策の陣に加わった。
別部司馬として最初の肩書きを得ると、以来、孫策の転戦に随行し続ける。
丹楊、呉郡、会稽、豫章と江東の四郡を駆け抜けるたびに、蔣欽の槍先は功を刻んだ。
その働きが認められ、治安維持を任されて葛陽尉へ昇進。さらに三県の長官を歴任し、地方統治の手腕も発揮する。
山賊討伐でも成果を挙げ、西部都尉の職に就いたころには、「戦地専門の修羅場請負係」として、呉の土台を固めていた。
孫権配下で賊討伐
孫策の死後は引き続き孫権に仕えた。
東冶五県で火を吹いた呂合・秦狼の叛乱には、呂岱と共に現地入りして掃討し、「討越中郎将」に昇進する。
続いて賀斉と共に黟(い)賊も平定し、名刺に「賊討ち専任」とでも書けるくらいの信頼を集めていた。
私情を超えて徐盛を推挙する義将の器
孫権が政権を固めつつあった頃、蔣欽は宣城に駐屯していた。
その最中、豫章方面の賊を討伐する任にあたり、蔣欽の部下の一人が罪を犯した。
これを知った蕪湖県令の徐盛は、即座に斬首を求めて上奏する。
しかし蔣欽は遠征中であり、孫権は事を荒立てぬよう処罰を見送った。
徐盛は「これは恨みを買ったに違いない」と内心おびえていたという。
だが、意外なことが起きる。
数日後、蔣欽は孫権の前で徐盛を高く評価し、重用を進言したのだった。
驚いた孫権が、「あの男はお前の部下を斬ろうとしたぞ。それでも推すのか?」と尋ねると、蔣欽はためらわず答える。
「国家の柱を選ぶ場に、私怨を持ち込んではなりません。徐盛は忠義に厚く、器のある男です。今この時に彼のような才を埋もれさせるのは、大きな損失です。」
この一言に孫権も感服したという。
それ以来、徐盛は蔣欽の器量に敬意を抱き、終生その徳を語り続けた。
蔣欽の名は、戦場の手腕のみならず、人物を見抜き推す義の将として、さらに高まっていった。
合肥撤退戦で蔣欽、主君の盾として奮戦
建安二十年(215年)、孫権は魏の合肥を攻めるべく大軍を率いた。蔣欽も当然、その行列に列する。
だが戦の最中、疫病が猛威を振るい、作戦は維持できず撤退を決断した。
蔣欽はその撤退部隊の後衛、主君の背後を守る殿軍という最も危険な役割を引き受けた。
孫権が逍遙津の北に差し掛かると、待っていましたとばかりに魏の名将・張遼が奇襲を仕掛けてくる。
護衛は虎士(親衛隊)千余人のみであったが、蔣欽・呂蒙・甘寧・凌統の四将はひるまない。
左右へ展開、馬上から矢を撃ち、突撃を跳ね返し、何度も魏兵を押し止める。
死線を幾度も越えた末、孫権はようやく長江へ退くことに成功し、呉軍は決定的な壊滅を免れた。
蔣欽は勝利の英雄ではないかもしれない。だが、この撤退戦で見せた忠義と勇気は、確実に呉の民の胸に刻まれた。
第三次濡須口の攻防戦
建安二十二年(217年)、曹操が長江を南下、大軍を率いて濡須口へ迫る。
ここを抜かれれば呉の中枢が危うい、まさに国運をかけた防衛線だった。
孫権は呂蒙と蔣欽を節度(指揮統括)に任じ、この地を死守せよと命じる。
呂蒙と蔣欽はさっそく旧城塢の拡張に取りかかり、万張の強弓と硬弩で防備を強化する。
曹操軍相手に、矢を降らせ、矢を受け、濡須が壁となり、徐盛が前線で踏ん張り、周泰が側面から加勢し、ついに反撃に転じた。
結果、曹操軍は撤退を余儀なくされ、濡須を守りきった。
この功により、蔣欽は蕩寇将軍に昇進し、引き続き濡須の防衛を任さた。 のちに中央へ召喚されて右護軍に任命されると同時に、訴訟を管轄する任務もかねて、軍政と司法の両面を担うこととなる。
凱旋の帰路に病没した呉の忠臣
建安二十四年(219年)、孫権は関羽討伐の命を下し、呂蒙が奇襲作戦を展開した。
蔣欽は水軍を率いて沔水を北上し、関羽の退路を断つという重要な任務を担った。
関羽軍は包囲されて動揺し、敗走を余儀なくされ、荊州南域はついに呉の支配下となった。
この作戦における蔣欽の貢献は極めて大きく、勝利に欠かせぬ役割を果たしたといえる。
だが、戦を終えて凱旋の途中、蔣欽は突如として病に倒れ、そのまま帰還することなく没した。
正確な没年齢は伝わっていないが、その死は孫権にとって大きな痛手となった。
孫権は深く嘆き、白喪服をまとってその忠義を悼み、
さらに蕪湖の民二百戸と田二百頃を蔣欽の妻に賜り、遺族を手厚く慰撫した。
倹約を貫き、節度を守った忠臣
