1分でわかる忙しい人のための范慎(はんしん)の紹介
范慎(はんしん)、字は孝敬(こうけい)、出身は揚州広陵、生没年(?~273年) 范慎は三国時代の呉に仕えた後期の重臣である。黄龍元年(229年)に孫権が即位した際、太子孫登の補佐官として選ばれた。その後、孫登の死後も四代にわたり仕え、治軍に厳正で知られた人物である。特に武昌左部督としての統率力は群を抜き、孫皓からも一目置かれた。晩年には太尉にまで昇進し、呉の政治と軍事を支えた功臣として知られる。諸葛恪との論争に見られるように、仁義を重んじる清廉な性格であった。著書『矯非』二十篇を残し、後世には忠義と友誼を兼ね備えた理想的官人として高く評価された。
范慎を徹底解説!孫登の賓客から始まった四朝を生きた文臣、孫皓が畏敬した勲徳の人
太子・孫登の賓客となり多士に選ばれる
黄龍元年(229年)、孫権が帝位につき、長子の孫登を皇太子に立てた。
このとき、范慎は皇太子の補佐として賓客として仕えることとなった。
そこに集められたのが、当代随一の才人たちで、諸葛恪・張休・顧譚・陳表・謝景・刁玄・羊衜など。
人々は彼らを「多士」と称した。文才あり、論理あり、弁も筆も立つ。いわば学識界のフルコースである。 当代屈指の俊才が並び、いずれも太子の教育と政務補佐を担当した。
忠義を尽くし彼は太子の深い信任を受け、諸葛恪・張休・顧譚ら「三益」とも厚い友情を結び、当時の人々から高く評価されていた。
諸葛恪との仁義論争
諸葛恪が孫権に馬を献じた際、その馬の耳が削がれていた。これを見た范慎が言った。
「馬も天の気を受けて生きる尊いものです。その耳を傷つけるのは、仁の心に反するのではありませんか。」
諸葛恪はすぐに答えた。
「母親が娘を愛して耳に穴をあけ、珠を飾る。それを仁に背くと言われますか。」
范慎は言葉を失い、孫権は杯を掲げて「一本!」とでも言わんばかりの笑顔を浮かべ、座は笑いに包まれた。
暴君・孫皓を怖れさせた清廉な抑止力
嘉禾四年(241年)、太子孫登が早世し、その後侍中に任じられている。
月日は流れ、甘露元年(265年)九月、呉主・孫皓は都を建業から武昌へ移すという大胆な模様替えを決行する。 その時、范慎は武昌左部督という、「最前線の現場監督」に就いていた。 その統率は咳払いひとつで政務を整え、槍声ひとつで軍備を引き締める。
武昌は一躍、呉の新しい心臓部となった。政治と軍事の合流点。 范慎はその地の支え手として振る舞い、厳格ながらも公正を欠かず、秩序と鋭さを併せ持った司令塔となった。
『呉録』に曰く、孫皓は范慎を怖れながらも語りかけられず、命令を発するにもためらったという。 暴走しかねぬ暴君孫皓に、彼の存在は理性を保たせる最後の歯止めであった
全軍が涙した太尉・范慎の最期と継承
建衡三年(271年)、孫皓は詔を発し、范慎を三公の一つである太尉に任命した。
その詔には「慎は功績と徳がともに優れ、朕が敬い頼む者である。上公に登らせ、衆望に応えるべきである」と記されていた。
これは范慎が長年にわたり忠節と清廉を貫き、士人や将兵の信望を広く集めていたことを示している。
しかし彼は、自らが長く軍職にあったことを悔い、老齢を理由に退任を願い出た。
その際、彼を慕う将兵は皆涙を流し、「舉營為之隕涕」(全軍が泣いた)と伝えられている。
范慎はまもなく鳳凰二年(273年)に没し、子の范耀が跡を継いだ。
「太平御覧」には、彼の娘が孫奇に嫁いだと記されている。
また「呉録」は、鳳凰三年(274年)に没したとも伝えている。
著作と人物評
范慎は政務と軍務に励む一方で、学問にも心血を注いだ人物である。
彼は『矯非』二十篇という論著を残し、誤りをただし、不正を正すことを主題とした。
言葉は柔らかくとも、筆の芯には鉄のような正義が通っていた。
その筆致には、権勢や流行に屈しない信念がにじむ。
胡綜は「学問を深く究め、古の賢者・游と夏に並ぶのは范慎である」と高く評価した。
一方、羊衜は「学問と人格には深みがあるが、他人の意見や違いを受け入れる度量に欠ける」と評している。
賛否は分かれても、彼の誠実さを疑う者はいなかった。
その生涯は、理想を胸に現実と対峙した一人の官人の証といえる。
范慎の名は、権力の渦の中にあっても濁らず、歴史の記録に長く残った。
参考文献
- 三國志 : 呉書十四 : 孫登傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書三 : 孫皓傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十九 : 諸葛恪傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 全上古三代秦漢三國六朝文 : 巻六十四·呉二 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:范慎 – Wikipedia
范慎のFAQ
范慎の字(あざな)は?
范慎の字は孝敬(こうけい)です。
范慎はどんな人物?
范慎は温厚で誠実、仁義を重んじる人物でした。暴君孫皓が畏敬したことで知られています。
范慎の最後はどうなった?
建衡三年(271年)に太尉に任命され、鳳凰二年(273年)に没しました。子の范耀が跡を継ぎました。
范慎は誰に仕えた?
范慎は孫権・孫亮・孫休・孫皓の四代にわたり呉に仕えました。
范慎にまつわるエピソードは?
諸葛恪が馬の耳に印をつけたことを非難し、仁義をめぐって論争した逸話が有名です。
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