戦場では無双の働き、官位も「右護軍」に昇進になった頃の話。 誰もが「いい暮らししてるんだろうな」と思うところだが、蔣欽は違った。
孫権がある日ふらっと彼の屋敷を訪ねてみると、そこには予想外の光景が広がっていた。
母の寝具は薄い布帳、妻妾の衣は上質な絹ではなく粗布で、「…ん?将軍の家じゃなくて、村の隠者の家に来ちゃった?」
と思わず戸惑う孫権を前に、蔣欽はどこ吹く風。
孫権も感心してこう言った。
「功ある者がこれほど質素を貫くとは、実に珍しい。」
感動した彼はすぐに命じて、母のために綿入りの寝具と帷帳を整え、妻妾には錦繍の衣を仕立てさせた。 この出来事は、蔣欽が地位や恩賞に慢心することなく、常に節度を重んじた人物であることを示している。
蔣欽の後継と行方
蔣欽の没後、その家は長子の蔣壹が継いだ。孫権は蔣欽の功を顧みて蔣壹を宣城侯に封じ、父の兵を統率させた。
蔣壹は若くして勇敢で、陸遜に従い夷陵の戦に参加し、劉備軍と交戦して功を立てた。
その後、南郡で魏軍と対峙した際に激戦の中で戦死した。
蔣壹には子がなく、その弟の蔣休が家督と兵権を継いだ。
しかし蔣休は後に罪を犯し、兵権を剥奪されて失脚した。
このため蔣氏の軍は絶え、家の勢力は衰えた。忠勇をもって生きた父蔣欽の家も、次世代にはその志を継ぐ者がなかった。
孫権・陳壽・陸機が称えた評価
蔣欽の死後、その人となりと功績は主君孫権をはじめ、後世の史家たちからも高く評価された。
孫権は武人たちにも学問を奨励しており、呂蒙と蔣欽に読書を勧めた。両者はこれを機に勉学に励み、『孫子』『六韜』『左伝』『三史』などを手に取り、昼夜を問わず研鑽を重ねた。
孫権は二人の変化を見て感嘆し、「人は成長しても学に励む者は少ない。呂蒙と蔣欽は富貴にありながら折節に学び、義を重んずる国士である」と称えた。
こうして蔣欽は武勇だけでなく知略にも通じた将軍として名を高め、後世には「智勇兼備の将」と評された。
また、『三國志』を著した陳寿は、蔣欽を「江表の虎臣の一人」と記し、孫氏に厚く遇された将として名を挙げている。
さらに西晋の文人・陸機は、「韓当・潘璋・黄蓋・蔣欽・周泰らはその力を尽くし、江東の基を支えた」と評した。
この三者の言葉はいずれも、蔣欽が勇だけでなく学を以て名を成した将であったことを後世に伝えている。
戦って、守って、学んで、支えて、どこを切っても武骨と誠実の金太郎飴。
剣と書を両手に抱えた蔣欽は、今もなお江東の武勲と共に語り継がれている。
参考文献
- 三國志 : 呉書十 : 蔣欽傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書九 : 呂蒙傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十 : 周泰傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二 : 呉主伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻068 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻067 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:蔣欽 – Wikipedia
蔣欽のFAQ
蔣欽の字(あざな)は?
蔣欽の字は公奕(こうえき)です。
蔣欽はどんな人物?
蔣欽は智勇兼備でありながら、謙虚で学問を好む人物でした。私情を捨てて人材を推挙する度量を持ち、孫権からも高く評価されました。
蔣欽の最後はどうなった?
建安二十四年(219年)に関羽討伐からの帰還途中で病没しました。孫権は深く哀悼し、家族に恩賞を与えました。
蔣欽は誰に仕えた?
蔣欽は孫策・孫権の二代に仕え、江東の平定と呉の防衛に貢献しました。
蔣欽にまつわるエピソードは?
部下をめぐり対立した徐盛を、私怨を超えて推挙した逸話が有名です。孫権がその行動を称賛し、後世まで義将として名を残しました。
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